第11話 三つの声が、私の名前を呼んだ。
火曜日の朝は、昨日より少しだけ現実味が増していた。
文化祭の片付けもほとんど終わって、昇降口のあたりからはガムテープの匂いが消えつつある。
でも、胸の奥の水はまだ完全には静まっていない。昨日の「ざわざわ」が、寝て起きてもちゃんと残っていて、なんだか妙に律儀だ。
靴箱の前で上履きに履き替えていると、横から小さくため息が聞こえた。
「はぁ〜〜〜」
「なにその教科書みたいなため息」
「文化祭ロス二日目の音だよ」
詩織が、上履きのかかとを踏みそうになりながらこちらを見上げてくる。
ポニーテールは昨日と同じ高さだけど、ゴムがちょっとゆるくて、先だけが元気に揺れていた。
「今日の私、授業中三回は“あの展示室”思い出す自信ある」
「それは普通に分かる」
「由衣は?」
「……五回くらいかな」
「勝った。ロス度で勝ってどうするの」
そんな会話をしながら教室に向かうと、すでに中はちょっとしたざわざわで満ちていた。
黒板には「文化祭振り返りアンケート」「次行事:球技大会」と書かれている。
「うわ、もう次のイベントの話?」
「高校ってさ、イベントで季節を測ってない?」
「わかる。テストは記憶から削除されるのにイベントだけ時系列で残る」
自分の席に荷物を置くと、前の席の佐々木が振り向いた。
「おはよー。佐伯さ」
「おはよ」
「なんか、昨日より顔晴れてない?」
「晴れてるってなに」
「“良いことあった人の肌のツヤ”」
「そんなピンポイントな表現ある?」
笑っていると、教室のドアが開いた。
雪村が、鞄を片手に持って入ってくる。
寝癖はついていないけれど、前髪が少しだけ不揃いで、走ってきたのか息が少し上がっていた。
「おはよーっす」
「おそーい。チャイム鳴る三分前」
「セーフだからノーカン」
男子たちが声をかける中で、一瞬、雪村の視線がこちらに滑ってきた。
目が合う。
——まただ。
胸の奥の水が、さっきまでよりも少し大きく揺れた。
「おはよ、由衣」
「おはよ」
名前を呼ばれる瞬間、喉の奥がふっと締まる。
昨日より、その締まり方が具体的になっている気がした。
そこへ、反対側のドアからもう一人。
「はいはーい、プリント配りでーす」
藤宮が、いつものようにA4サイズの束を抱えて入ってくる。
シャツの袖はきっちりまくり、ネクタイもちゃんと締まっているのに、黒板の前で少しだけ息を整えているのが分かった。
「文化祭の振り返りと、球技大会の競技希望と、フォトコンの案内でーす。はい、委員長今日も便利屋でーす」
「自分で便利屋言うなよ」
「便利屋じゃないとクラス回らないんで」
軽口を飛ばしながら、藤宮は各列の一番前にプリントを渡していく。
私の列のところに来たとき、一瞬だけ手を止めた。
「佐伯さん、申込書、昨日ちゃんと提出してきたからね」
「ありがとう」
「タイトル欄、まだ空欄だったけど……あれ、決めた?」
「まだ」
「じゃあ、今日の放課後、美術室で相談乗るよ。——勝手に行くから」
勝手にと言いながら、「行ってもいい?」という目で見てくる。
うなずくと、少しだけほっとしたように笑った。
「じゃ、プリント回してくださーい」
藤宮が黒板の前に戻るのとほぼ同時に、廊下側の窓から少し背の高い影がのぞいた。
朝倉だった。
ホームルームの時間に、先生と一緒に入ってくることが多いから、今日は少し早い。
窓の外から、教室の中をちらっと見て、すぐに視線を逸らす。
その一瞬で、誰の顔を確認したのかは、なんとなく分かる。
——いや、分からないほうが健全なのかもしれないけど。
自分の胸の動きだけは、もう誤魔化しづらくなってきていた。
◇
「じゃあ、ホームルーム始めるぞー」
担任が入ってきて、いつものように出欠を取り、文化祭のお礼と、反省会のお知らせを読み上げる。
「で、その反省会と合わせて、“クラス振り返りシート”を四人グループで作ってもらう。
文化祭のことだけじゃなくて、この一学期どうだったか、みたいなのもまとめてくれ」
