第6話 トラックの慈悲

 金曜の夜は、庁舎の廊下が早く冷える。


 蛍光灯が一列とびに落とされ、床のワックスが薄く光る。


 清掃のワゴンが曲がり角に置かれ、モップから水の匂いが立った。


 地域再生課のフロアに残っているのは、鈴村陽一と、片付け中の神崎、そしてコーヒーだけだ。




「帰れ。今日はもう、勝ち負けの外だ」


 神崎が笑って言う。「明日、続きの“面倒”をやろう」


「面倒が山ほどあるってことは、やることがはっきりしてるってことだ」


「お前、その台詞、また書いとけ。ノートに」


「もう書いたよ」


 二人は拳を軽く合わせた。


 それだけで、今日に印鑑が押された気がした。




 エレベーターを降り、回転扉を押すと、夜気が頬を洗った。


 雨は降っていない。川の上に薄い靄が漂い、橋の欄干は冷たい。


 遠くで救急車のサイレンが短く伸び、国道の低い唸りが腹の底に響いた。


 信号は赤で、歩行者用はゆっくり点滅している。


 陽一はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を一度だけ点けて、消した。


 通知は積もっている。けれど、今は雪にしておく。




 横断歩道の白線は、昼間より少しだけ厚く見える。


 塗り直されたばかりの箇所が、街灯の下で薄い膜のように光っていた。


 青。


 足を出す。


 左から右へ、視線を送る。


 夜の道路は、光の川だ。


 光は、時々、波立つ。




 クラクションが二度、短く鳴った。


 一瞬遅れて、空気の密度が変わる。


 交差側の車線の奥で、白い大型トラックが速度を落としきれずに来ている。


 ブレーキランプが赤く咲き、タイヤがアスファルトを擦る音が、黒板を爪でひっかくような角度で耳に刺さった。


 側面に金色のロゴが走る。


 《神の慈悲財団 地方創生支援車両》




 胸の奥で、誰かがかすかに笑った気がした。


 ――慈悲は、こんなところまで走るのか。


 足が、わずかに止まる。


 止まった足に、体の重さが溜まる。


 重さは、次の判断より速い。




 白線の段差に、靴底が少し噛んだ。


 ほんの半分の指先分。


 「下がれ」と頭は言ったが、ふくらはぎが返事をする前に、


 光の流れがこちらへ膨らみ、景色の輪郭が一瞬やわらかくほどけた。




 音が消える。


 無音の中で、過去だけが先に落ちてくる。


 旧・北小の校庭。


 説明会で手を挙げた高校生。


 「点数のない場所」のことば。


 匿名の電話の、がさついた息。


 課長の「立ってただけで上等や」。


 神崎の「面倒が山ほどあるのはいいことだ」。


 ノートの黒い表紙。


 そこに沈んでいる、一行――




 ――誠実であれ。たとえそれが、この街の秩序を乱すとしても。




 音が戻る。


 クラクション、ブレーキ、誰かの叫び、橋の欄干に触れる風。


 すべてが一度に来て、一度に遠のいた。


 白い光が視界の中央に張り付き、縁から世界が暗く擦りガラスになっていく。


 狭まる円の中で、陽一はひとつだけ確かめた。




 (間に合わなかったものがある)


 (でも、間に合ったものもある)




