角を三つ

BOA-ヴォア

父の形見は、靴箱にしまわれた三つの白い盃だった。

 縁に髪の毛ほどのひびが入り、釉の下で糸のような白が沈んでいる。裏返すと、父の細い字で場所と日付が記されていた。〈川原三 平成十一年五月〉。〈用水二 平成十五年六月〉。〈取水口 令和二年四月〉。

 母は盃を見ないふりをして、仏壇に線香をあげた。「持っていくなら、勝手にして」と言う。風が雨戸をなでる音が重く、家の中に湿り気がたまっていた。


 帰ってきたのは、父の一周忌のためだ。仕事はどうにでもなる。都会で暮らすようになって、家と川の匂いに距離を置いていたが、呼び戻される日は来るものらしい。

 玄関を出た瞬間、懐かしさと同じ濃度の苔の匂いが立った。電柱に貼られた粗末な回覧の紙は、色が抜けて半透明になっている。〈取水の切り替え工事のお知らせ〉。〈来月より上流域封鎖〉。

 この村では、工事という言葉が魔除けのように使われる。理由は誰も知らないまま、立ち入り禁止の赤いロープが増えていく。赤もやがて褪せ、雨に打たれて、土の色に寄る。村全体が、そうやって少しずつ静かになっていくのだ。


 夕方、寺から鐘が鳴った。母に頼まれて、川まで盃を流しに行くことになった。

 「そんなこと、まだしとるん」と苦笑すると、母は睨んだ。

 「お父さんも、最後まで自分でやってた。……あんたは『もうやめろ』って言うたけど、あの人は聞かなんだ」

 「盃三つ。角を三つ。わざと曲がる」

 母が口にすると、子どものころ覚えさせられた掟の文句が、舌の奥から勝手に出てきた。学校では馬鹿にして、友だちの前では絶対言わなかった言葉だ。

 母は台所から古い手提げを持ってきて、中から盃を取り出した。「割らんようにな」と言う。いつかの雨で濡れたのだろう、布が冷たかった。


 川は、子どもの背の高さほどしかない堤防で村から切り離されていた。早苗の列が風に微かに押され、川面に影を落としている。車の通らない橋を渡ると、下流でショベルカーが動いているのが見えた。黄色い腕が、泥を揺らすたび水が濁る。

 橋のたもとで手提げから盃を出し、順に水へ置く。丸い底が水に触れた瞬間、盃はゆっくり回転しながら流れに乗った。昔から何度も見たはずの光景なのに、胸がざわつく。

 最初の盃は、迷いなく中州の手前で旋回して、するりと下流へ消えた。二つ目は岸の草に触れ、逆向きに五センチほど戻ってから、また前へ進む。三つ目だけが、橋脚の影で止まった。

 風はない。水は流れているのに、盃は少しも動かない。指先を伸ばせば届く距離だったが、触れてはいけない気がした。

 ぼんやり見ていると、止まっていた盃が、ふいに縁を下にして逆さになった。水に沈むかと思ったのに、沈まない。小さな白い円盤が、ゆっくりと回り、やがて橋脚の向こうへ滑っていった。


 帰り道、掟どおり角を三つ曲がった。

 祖母はよく「まっすぐ帰ったら連れていかれる」と言った。子どものころは、どこに連れていかれるのかが気になったが、大人になって思うのは、この村には大した行き先もないということだ。家へ、田んぼへ、社へ。遠くから見ると、どの道も同じに見える。

 三つ目の角を曲がったところで、路地の突き当たりに犬がいた。首輪はない。こちらを見ていないのに、こちらのいる方角に耳を向けている。呼ぶと、犬は立ち上がり、川と反対の方向へ歩き出した。

 「ついていくな」と祖母の声が頭のどこかでした。だが足が勝手に進んだ。犬はときどき立ち止まって、耳だけ動かす。鼻先を空に向けるみたいに。

 公民館の裏手で犬は止まり、低く鳴いた。そこは昔井戸があった場所で、今はふたがしてある。草むらの湿り気が濃く、地面が少しだけ呼吸しているように見えた。犬はふたの上に前足をかけ、短い声で鳴いてから、もう一度こちらを見ずに去った。