四人グループ。
教室の空気が、ざわっと動く。
「今回はくじじゃなくて、自由グループでいい。——ただし、男女混合、四人まで。偏りすぎはやめろ。いつもと違うメンバーでもいいぞ」
「きた、自由グループ」
「地獄のやつ」
「グループできない人いっしょにやろ〜」
あちこちから声が上がる中、私はペンを指でくるくる回した。
こういうとき、前の私なら、「どうせ私は最後に余った人たちのところに滑り込む役だ」とどこかで決めつけていた。
でも、今の私は——正直、ちょっとだけ事情が違う。
「由衣、一緒にやるでしょ」
すかさず詩織が椅子を寄せてくる。
「うん。詩織と……あと誰か」
そう言いかけたとき。
「佐伯、よかったら一緒にどう?」
教壇近くから藤宮の声。
「由衣、もし空いてたら——」
後ろのほうから雪村の声。
「四人グループ、俺も入っていい?」
窓際から、朝倉の声。
「「「…………」」」
一瞬で、三方向から名前を呼ばれた。
教室の中心で、空気が「え?」と固まる。
私自身も、「え?」の中心にいる。
「あの、えっと——」
頭の中で、四人グループの条件がぐるぐると回る。
女子:私と詩織。
男子:三人。
……計五名。多い。
「おいお前ら、人数合わねえだろ」
クラスの男子の誰かが、半笑いでツッコんだ。
「ずるくね?」
「佐伯人気投票でもやったん?」
「やってないし!」
思わず素で返してしまうと、クラスの何人かが笑った。
顔が一気に熱くなる。
「えーと……」
藤宮が、さすが委員長というべきか、場の空気を整えようと一歩前に出た。
「じゃあ、とりあえず——佐伯さんと詩織さんは確定として」
「勝手に確定されてる」
「由衣は否定しないでしょ?」
詩織にさらっと言われて、否定できない自分が情けないやらありがたいやら。
「で、男子は——」
「俺、どこでもいいよ」
「俺も別に」
「……俺も、どこでも」
三人とも同時にそう言うものだから、余計ややこしくなる。
担任が咳払いした。
「お前ら、佐伯の取り合いしてる場合じゃないぞ」
「と、とり合いとかじゃないです!」
即座に否定したけれど、クラスの視線が変な方向に温度を帯びているのは、肌で分かった。
先生は苦笑しながら、黒板に簡単な枠を書き出した。
「じゃあこうしよう。佐伯と、その隣の篠原(詩織)は固定。
そこに男子二人入れて四人にして、残り一人は別グループで“助っ人枠”にまわる。
それならいいか?」
「助っ人枠?」
「グループ間で意見を聞きに行ったり、他の班の発表まとめやったり。ちょっと面倒だが、その分発言権も多い」
クラスの視線が、自然と三人のほうへ向かう。
雪村は、少しだけ顎に手をやって考えるふりをしていた。
藤宮は、教卓の隅っこを指でトントンと叩いている。
朝倉は窓の外を一瞬見て、すぐに黒板へ戻した。
「……じゃあ」
一番先に口を開いたのは、藤宮だった。
「俺、助っ人枠やるよ」
「え?」
「どこにも顔出せるし。委員長としても動きやすいし」
素早く理由を並べてから、ほんの一瞬だけ私のほうを見て、微妙に笑った。
「それに、佐伯さんが雪村と朝倉くんと一緒に話してるの、客観的に見てみたい」
「なにそれ」
「いや、“負けヒロインじゃない佐伯像”ってやつ?」
軽口に聞こえるけれど、その言葉の中にある優しさは、なんとなく分かる。
「じゃあ——」
先生が黒板に書き込む。
「佐伯・篠原・雪村・朝倉の四人が一班。
藤宮は助っ人。それでいいな?」
「はい」
三人分の返事と、私と詩織の「はい」が重なった瞬間、教室の空気が少しだけざわついた。
「なんか、いい班できたな」
「青春って感じ」
「漫画の表紙かよ」
周りの感想を、聞こえないふりをしてやり過ごす。
心臓が、いつもより忙しくなっている。
——これ、ほんとに大丈夫かな。
◇
机を四つずつくっつけて、グループの島を作る。
私たちの班は、窓際から二列目のあたりになった。
「じゃ、俺ここ」
