第5話 街の問題

 朝の路地は、湯気で息をしていた。


 家々が縫い合わせたような壁を雨どいが這い、洗濯物の紐が空を横切る。


 上の階が下の屋根に乗り、その屋根がさらに別の家の壁を支える。


 軒と軒の隙間から、香辛料の匂いと蒸気が手を伸ばしてくる。赤い灯籠は夜の名残りを抱えたまま、まだ消えきらない灯りで朝露を照らしていた。



 自由港ザカ、東方街区ロータスランタン。



 ここはエルドリア王国の端っこ、硬い石と、東の柔らかい布が混じり合う場所だ。広場ではラテン風の音楽が流れ、路地では点心の蒸籠が鳴る。塔の上に祈りをささげる神官の白、船大工の青い手ぬぐい、香の煙は銀色の糸になって空へとほどけていく。


 エヌートはそんな路地の一角、斜めに傾いた建物の一階にある。


 戸を開けると、乾いた草の匂いと、煎った生姜の甘い香り。棚には小瓶が並び、封蝋の色が朝の光をはね返す。



「開店や」



 サソリは鍵を外し、札を返した。白衣の袖口を折る。指が細い。横でルゥが背伸びをして、猫のミーが足元をふわりと抜けた。



「本日もよろしくなのです」



 ルゥは蓮の刺繍の布を整え、符束を帯に差す。翡翠の飾りが光を受けて、路地の赤を跳ね返す。ゴンザレスは大きな桶に水を張り、布を絞って床の埃を落とす。



「サソリの兄貴、表の灯籠、一つ消えてます」

「まあええ、昼の顔に戻る時間や。灯籠は夜の子やからな」



 このエルドリア王国には魔法が存在する。


 ただ、魔法は万能やない。


 人が一生に使える魔法は、一つだけ。


 授かり物や。火を点ける者は火しかできんし、糸を操る者は糸しかない。


 何も持たない者もいて、魔法を持っていても、暮らしの道具にするしかない者も多い。


 サソリの術は「蛇目」。


 真実を映す目である。


 嘘は色を持ち、人が口にする言葉と心の手前にある思いの間、その隙間に鱗みたいな影が走る。目を細めれば、ほんの刹那、光の縞が反転する。



 また、正しい物を見極めることができる。



 朝一番の客は、近所の麺屋の夫婦だった。


 男は「汗止め」を、女は「手荒れの膏」を求める。


 銅片が小皿に落ちる音が、店の朝を始める鐘みたいなもんや。



「ほな、薄荷と白芷や。汗は止めすぎるとしんどなる。仕事の前に半匙、閉店前に半匙やで」

「はいはい、先生の言う通りにしますよ」



 次に来たのは船大工の若い衆。腕に木屑をつけたまま、肩を揉みながら入ってくる。



「先生、関節が鳴くんですわ」

「鳴らしてええ関節と、鳴らしたらあかん関節がある。お前のは悪い方や。貼っとき」



 男の相手は、ゴンザレスでも大丈夫。


 不器用に包帯を巻く。手が大きいくせに、力加減は覚えた。



「次、ルゥ」

「はいなのです」



 ルゥは銅片を数え、符板を撫で、客の背にそっと紙符を貼る。


 符は魔法やない。人の手で練った印の技術や。ルゥの術は「影踏み」。


 影の縁を一瞬だけ重くする。逃げ足の早い子どもをとっさに止めたり、瓶が落ちる前に影で受けたり、物の一拍を縫い留める、ちいさな術。



 昼近くなると、路地がざわつき始めた。



 軽食屋の蒸気が濃くなり、油の匂いが増す。屋根の向こうに鳩が一斉に飛び立ち、どこかの店から楽師の音が洩れてくる。



「先生、灯籠が……」



 声をかけてきたのは、店先の掃き掃除を任されとる小娘やった。名はちいさくミン。髪に赤い紐を巻いて、ほつれた前髪を気にしながら指さす。



「昨夜から、通りの灯りが急に消えるのです。怖いのです」

「風が強かったんやろ」

「違うのです。灯守のおじいが、ちゃんと見回ってたのに」



 ロータスランタンには「灯守」の男が一人おる。


 あれはこの街でも珍しい術の持ち主や。火を点けるんやない。


 灯りの寿命を少しだけ延ばす術。


 夜の終わりと夜の始まりの間を、ひと呼吸だけ伸ばしてくれる。


 あの人がいる通りは、酔っぱらいも足を踏み外さへん。それが昨夜は、真夜中に一斉に消えた言う。



 サソリは箸を止め、粥の湯気越しに路地を見た。


 昼の灯籠はみんな眠っている。けど、二つ三つ、油がまだ温うて、芯の色が黒ずんどるもんがあった。油の質が変わったらしい。



「灯守んとこ、誰か来たか?」

「さっき、役所の人が……罰金だって怒鳴ってたのです」

「ほう」



 蛇目の奥で、鱗がひとつ裏返る感覚。嘘の香りが、風の上で薄く転がった。



「ちょっと行ってくるわ」

「はいなのです。店番しているのです」

「俺も行きます、兄貴」



 店を閉めるほどやない。札は「少し席を外してます」に返す。