 家に戻ると、母は畳に座っていた。風呂の火を落とし忘れたと言い、立ち上がろうとしてよろめいた。肩を支えると、手首に鳥肌が立つほど冷たい汗がついた。

 「今日は、胸が楽やない」と母は笑って言った。笑って見せるときの口の形が、亡くなる前の父に似てきた。

 仏壇の横に、父のノートが積んである。ページをめくると、細い字で水位や流量、取水の順番、苗代の状態――農家の記録と大きく違わない文字の中に、ところどころ異物のような言葉が挟まっていた。〈白線〉〈上流封鎖〉〈逆さ盃〉〈角三〉。

 母は台所から湯呑を持ってきて、ノートの上に置いた。「もう、見んでもええ」と言う。その言葉に、怒りではなく、疲れが混じっているのがわかった。


 夜半、寝付けなくて裏口から出た。雨は上がっているが、湿り気は抜けない。遠くで工事の音がやみ、村がまるごと耳を塞いだみたいに静かだ。

 公民館のほうへ歩く。さっきの犬の姿はない。井戸のふたに手を置くと、じんわりと冷たい。耳をすませると、水の音がするようなしないような。ふたの縁に白いものが付着していた。細い粉の帯。指で触ると、舌先が思い出したように塩を探した。

 誰かに見られている気配がして振り返ると、道路の向かいに人影が立っていた。背の高い男で、白い作業服。工事の人間だろうか。

 「すみません、夜分に」声をかけると、男は首だけこちらへ向けた。街灯の陰で顔は見えない。

 「盃、見ましたか」と男が言った。こちらの台詞を先に言われたようで、うまく返せない。「昼間に、流しました」

 「三つ?」

 「ええ」

 「逆さになるのが、いちばんまずい」

 男はそれだけ言って、歩き去った。どこかの曲がり角で見失った。追いかけようとしたが、足が動かなかった。井戸のふたの上で、白い粉が金属の匂いを帯びた気がした。


 翌朝、母が倒れた。腹ではなく、胸が痛むと言ってうずくまり、指先が冷たかった。救急車を呼ぶか迷っていると、母は手を振った。「病院はええ。ここでじっとしておる」

 父のときも、こんなふうに始まったのだろうか。思い出そうとすると、頭の内側で何かが鳴って、思考が濁る。窓の外で、赤いロープが風に擦れて微かな音を立てた。


 昼、工事関係者が自治会館に集まるというので顔を出した。村の若い連中は少ない。白衣の男と、現場班の責任者らしい人間が前に立つ。

 「上流封鎖は予定通り来月から。ただし取水の切り替えは段階的にやります」

 白衣が言い、スライドに水の図を出す。専門用語がいくつか流れたあと、会場の空気が微妙に冷えた。「寄生虫ですか」と誰かが聞く。白衣は答えない代わりに、顕微鏡写真を映した。巻貝の殻のようなものが、複数並んでいる。そこから細いものが束になって伸びていた。

 「昔からの言い伝えがあります」と老人が言った。「盃を三つ流さなあかんのや。川の女を怒らすなって」

 笑った者はいなかった。白衣はただ頷いた。「今は、怒らせないように流れを変える段取りをしているところです」

 「盃はいるのか」

 白衣は少しだけ困った顔をした。「各家庭の判断で」


 会議が終わるころ、外は細かい雨が降っていた。道路の継ぎ目から草が伸び、その先に小さな虫がとまっている。見慣れたはずの世界が、雨に潤んでいるというより、どこかで摺りガラスになったみたいにぼやけて見えた。

 家へ戻る道で、犬がまた現れた。昨日の犬だと思う。首輪はない。犬はわたしを一瞥し、角を曲がった。

 わたしは追った。角を一つ、二つ、三つ曲がる。犬はときどき振り返るが、目は合わない。三つ目の角を曲がると、そこはわたしが子どものころ通っていた小さな神社の前だった。拝殿の戸は閉じている。軒下に、丸められた縄と、盃がひとつ置かれていた。