 自習室。


 「来ます」と言った、あの少年の声。


 居場所の配置図。


 “映えを削る”という、あの一文。


 第三者検証の段取り。


 ――「習慣を置け」と今日書いた文字。


 ぼやけた世界の中央で、それらがひとつずつ点になり、じわじわと線でつながる。


 線は、撚り合わされた縄になる。


 縄は、手すりになる。


 手すりがあるかぎり、人は転ばない。


 それでいい。


 それで、今はいい。




 視界の白が薄くなる。


 代わりに、麦色の野が広がった。


 風が刈り株の上を走り、藁の匂いが立つ。


 遠くで鐘が鳴る。


 庁舎のチャイムに似ていて、でも少し古い金属の音。


 音は空の高いところから降りてきて、胸の前でやさしく割れた。




 足元に、土。


 乾いた。


 指を伸ばすと、土は温かかった。


 遠くで女の人の声がする。


 言葉は知らない。


 けれど、意味はわかる。


 ――おかえり。


 陽一は、自分の名を呼ぼうとする。


 舌が、なめらかに動かない。


 名前は、遠ざかる汽笛みたいに、音だけを残して行ってしまう。


 代わりに、別の名が胸へ降りてきた。




 エメリク。


 呼ばれた。


 たしかに。




 その名の余韻と一緒に、どこからか、薪のはぜる小さな音がした。


 その音は、今までのどんな会議より現実で、


 今までのどんな数字よりも熱かった。







 どれくらい眠っただろう。


 目を開くと、天井が低い。


 木の梁に黒い煤がついていて、隙間から細い光が落ちている。


 布の重み、藁の硬さ、汗の塩気。


 身体を返すと、体の中心がまだ重く、呼吸が浅い。


 耳の奥で、さっきの鐘の残響が、まだゆっくりほどけずにいる。




 戸口がきしんで、影が差した。


 年老いた男が、杖をついて立っている。


 顔の皺は深く、瞳は澄んでいた。


 男は息を呑み、そして、笑った。


 「……目を開けたか。エメリク」


 言葉が、胸骨にひとつずつ入ってくる。


 意味が後から追いついてくる。


 エメリク――自分のことだ。


 唇が、乾いた音で動いた。


 「……父上」


 呼んでみると、声はひどく幼く、小さかった。


 自分の喉が、他人の楽器になったみたいだった。


 男――“父”は頷いて、額に手を当てた。


 手は節くれだっているが、温かい。


 領主の手ではなく、働く者の手だ。


 その掌に置かれた思いが、皮膚を越えて、胸の芯にまで降りてきた。


 ――おかえり。


 ああ、そうだ。


 帰ってきたのだ。


 どこへ。


 ここへ。




 外で鶏が鳴き、かすかな香草の匂いが流れ込む。


 遠くで祈りの声が、朝の空気に混じっていた。


 祈りは、儀礼語のようでいて、労働の音に近かった。


 それは、知っている。


 現代の庁舎で、毎朝回っていた電子音と、同じ役目を持っている。


 ――今日も、始まる。


 それを告げる音だ。




 父は小さく咳をして、誰かを呼んだ。


 戸口に現れた若い女は、籠を胸に抱え、目を大きく開いて立ち尽くした。


 「エメリク……!」


 女は口元を押さえて笑い、涙を一度、喉に戻してから言った。


 「ありがとう、神さま……」


 女の祈りに混ざる土の匂いも、泣き笑いの震えも、たしかに現実だった。


 陽一は――いや、エメリクは、自分の胸に手を置いた。


 そこで鼓動は、はっきりと数を刻んでいた。


 鼓動は、仕事の始まりの合図に似ている。


 同じテンポで、同じ言葉を繰り返す。


 ――やれ。


 ――やれ。


 ――やれ。




 天井の梁の向こうで、細い光が少しだけ太くなった。


 朝だ。


 新しい朝は、どんな言い訳も許さない。


 ただ、やることを前に置くだけだ。


 ここでも、きっと同じだ。


 数字は違う。


 言葉は違う。


 でも、人は、同じだ。


 同じふうに、疲れて、笑って、怒って、迷う。


 なら、やり方は一つだ。


 ――誠実であれ。


 その一行は、ノートがなくても、胸の内側にちゃんと読めた。




 扉の外で、誰かが「領主さま」と呼んだ。


 父が応える。


 女が笑う。


 エメリクは、布団の縁を握った。


 力はまだ戻らない。


 けれど、声は出せる。


 「……行きます」


 たどたどしい、しかし確かな言葉。


 それは、現代で毎朝起き上がる時と、まったく同じ重さだった。




 遠くの鐘が、もう一度鳴った。


 始まりの音は、いつだって少しだけ遅れて届く。


 遅れて届くものは、よく沁みる。


 沁みるものは、長く続く。

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