沈黙の離婚届 ― サレ妻弁護士の完全犯罪

ソコニ

第1話 契約書のない結婚


1

 水瀬冴は、夫の携帯電話が震える音で目を覚ました。

 午前二時。寝室の闇の中で、青白い光がベッドサイドテーブルを照らしている。隣で眠る夫・隼人は、規則正しい寝息を立てている。冴は身体を起こし、そっと携帯を手に取った。

 ロック画面に表示された通知。

「今夜も会えなくて寂しい。早く彼女と別れて」

 送り主は「M」。

 冴の指が、一瞬だけ震えた。だがそれは怒りでも悲しみでもない。弁護士としての本能が、瞬時に状況を分析し始めたからだ。

 画面を見つめたまま、冴は静かに携帯を元の位置に戻した。隼人は微動だにしない。冴はベッドに横たわり、天井を見上げる。

 脳内で、すでに計算が始まっていた。

 婚姻期間:七年。共有財産:都内マンション、隼人名義の株式、預金口座三つ。隼人の年収:約一千二百万。冴の年収:約一千八百万。

 不貞行為の証拠:今のメッセージだけでは不十分。継続性と肉体関係の立証が必要。

 離婚時の慰謝料相場:三百万から五百万。ただし、証拠の質次第で増額可能。

 財産分与:原則五〇対五〇。ただし、有責配偶者からの請求は制限される。

 冴は目を閉じた。

 明日の朝食は、隼人の好きなフレンチトーストにしよう。いつも通りに。何事もなかったかのように。


2

 翌朝、キッチンからバターの焦げる甘い香りが漂う。

 冴は白いブラウスに紺のタイトスカートという、いつもの「弁護士スタイル」で朝食の準備をしていた。フライパンの上でフレンチトーストが黄金色に焼き上がる。

「おはよう」

 隼人がキッチンに現れた。濃紺のスーツ、きっちりと結ばれたネクタイ。IT企業の役員らしい、洗練された外見だ。

「おはよう。今日はフレンチトーストよ」

 冴は微笑んだ。完璧な、妻の笑顔。

「ありがとう」

 隼人は椅子に座り、新聞を広げる。冴は彼の前に皿を置き、自分も向かいに座った。

「そういえば」冴はコーヒーを口に運びながら、何気なく言った。「昨夜、あなたの携帯が鳴ってたわよ」

 隼人の手が、わずかに止まった。

「……ああ、取引先からかな」

「そう。大変ね、夜中まで」

 冴の声には、一片の非難も含まれていない。ただの、日常会話。

 隼人はほっとしたように頷き、フレンチトーストを口に運んだ。

「美味い。やっぱりお前の料理は最高だな」

「ありがとう」

 冴は笑顔を保ったまま、スマートフォンを取り出した。画面には、事務所のスケジュール管理アプリが開かれている。

 今日の予定:午前十時、山崎誠との離婚調停準備。午後二時、裁判所。午後四時、新規相談。

 そして、画面の隅に小さく表示された検索履歴。

「配偶者 不貞行為 証拠収集 方法」


3

 水瀬法律事務所は、都内の雑居ビルの五階にある。

 冴が事務所に着くと、パートナーの橘健吾がすでにデスクに座っていた。四十代前半、細身で眼鏡をかけた男。冴とは大学時代の同期で、五年前にこの事務所を共同で立ち上げた。