 盃は乾いているのに、縁だけ湿っていた。文字が彫られている。〈角三〉。

 振り向くと、犬はいなかった。


 夜、母はうつらうつらしながら、わたしの名を呼んだ。「あんた、角を曲がったか」

 「曲がったよ」

 「嘘はあかんで」

 笑ってごまかそうとしたが、できなかった。昼間、犬を追って曲がったあの角が、本当に角だったのか、自信がない。道はまっすぐで、曲がっても同じ景色が前に来た。曲がった手応えがなかったのだ。

 「明日の朝、もう一度盃を流してきて」

 母が言った。「三つとも、沈まんようにや」

 どうやって、と聞こうとして、やめた。やりかたを問うことが、筋を間違えるような気がしたからだ。


 夜明け前に家を出た。雨はやみ、空は薄い灰色。川はいつもよりゆっくりして見える。橋の上に立ち、手提げから盃を出す。まず一つ。水に預けると、盃はすぐに回り、下流へ向かった。

 二つ目。岸に寄り、草に触れ、くるりと逆向きに回る。芯の抜けた時計の短針のように。

 三つ目。そっと置いたつもりなのに、盃はふっと裏返った。逆さになった白い面が、水面すれすれに浮かぶ。

 「まずい」と声が出た。掴み上げようとして手を伸ばす。指先に冷たいものが絡みつく感触がした。糸? 違う。水の皺が、一本だけ別の方向へ伸びたように。

 そのとき、橋の向こうからあの白い作業服の男が走ってきて、躊躇なく川へ降りた。膝まで水に入り、逆さの盃の脇を通り抜ける。盃は男の体を避けるようにわずかに流れを変え、くるりと表になった。

 男は立ち止まり、こちらを見上げた。

 「角を三つ、曲がって帰るんです」

 息が上がっているのに、落ち着いた声だった。

 「ここから?」

 「今から」


 橋の上で右に曲がる。倉庫の裏に出て、細い道をもう一度曲がる。学校の塀に沿って三つ目を曲がる。

 どの角にも同じ匂いがあった。苔と、水と、古い土間の冷たさ。曲がるたび、背中側から風が追いかけてくる。角を一つ過ぎるごとに、靴の中の靴下が少しずつ重くなった。

 家に着く前、振り返らずに立ち止まった。わたしの足音ではない拍が、一拍遅れて近づいてくる気がする。振り向けば、なんでもないはずだ。だが振り向かないのが、ここのやり方だ。

 玄関を開けると、母は起き上がっていた。顔色は悪いが、明け方より声が通っている。「おかえり」

 「ただいま」

 盃を手提げに戻すと、裏返った一つの縁に、新しい細い傷が増えていた。

 「どうにか、なった?」と母が聞く。

 「わからん」

 正直に言うと、母は少し笑った。「そらそうや」


 昼すぎ、工事車両の音が遠くで止んだ。上流域封鎖の準備が、一段落ついたのだろう。家の前の道には誰もいない。

 父のノートの最後のページに、太い筆で書かれた短い言葉がある。〈曲がるふり〉。それだけ。

 父は、最後まで信じたのか、最後まで疑っていたのか。どちらも同じことかもしれない。信じるふりと疑うふりのあいだには、思っているほどの距離がない。

 母の寝息が穏やかになっていくのを聞きながら、窓の外を見た。堤防の斜面に、犬が一匹立っていた。こちらは見ない。耳だけを、こちらへ向ける。

 指を一本立てる。犬はそれに反応したように、顔を少しだけ横へ向け、どこかの角に吸い込まれるように消えた。


 夜、盃を一つ、仏壇の横に置いた。父の字で書かれた〈角三〉のページを開いたまま、灯りを落とす。

 真っ暗ではない。闇はいつも、少しだけ薄い。闇の薄さに、目が慣れる。

 明日も角を三つ曲がって帰る。たぶん明後日も。

 曲がるふりでいい。ふりを続けることでしか、わたしたちはこの村の水と折り合えない。そういう気がした。

 窓に耳を寄せると、遠くで犬が一度だけ吠え、すぐにやんだ。風は吹いていない。にもかかわらず、雨戸の隙間で小さな音がした。盃が、わずかに回った音のように聞こえた。

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