 ルゥだけに任せるのは不安が残るので、整理だけを頼んで店を出た。



 灯守の家は、細い階段を三つ上がったところ。階段はどれも別の家の間に挟まれて、木の板を板で支えとる。


 人が作った複雑な巣や。風があたためた料理の匂い、洗濯物の石鹸、どこかで鳴る鍋の蓋の音。遠くに鐘楼が一度だけ鳴り、子どもらが走っていった。


 戸口の前に、男が二人。帽子は王都式、靴は路地に似合わん光沢。手には帳面。肩で威張るのが上手い、あの型や。



「灯火管理の罰金や。昨夜の消灯は、お前の怠慢だ」



 戸の隙間で、老人の浅い咳。灯守の爺は痩せて、目だけが若い。額の皺は多いけど、指は油に慣れて滑らかや。



「怠けては、おりません」

「嘘をつくな」

「嘘やない」



 言葉がぶつかった瞬間、サソリは目を細めた。帳面の男の声と心の間に、小さな鱗の影。黒い光が、言葉の縁で逆立った。怒りじゃない。急いでる。追い立てられとる匂いや。



「兄ちゃんら、誰の差し金や?」

「役所や」



 すぐ出た。早すぎる答え。蛇目の奥で、また鱗が裏返る。役所は役所やろうけど、根っこに別の名がある。誰かが、灯りを消したい理由を持ってる。



「罰金は払います。けど、わしは怠けておりません。昨夜は……」



 灯守の声が、そこで途切れた。視線がサソリの胸元の白に触れ、揺れる。



「先生、来てくれたのかい」

「来たで。灯の寿命が縮むのは、二つ理由がある。油か、風や」



 サソリは灯籠の芯を手に取り、爪でほぐした。黒が濃い。油が悪い。混ぜ物が多い油は芯を早く焦がす。夜半で一斉に消えたなら、ひと筆の仕入れが変わったんやろ。



「役所の兄ちゃん、油はどっから?」

「管理は灯守の責任だ」



 また早い。蛇目が静かに冷える。



「役人さん、靴が新しいなぁ。泥が少ないな。ここを巡回してるんか?」



 ゴンザレスは壁の張り紙に目をやる。新しい札。字が雑やが、印だけはきれいに押されている。王都の紋……に、似せたもの。



 サソリはゆっくり笑った。



「罰金は後でええ。爺、昨夜の回り、どこから始めた?」

「いつもと同じ、潮鳴り小路から。あそこは風が悪い」

「油は?」

「いつもの店……やったが、昨日は違う匂いがした。甘いような……」



 甘い。砂糖を焦がすみたいな香り。灯油に入れてはいかん香。匂いでごまかすために混ぜられる、薄めもんの印や。



「兄ちゃんら、悪いけど一度引いてや。罰金は明日でええ。今夜、ウチが見回る。灯が消える理由を確かめてからや」



 男は口を開き、すぐ閉じた。帳面が腹の前で揺れる。押せないと見るや、足を引いた。靴が石の上で軽く鳴る。足取りが急いでる。追い立てられとる人間の癖や。



「ありがとよ、先生」

「おっちゃん、これは咳止めや。のんどき」

「しかし、金が」

「気にせんでええよ。おっちゃんのおかげで、安くで街が明るく荒れるんや」



 灯守の爺は、手を合せた。指が油で少し黒い。


 膝の高さの灯籠に新しい芯を通す。細い指。符を一枚、灯籠の内側に忍ばせた。



「今夜、風が急に強くなっても、一拍だけ持つ」

「助かる」



 階段を降りると、路地の昼はもう賑やかになっていた。香辛料の屋台が赤い粉を山にして、魚屋が氷の欠片を木箱にまき、子どもが尻尾の短い凧を引いて走る。



「サソリの兄貴、どう動きます?」

「油屋を当たる。甘い匂いのする薄い油は、昨日の仕入れや」



 蛇目の奥で、昼の光が鱗に乗る。嘘はたぶん夜に来る。けど、日常の顔からしか見えへん嘘もある。



「その前に、腹ごしらえや。昼抜いて夜動いたら足がつる」



 サソリは笑い、指で示した。生姜と葱、白胡椒を少し。銅片が器の底に転がる音がした。



「なぁ、ゴンザレス。この街がオレは好きやねん」

「はい」

「せやから、ここに暮らす人らも守ってやりたい」

「ロータスランタンは、エルドリア王国でも見捨てられつつある場所や。だから、自分らで守らなあかん。役所の連中は自分のことばかりやからな」



 活気があり、楽しく見えてもいつお上の気分次第で、状況が変わるのかわからへん。



「サソリ兄貴、依頼です」


 

 ゴンザレスは、一通の手紙を差し出した。



「仕事の依頼かいな、仕方ないな」



 毒師サソリには、表の薬屋以外にもう一つの仕事が存在する。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

毒師は禁制ポーションを裏で取り扱う。 イコ @fhail

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