「おはよう、水瀬先生。山崎さん、もうすぐ来るよ」

「ありがとう、橘先生」

 冴はデスクに向かい、ファイルを開いた。依頼人・山崎誠、四十五歳。妻の不貞を理由に離婚を希望。慰謝料五百万を請求したいという内容だ。

 だが、冴が調べた限り、この案件には「裏」がある。

 十時ちょうど、山崎が事務所に現れた。中肉中背、やや疲れた表情の男性。

「先生、どうでしょうか。妻からちゃんと慰謝料を取れますか?」

 冴は山崎にソファを勧め、自分も向かいに座った。

「山崎さん、一つ確認したいことがあります」

「はい」

「あなたの妻、久美子さんですが……彼女名義の口座、調べさせていただきました」

 山崎の表情が強張る。

「実は、久美子さんには隠し口座がありますね。残高、約八百万円」

「え……?」

「これ、婚姻期間中に貯めたものです。つまり、共有財産です」

 冴はファイルを山崎に差し出した。そこには銀行の取引履歴が印刷されている。

「不貞行為の慰謝料を請求する前に、まずこの隠し資産を把握しておく必要があります。財産分与の際、こちらに有利に働きますから」

 山崎は書類を見つめ、やがて顔を上げた。

「先生……あなた、すごいですね。ここまで調べるんですか」

「それが私の仕事です」

「でも……なんだか、冷たい気がします」

 冴は微笑んだ。

「山崎さん、私は依頼人の味方です。感情は扱いません。必要なのは、法律と証拠だけです」

 山崎は黙り込んだ。やがて、小さく頷く。

「……わかりました。先生にお任せします」


4

 午後六時、冴は事務所を出た。

 帰宅途中、スーパーで夕食の材料を買う。隼人の好きな鮭、豆腐、ほうれん草。いつもと変わらない、妻の買い物。

 自宅マンションに着くと、隼人はまだ帰っていなかった。冴はエプロンをつけ、料理を始める。

 午後八時、隼人が帰宅した。

「ただいま」

「おかえりなさい。お疲れ様」

 冴は夕食を食卓に並べた。鮭の塩焼き、豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸し。

 二人は向かい合って座り、食事を始めた。

 しばらく沈黙が続いた後、冴は箸を置き、隼人を見た。

「ねえ、隼人」

「ん?」

「もし私たちが離婚するとしたら、あなたはどうする?」

 隼人は動きを止めた。驚いたような顔で冴を見る。

「……何を言ってるんだ、急に」

「ただの仮定よ。仕事柄、よく考えるの。もし自分が離婚するとしたら、って」

 隼人は少し笑った。

「そんなこと、あるわけないだろ。俺たち、うまくいってるじゃないか」

「そうね」

 冴は微笑み、再び箸を取った。

「ごめんね、変なこと聞いて」

「いいよ。でも、お前らしいな。そういうところ」

 隼人は安心したように食事を再開した。

 冴は静かに食べ続けた。だが、その視線は隼人ではなく、テーブルの上に置かれた自分のスマートフォンに向けられていた。

 画面には、検索履歴が表示されている。

「夫婦財産契約 無効化 判例」

「有責配偶者 離婚請求 制限」

「不貞行為 慰謝料 増額 条件」

 冴は画面を消し、何事もなかったかのように微笑んだ。


5

 その夜、隼人がシャワーを浴びている間、冴は書斎に入った。

 壁一面の本棚には、法律書がぎっしりと並んでいる。冴は一冊を取り出し、ページをめくった。

『離婚訴訟の実務 第三版』

 付箋が貼られたページ。

「有責配偶者からの離婚請求は、原則として認められない。ただし、別居期間が相当程度に及ぶ場合、例外的に認められることがある」

 冴はペンを取り出し、ノートに書き込んだ。

【戦略メモ】

1. 証拠収集:不貞行為の継続性、肉体関係の立証

2. 隼人から離婚を切り出させる

3. 有責配偶者として慰謝料請求

4. 財産分与の最大化

 冴はペンを置き、窓の外を見た。

 夜景が広がる都会の闇。無数の光が瞬いている。

 その中のどこかで、夫が愛した女が生きている。

 冴は唇を噛んだ。だが、涙は流れなかった。

 弁護士の脳は、すでに感情を排除していた。

 残ったのは、ただ一つ。

勝つための計算式だけ。


 翌朝、冴はいつも通り朝食を作った。

 隼人はいつも通り新聞を読んだ。

 二人はいつも通り「行ってきます」「行ってらっしゃい」と言葉を交わした。

 誰も気づかなかった。

 この朝が、完全犯罪の始まりだったことに。


(第1話 了)

次回、第2話「法律という名の凶器」──冴の調査が本格化する。そして、パートナー弁護士・橘の"ある提案"が、事態を加速させる。

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