雪村が、自然に私の斜め前に座る。
朝倉は私の横。
詩織は私の向かい。
なんだか、視界のどこを見ても誰かの顔がすぐに見つかる配置になってしまった。
「じゃあ“クラス振り返りシート”ね。
一学期の出来事、良かった点、改善点……って、思ったより真面目だなこれ」
プリントを読んで、詩織が眉を上げる。
「笑い話だけじゃダメっぽいね」
「笑い話も混ぜていいでしょ。せっかくのウチのクラスだし」
雪村はプリントの裏にボールペンを軽くトントンと当てながら言った。
「で、誰が書く?」
「由衣」
同時に三人の声が重なった。
「え、なんで!」
「いや、字が一番読みやすいから」
「まとめるの得意だから」
「視点がちゃんとクラスの真ん中からになってるし」
理由はそれぞれ微妙に違うけれど、全員が「由衣」というところだけ一致している。
詩織がじっと私を見て、にんまり笑った。
「由衣、人気じゃん」
「やめてそういう言い方」
「書記、お願いしてもいい?」
朝倉が、少しだけ申し訳なさそうに言う。
その声色が、断れなくさせる。
「……わかった。頑張る」
「無理しなくていいから。思いついたこと、箇条書きでいいよ」
雪村が、プリントの「良かったところ」の欄を指差した。
「まずは文化祭だろ。展示と、お化け屋敷と、劇と——」
「球技大会も入れたい」
詩織が言う。
「まだやってないから“これから楽しみなイベント”の欄だね」
「お前、球技大会出るの?」
「バレーなら」
「バレーか〜、じゃあ俺バスケだな」
「私は観客席でポップコーン売りたい」
「そんな役ねえから」
そんなやりとりをしながら、私はペンを走らせる。
手を動かしていると、少しだけ心臓の音が落ち着いてくる。
ペン先の黒い線に、頭の中のざわざわを逃がしているみたいだった。
「で、“良かったところ”は?」
「……」
少し考えてから、私は一行書いた。
『それぞれの得意なものが、クラスの色になったところ』
書いた瞬間、三人の視線が自然とプリントに集まる。
「いいね、これ」
雪村が、素直な声で言った。
「陸上とか、演劇とか、展示とか、委員長とか? そういうやつ?」
「うん。でも、目立たないところも含めて」
「放送係とか、体育委員とか?」
「廊下の展示を直してくれた人とか、こっそり掃除してくれる人とか」
そう言ったとき、一瞬だけ朝倉と目が合う。
「——写真撮ってるやつも?」
「それも」
私が頷くと、朝倉は少しだけ目を細めて、「そっか」と低く言った。
「じゃあ、その一文を大見出しにしようか」
詩織がプリントの上を覗き込みながら言う。
「“それぞれの得意がクラスの色になった一学期”」
「なんか、しれっとパンフレット作れそうなタイトルだな」
雪村が笑う。
「じゃあ、改善点は?」
一番難しい欄に来たところで、四人ともペン先が止まった。
「遅刻減らすとか?」
「……お前だろそれ」
「はいすみません」
雪村が自分で自分にツッコミながら頭をかく。
「でも、“もっと話したほうがいい人”とか、いない?」
詩織の言葉に、教室のあちこちでグループの話し声が聞こえてくる。
「クラス替えから三ヶ月くらいか。確かに、まだちゃんと話してない人いるな」
朝倉が窓の外をちらっと見ながら言う。
「佐伯は?」
「え?」
「“もっと話してみたい人”」
急にスポットライトを向けられて、言葉が詰まる。
話してみたい人、か。
ちらっと、雪村を見る。
前よりは話せるようになったけど、「もっと」と言うには、まだ何かが引っかかっている。
朝倉とも、美術以外の話をもっとしてみたいと思う。
藤宮とも、委員長じゃない顔で話してみたい。
考えているうちに、胸の中の水が、さっきよりも複雑に揺れ始めた。
「——クラス、全体的にもっと喋ったほうがいい、ってことで」
逃げた。
詩織が「ずる」と小声で笑う。
「まあ、それも改善点にはなるか。『もっといろんな人と喋る』」
雪村がそう書き足して、ペンを置いた。
「よし。あとは一学期の一番の出来事、か」
