第11話「揺らぐ秩序」
麦畑に、風の音だけが残っていた。
火の跡はすでに緑に覆われ、若い芽が風に揺れている。
けれど、村の空気は重かった。
会議の鐘が鳴っても、誰もすぐには集まらない。
あの火以来、村人の間には目に見えない線ができていた。
“神に守られた土地”と、“自分たちの汗で耕した土地”。
見た目は隣り合っていても、心の境界は広がっていく。
父は数日前から寝込んでいた。
熱は引いたり戻ったりを繰り返し、医師の処方も効かない。
長年の疲れが溜まっているのだと、皆が分かっていた。
屋敷の廊下を通るたび、沈黙がつきまとう。
「父上、会議に……」
「行け。代わりに。お前の口で、もう話せ。」
枕元の声は掠れていたが、決意があった。
俺は一瞬ためらった。
父の代わりに、村政会議に立つ。
けれど、村人たちは俺をまだ“若君”と呼び、
“村長”と呼ぶ声はなかった。
広場に集まったのは三十人ほど。
昨日より少ない。
そして見慣れない顔が増えていた。
教会の修道士、白い腕章の青年たち――
神父の代理だ。
「神父様はお体を癒しておられます」と青年書記が言った。
代わりに、長男ヨハンが前に立った。
兄は淡い青の法衣を着ていた。
かつて父と同じ農服を着て畑に立っていた兄とは、もう違う。
「村の皆さん」
その声は澄んでいて、どこか神父に似ていた。
「沈黙は、時に罪です。
声を上げず、何も変えようとしない――それは神の秩序を腐らせる。」
ざわめきが起きた。
“沈黙は罪”――それは父の政治そのものを否定する言葉だ。
俺は立ち上がりかけたが、青年書記が目で制した。
“待て”。
その目には、興味と警戒が入り混じっている。
兄は続けた。
「父上は偉大でした。しかし、その沈黙が多くの誤解を生みました。
神に仕えることと、人を守ることは同じです。
だから――神の法に従って、再び秩序を整えましょう。」
修道士たちが頷く。
村の古老たちは黙ってうつむき、誰も反論しない。
沈黙が広場を覆った。
“沈黙の政治”が、“信仰の政治”に飲み込まれていく瞬間だった。
会議の後、青年書記が俺のもとに歩み寄った。
「兄君は、よく学ばれたようです」
「誰に?」
「神父様に」
「……俺を見張っているのか」
「見張る? 違います」
青年は穏やかに笑った。「観察しています。」
「何を」
「沈黙の限界を」
その言葉が、妙に刺さった。
俺自身も感じていたのだ。
沈黙で守れるものは多い。
だが、沈黙が続くと“空白”が生まれる。
そこに、信仰や恐れや、誰かの言葉が入り込む。
今、村はその空白に飲まれようとしていた。
夜、父の寝室。
灯りは一つだけ。
父は枕元に手を置き、目を閉じていた。
「兄上が……神父の代わりをしています」
「そうか」
「沈黙は罪だと」
父は目を開けなかった。
「それも、正しい」
「……どういう意味ですか?」
「沈黙は、刃だ。使う者が変われば、逆に人を斬る」
「兄上に刃を渡したのは、あなたですよ」
父はわずかに笑った。「なら、あいつが使い方を学ぶまで待て」
その夜、父は血を吐いた。
咳と共に、真っ赤な布が濡れる。
医師を呼んでも、原因はわからない。
“沈黙”を続けてきた身体が、ついに限界を迎えたようだった。
翌朝、兄が屋敷に来た。
「父上の看病はもう十分だ。教会の祈りを呼ぼう」
「薬のほうが先だ」
「薬は人のもの。祈りは神のもの。どちらが上か、わかるだろう?」
兄の声には、もう“弟”への柔らかさはなかった。
「神父の教えで、病を癒す儀式を行う。
“神の息吹”を通せば、病根は抜ける」
「それで、死んだら?」
兄は笑った。「死もまた、救いだ」
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
「父上は神ではない。村長だ。神のために生きているんじゃない!」
「そう言うお前こそ、まだ“村のため”しか見ていない」
兄の声は静かだった。
「神の国は村より広い。父上はそれを悟った。
沈黙の次に来るのは――祈りの政治だ。」
その日から、屋敷には修道士たちが出入りするようになった。
“癒しの儀式”と称して祈祷が続き、
香と歌が絶えず部屋を満たした。
医師は追い出され、薬瓶は窓の外に捨てられた。
父はほとんど眠らず、うわごとのように言葉を繰り返していた。
「……線を、重ねろ……
……班を、混ぜろ……
……沈黙を……恐れるな……」
兄はその声を、祈りと受け取った。
俺は、それを警告だと感じた。
夕暮れ。
広場で村人たちが集まっていた。
“祈祷の儀”に参加するためだ。
兄が神父の法衣を借り、壇上に立った。
「村を再び神の秩序へ戻そう!」
人々が応じる。
その光景は、祝祭のようでいて、どこか異様だった。
沈黙は消えた。
代わりに、声が溢れ、叫びが村を包んだ。
けれどその声の多くは、恐れが形を変えたものだった。
俺は壇上を見上げながら思った。
父が築いた秩序は、もう風化している。
それでも――俺はまだ沈黙を信じたかった。
沈黙は、ただの空白ではない。
人が考え、理解するための“余白”だ。
兄の祈りは熱く、強い。
だが、その熱は“考える時間”を焼き尽くす。
夜。
青年書記がこっそり屋敷を訪れた。
「神父は病床から兄君に権限を譲りました」
「つまり、教会の統治下だ」
「そうです。ですが――私はまだ沈黙を信じている」
「理由を」
「沈黙は空白を作る。空白がある限り、希望が入る」
彼の声は静かで、どこか悲しげだった。
「……父上の病も、もはや時間の問題です」
風が屋敷を叩いた。
外では祈りの歌が続いていた。
その旋律が、妙に遠く感じられた。
夜半。
俺は父の寝室に入った。
灯火の光に照らされて、父はかすかに目を開いた。
「……エメリクか」
「はい」
「ヨハンは……」
「祈っています」
父は微笑んだ。
「そうか……祈りもまた……沈黙のひとつだ……」
そのまま、手が俺の手を握った。
「お前は……まだ言葉を信じるか」
「はい」
「なら……言葉で沈黙を守れ……」
それが、父の最後の意識ある言葉だった。
翌朝、医師が再び呼ばれたが、もう遅かった。
父は穏やかに息を引き取っていた。
窓の外では、祈祷の歌がまだ続いていた。
兄は涙を見せなかった。
「父上は、神の国へ帰られた」
その声は、あまりにも冷たかった。
俺は跪き、父の手を握った。
まだ温かい。
“言葉で沈黙を守れ”――
その言葉が、胸の奥で燻り続けていた。
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