第2話 島に眠る記憶

 放課後のチャイムが鳴る少し前。

 教室の窓の外では、潮風が吹いていた。

 窓枠に積もったチョークの粉がふわりと舞い、光の中で消えていく。


 少年――麒麟は、ノートに書かれた言葉をじっと見つめていた。

 黒板には今日の授業の題名がまだ残っている。


 > 「国生み神話」


 先生の声が頭の奥で蘇る。

 「昔、この国は海だけだった。

  そこに天から降りた一組の男女が、大地を生み、命を創った――」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。

 知らないはずなのに、どこか懐かしい。

 目を閉じると、波打ち際に立つ二つの影が浮かぶ。

 風の音、白い光、そして――始まりの匂い。


 「……キリン」

 肩の上で小さな声がした。

 小さな馬のような光の獣――リンが姿を現していた。

 透明なたてがみが窓から差し込む光を受けて輝く。


 「ぼーっとしてどうしたの?」

 「授業の話、聞いてた?」

 「うん、“国生み神話”。……でもさ、あれ、本当に昔話なのかな」


 リンは机の上に降りて、蹄のような光を軽く鳴らした。

 「“話”で終わらせるには、少し出来すぎてるよね」

 「出来すぎてる?」

 「だって、何もない海に大地を生んで、命を育てたなんて――まるで誰かの“記録”みたい」


 麒麟は思わず笑った。

 「リン、それじゃあ神話じゃなくて、ドキュメンタリーだよ」

 「案外、そうかもしれないよ」

 リンの尾がふわりと揺れる。

 その光が机の上を走り、島の形を描いた。


 「この島……ほんとは“思い出”でできてるの」

 「思い出?」

 「うん。大地も風も、誰かが残した記憶の断片。

  長い時間をかけて、かたちになった」


 麒麟は少し考え込んだ。

 学校で習った神話。

 けれどリンの言葉を聞くと、それがただの物語には思えなくなってくる。


 「リン、じゃあその“天から降りた二人”って……本当にいたの?」

 「さあね。でも、あなたの中にも同じ“光”が流れてる」


 リンの声が少し柔らかくなった。

 「それにね、神話って、不思議なもの。

  誰も“証拠”を見てないのに、みんな“覚えてる”んだよ」


 麒麟は頷いた。

 窓の外では、夕方の光が海に溶けていく。

 潮の匂いの中に、少しだけ鉄のような冷たい香りが混ざった。


 「リン、風の匂いが変わった?」

 「うん。……西の方から、新しい風が来てる」

 リンのたてがみがゆっくり揺れる。

 「この風、島の中の誰かを“起こす”風だよ」


 「誰か?」

 麒麟は聞き返す。

 リンは笑わず、ただじっと空を見つめていた。

 「同じ“光”を持つ誰か。きっと、あなたが会うべき人」


 教室に沈む夕暮れの光が、少しずつ赤から群青に変わる。

 窓の外で、鳥の群れが帰っていく。

 静けさの中で、ふと風が流れ込んだ。


 カーテンがやわらかく膨らみ、机の上の紙がめくれる。

 黒板のチョークの粉が舞い上がり、陽に照らされて煌めいた。

 麒麟が顔を上げたとき、その光の粒がまるで“文字”のように並んで見えた。


 > 『目覚めの風、西より来る』


 リンの尾が小さく震えた。

 だが、その表情は不安ではなく――安堵のようにも見えた。


 「……リン」

 「うん、わかってる。これは“始まり”の合図」

 リンは静かに微笑んだ。

 「この風は、夜の影を払うために吹いたの」


 その瞬間、外の雲が裂け、海の上に光が差し込む。

 夕暮れに残っていた微かな闇が、風に押されて消えていった。

 街灯が順に灯り、港の灯が遠くで瞬き始める。


 「ねえリン」

 「なあに?」

 「この島……やっぱり何かを隠してるんだね」

 「うん。でも、隠してるのは“真実”じゃなくて、“記憶”だよ」


 リンの尾が揺れ、金色の光を散らした。

 その光が、麒麟の胸の勾玉に吸い込まれる。


 海からの風がもう一度吹く。

 カーテンが静かに揺れ、空気が澄んでいく。

 潮の音がどこか遠くで響いた。


 ――その風の中に、微かに誰かの笑い声が混じった気がした。


 やわらかくて、心を撫でるような笑い。

 まるで夜の始まりを祝福するように。


 リンが目を細め、そっと囁いた。

 「聞こえた? “白い風”が笑ってる」


 麒麟は頷く。

 西の空に目を向けると、そこに一筋の風が見えた。

 海と空の境界をかすめ、影を吹き払っていく光の帯。


 「――また、動き出すんだね」

 「うん。島が、呼んでる」


 風が去ったあと、教室の中には静かな余韻だけが残った。

 黒板の上の粉がゆっくりと舞い落ち、床に積もる。


 そして、夜が訪れた。

 けれどその夜は、どこかいつもより明るかった。

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