その欄を見つめたとき、四人のうち三人の視線が、自然とこっちに向かっているのを感じた。
「展示は?」
詩織が言う。
「クラスからも出したし」
「……うん。そうだね」
ペンを持つ指先が、少しだけ震えた。
“負けヒロイン”という言葉から、自分を少し引き剥がしてくれたあの展示。
あの光の中で、自分が「見せる側」に立てたこと。
あれは確かに、私にとっての一学期の大きな出来事だった。
「じゃあ、“展示のこと”書こ」
「書いて」
雪村の声は、思っていたよりやわらかかった。
「『文化祭の展示で、自分の作品を“見せる”経験をしたこと』」
私はゆっくりと文字にしていく。
書いている途中で、「自分の作品」という言葉が、クラス全体のことなのか、自分個人のことなのか、曖昧になっていく。
でも、その曖昧さが今の私にはちょうどよかった。
◇
昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、クラスのあちこちから「飯ー!」「売店ダッシュ!」という叫びが上がる。
「今日、中庭行く?」
詩織が弁当箱を振りながら聞いてきた。
「うん、天気いいし」
「じゃ、早めに場所取ろ」
そう言って立ち上がろうとしたとき。
「佐伯、今日、教室で食べない?」
斜め前から雪村の声。
「中庭行くなら、一緒に行ってもいい?」
後ろから藤宮の声。
「……俺、購買行った帰りに合流していい?」
窓際から朝倉の声。
「「「…………」」」
デジャヴ。
さっきと同じように、三方向から名前を呼ばれる。
さっきとの違いは、先生がもういないことと、クラス全員が露骨にこっちを見ていることだ。
「由衣、モテ期か?」
「なんのイベント?」
「ハーレムルート入った?」
「入ってないから!」
即座に否定しても、笑い声は止まらない。
詩織が「さて」と言わんばかりに腕を組んだ。
「じゃあ、条件出します」
「条件?」
「由衣、今日、ちょっと疲れてるから。——“歩く距離が短くて済むプラン”が採用です」
「ちょっと」
「いや、実際そうでしょ?」
図星だったので何も言えない。
雪村はすぐに反応した。
「じゃあ、教室でいいだろ。俺、購買行って戻ってくるからさ」
「中庭との差、徒歩二十秒くらいだけどね」
藤宮のツッコミ。
「二十秒はでかい」
「だよねー」
詩織がなぜか乗っかる。
朝倉は少しだけ考えてから、静かに言った。
「……教室なら、光の具合もそんなに悪くないし」
「出た、光基準」
「一応、美術室メンバーだから。佐伯の顔色のほうが基準だけど」
さらっと言われて、また心臓の音が変わる。
「じゃあ、今日は教室でいい?」
詩織がこちらに顔を寄せてくる。
「……うん」
「決まり。男子陣はそれぞれ食料調達して解散〜。女子は席確保」
「何その仕切り」
「こういうときだけ有能」
結局、私たちは教室の窓際の机をくっつけて座ることにした。
◇
数分後。
それぞれ弁当やパンを手に、四人——いや五人が机を囲んだ。
「なんで委員長もいるの」
「助っ人枠だから。いろんなグループに顔出すって言ったでしょ」
「昼休みにまで仕事してるの?」
「“昼休みもクラスの空気を観測する”ってやつ」
藤宮はパンを齧りながら、周りの様子をさりげなく眺めている。
その視線の隅に、何度か自分が引っかかっていることに気づく。
「由衣、おかず交換する?」
詩織が卵焼きを突き出してくる。
「いいの?」
「今日のやつ、ちょい甘めだから。由衣向き」
「じゃあ、こっちのきんぴらあげる」
タッパーの中身を少しずつ移動させていると、向かい側から雪村がじっと見ていた。
「……なんか、いいな」
「なにが?」
「そういうの」
「おかず交換?」
「うん」
雪村はコンビニのおにぎりを開けながら、少しだけ目を細めた。
「ウチ、朝は各自だからさ。なんか、“弁当の中身共有する感じ”いいなって」
「じゃあ一個あげる?」
思わず卵焼きを一切れ差し出すと、雪村は一瞬きょとんとして、それから照れたように笑った。
「マジで? じゃあ、ありがたく」
箸で受け取って、ぱくっと食べる。
「……うま」
「よかった」
「由衣の家の味、って感じ」
さらっと言われて、胸の奥がまたざわつく。
藤宮がそれを見て、パンの袋をくしゃっと握った。
「いいなあ、卵焼き」
「欲しいの?」
「いや、いい。俺ん家甘い卵焼き出ないから、今のやつちょっとズルいなって思っただけ」
「素直に欲しいって言えよ」
「雪村、お前今いいとこ取った自覚ある?」
「な、なんだよ」
「“家の味”とか、ポイント高いに決まってんだろ」
「ポイントってなんだよ!」
男子同士のやりとりが、なぜかこっちの心拍数にも影響してくる。
その横で、朝倉は静かに自分の弁当箱——サンドイッチを開けていた。
具が綺麗に並べられていて、パンの耳も残っている。
「朝倉くん、そのサンドイッチ、自分で作った?」
詩織が興味津々で聞く。
「ああ。昨日の夜の残りを挟んだだけ」
「オシャレかよ」
「オシャレじゃない。冷蔵庫の整理」
淡々とした答えに笑ってしまう。
「佐伯、食べる?」
「え?」
「トマト抜くから、ひとつ余る」
言いながら、彼はサンドイッチをひとつ持ち上げて、ナイフでトマトだけを器用に抜いていく。
選ばれたのは、卵とハムとレタスが入ったやつだった。
「トマト苦手なの?」
「うん。味はいいんだけど、食感がまだ慣れなくて」
「分かる」
思わず頷いてしまう。
「俺もわかる」
「俺は平気」
「委員長はなんでも食べそう」
「偏見」
みんながそれぞれ自分の好みを言い合う中で、私はサンドイッチを受け取った。
パンの柔らかさと、手から伝わる冷たさ。
「……いただきます」
一口かじると、マスタードの香りがふわっと広がった。
「おいしい」
「よかった」
朝倉の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
ふと気づくと、詩織がニヤニヤした顔でこっちを見ている。
「なに」
「いや。“家の味”と“手作りサンド”どっちももらってる由衣、つよ〜」
「やめて変な実況しないで」
「ちなみに俺のパンはコンビニ製です」
藤宮が若干自虐的にパンの袋を掲げる。
「でもそれ、具たっぷりのちょっと良いやつじゃない?」
「委員長はコスパにうるさいからね」
「静かなディスりありがとう」
笑い声が重なって、教室の窓から入る光が、机の上の弁当箱を一様に照らした。
——なんだろう、この感じ。
昨日まで、「負けヒロイン」として物語の外から見ていた景色が、少しずつ「私がいる場所」の色に変わっていく。
まだ恋だと断言するには早すぎる。
でも、このわちゃわちゃした真ん中に自分がいること自体が、今までの私からしたらありえないことだった。
◇
放課後。
ホームルームが終わると同時に、担任が新しいプリントを配った。
「球技大会の競技希望、今日中に出せよー。サボったやつは強制ドッジボールな」
「えー!」
「ドッジも楽しいけどな」
プリントには、バレー・バスケ・フットサル・ドッジボールの四つが並んでいる。
「由衣、なにやる?」
詩織が言う。
「運動神経のない人用競技はないの?」
「観客席でポップコーン売りたいってさっき言ってたじゃん」
「あれ冗談だよ」
「俺、バスケかな。去年も出たし」
雪村がさらっと言う。
陸上部なのに球技もそこそこできるの、ずるい。
「佐伯さん、バレー向いてそう」
「え、なんで」
「手、綺麗だから。レシーブしてるとこ似合う」
藤宮が、さらっと適当なようで的確なようなことを言う。
「それ理由になる?」
「なる」
「俺もバレーかな。ネット越しの構図、写真映えする」
朝倉は結局そこ。
「……じゃあ、バレーにしよかな」
なんとなく、流れでそう言ってしまった。
「よし、バレー班組もうぜ」
雪村がニッと笑う。
「え、雪村も?」
「俺、球技ならバスケだけど、バレーも嫌いじゃないし。——佐伯が出るなら、まあ、バレーでも」
最後の一言が小さくて、聞き逃しそうになる。
藤宮がすかさず乗っかった。
「じゃあ俺もバレーかな。委員長として、各競技に一人は出ておきたいし」
「それ、理由苦しくない?」
「苦しくないよ。クラスのバランス考えてるんだから」
朝倉も淡々と言う。
「俺もバレーでいいよ。シャッターチャンス多そうだし」
「カメラ持ち込む気満々じゃん」
結局——
気づけば、雪村も、藤宮も、朝倉も、揃って「バレー」に丸をつけていた。
「お前ら、佐伯の周りに集まりすぎだろ」
担任がプリントを回収しながら苦笑する。
「なんか、佐伯をセンターにしたアイドルグループでも作るんか?」
「作らないです!」
即答したけれど、クラスの笑いは止まらない。
顔から火が出そうになる中で、ふと、昨日の自分の言葉を思い出した。
“平気じゃないけど、前に行く”。
今のこれは、まさにその状態だ。
平気じゃない。
でも、逃げるよりは、ここに立っていたい。
◇
そのあと、藤宮は職員室へプリントを届けに行き、雪村は部活の準備に走り、朝倉は美術部の活動へ向かった。
教室に残ったのは、片付け途中の机と椅子と、まだ少しざわざわした空気。
「……ねえ由衣」
隣でノートを閉じながら、詩織がぽつりと言う。
「なに」
「今日一日で、“負けヒロイン”って言葉、頭に浮かんだ?」
不意打ちだった。
でも、すぐに答えられた。
「……浮かばなかった」
「でしょ」
詩織は、ふっと微笑む。
「だって今日の由衣、完全に“物語の真ん中”にいたもん。
男子三人の会話の中心も、球技大会のチーム構成の中心も、グループワークの書記も。
どれも、“負けヒロイン”の位置じゃない」
「……でも、勝ち負けって感じでもないよ」
「うん。そこがいいんじゃん」
詩織は鞄を肩にかけながら言う。
「誰かの“勝ち”になる前に、“自分の呼吸”を勝たせる時期ってあると思う」
「呼吸を勝たせるってなに」
「今はまだ、“誰のヒロインか”より、“自分の物語の主人公かどうか”のほうが大事ってこと」
難しいことをさらっと言う。
でも、なんとなく分かる気がした。
球技大会のプリントに並んだ○印。
そこに集まった名前たちを思い出す。
雪村。
朝倉。
藤宮。
そして、私。
誰の隣に立つのか、まだ全然決まっていない。
でも、少なくとも——もう「端っこで見てるだけ」ではない。
「……なんか、怖いけど」
「うん。怖いね」
「でも、ちょっとだけ楽しい」
「でしょ」
詩織が、あっさりと言う。
「だから、ちゃんと揺れときなよ。
雪村にも、朝倉にも、藤宮にも。
全部の揺れを、“負けヒロインじゃない”由衣の成長にしちゃえばいい」
「そんな器用なことできるかな」
「由衣ならできる。——だって、負け方から立ち上がった子だもん」
その言葉に、胸の奥の水が、静かに、大きく波打った。
負け方から立ち上がる。
それはきっと、恋のことだけじゃない。
自分が自分をどう見てきたか、その全部からの再生だ。
「……とりあえず」
私は鞄を持ち上げて、深く息を吸った。
「球技大会までに、レシーブ練習しよ。空振りしたら、全部台無しになりそう」
「そこからかーい」
「大事でしょ。主人公がサーブで顔面直撃したら洒落にならない」
「まあ、それはそれで伝説になるけどね」
二人で笑いながら教室を出る。
廊下の窓から見える空は、昨日より少しだけ高くなっていた。
夏に向かう前の、透明な青。
胸の中の水も、その青を少しだけ映していた。
好きかどうかなんて、まだ分からない。
でも——
誰かの隣に立つ前に、ちゃんと自分の足で立っていたい。
そう思いながら、私は一歩、前に進んだ。
次の更新予定
2025年12月14日 21:30 毎週 日・水 21:30
負けヒロイン、もう泣かない。―恋の終わりから始まる私の物語― 桃神かぐら @Kaguramomokami
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