みんなの「多様性」

@saku-to

第1話

「あー…、パートナー?」

宝飾店で働いていた時に、お客様から言われた言葉だ。退職後も様々な出来事を思い出しては、苦い記憶に顔を顰めたり、楽しかった記憶に頬を緩めたり百面相をしている中で、この言葉は思い出す頻度が高めだ。鋭くもなく、心を抉られるような痛みもない。が、なんだかモヤぁっと心を曇らせる。

 

宝飾店の販売は、ただお客様が一人でショーケースの指輪やネックレスを見て、「これください」と言うのを待って、「はい。かしこまりました」とショーケースから出してお包みして、会計をする。なんて単純なものではなく、お客様が来店し、「いらっしゃいませ」とお声がけをしてから、一人・一組のお客様に対して一人の販売員が付き、時間をかけてご案内をする。購入してもしなくても、背中が見えなくなるまで店外まで出てお見送りをする。ゴリゴリの営業職だ。

 そして、一度接客したお客様の顔を覚える。これは基本中の基本だ。

ある日、いかにも高級そうな身なりの男女が来店した。年齢は二人とも、恐らく四十後半から五十代。ご夫婦だろうか。自分よりも二十歳ほど上のご夫婦に緊張しながらも、にこやかに近づく。販売員のつく買い物にも慣れているようで、「いらしゃいませ」からの接客に付くことはスムーズに成功し、商品を見せていく。数十万円もの商品を検討するが、残念ながら購入に至らずお帰りになった。私の力不足だ。高額商談を決められなかった敗因を考え、脳内で始まる一人反省会。もし再来店してもらえたらと、何度もシミュレーションをする。

数週間後、一人の女性が来店し、私は接客に付いた。お話ししているうちに、あれ?と思い始めた。あの時のご夫婦の奥様の方だ!思い出すのが遅い!と、頭の中の私が、私に叱責する。ここで焦ったのが良くなかった。

「あの、先日もご来店いただきましたよね?ご主人様と」

言った瞬間、自分でも間違えたと自覚はした。「ご主人様と」はいらなかった。覚えていますアピールが出すぎた。そして、冒頭の言葉が女性から出たのだ。

「あー…、パートナー?」

私は咄嗟に

「失礼しました。本日はお一人ですか?」

と取り繕い、会話を進める。案の定、この日も買い上げ無し。完全にしくじった結果である。また来店してくれるかどうかさえも怪しい。

これも「多様性」ってやつだよな。と脳内で一人反省会を繰り広げながら思う。

 「多様性」が広まってから、いろんなことを決めつけないように、細心の注意を払うようになった。人を傷つけないための良いことだと思う。


 男性一人で来店した際、「贈り物ですか?」というお声がけは定番だったが、最近は、「ご自身用ですか? 贈り物ですか?」とお伺いするし、たとえ贈り物だったとしても、「彼女さん・奥様」というワードは厳禁。「お相手の方」がベスト。これは女性も同じだ。「彼氏・ご主人・旦那様」何も知らない段階での会話は気をつけなければならない。

実際、同性カップルの接客も何度もさせていただいた。とにかく性別を示唆する言葉は、はっきりと判明するまで使ってはならない。それに関して私は賛成だ。大賛成。決めつけは良くない。さらに、そこそこの年齢の男女で仲睦まじく来店したとしても、夫婦とは限らない。結婚はしておらず、恋人かもしれないし、不倫相手の可能性もある。そしてその両方とも、本当にたくさん接客した。不倫相手の場合、そこに本妻が現れて修羅場…。という場面に出くわした先輩販売員の話も聞いた。これらを踏まえると、私の発言は完全に失言だった。反省は尽きない。

 しかし、「ご主人様・奥様」という呼び方がいけないとされてしまうと、なんと呼べばいいのだろう。先の女性が言うように、パートナー?だが、接客時、相手を敬う言葉として、尊敬語、謙譲語の中に取り入れるとなると、なんとも使いづらい。

「夫・妻」は良いらしい。しかし、それは他者が使う言葉ではない。何かいい呼び方はないだろうかと「ご夫人(ごふじん)・ご妻人(ごさいじん)」と声に出さず呟く。ご夫人は夫のいる女性の事を指す言葉だし、ご妻人とは…。響きが後妻だ。却下。

「ご主人様・奥様」という言葉は、主従関係を表していることがダメなのだという。

そう言われましても…。代わりになる、時代に合った新しい適切な言葉がなければ使わざるを得ない。「多様性」を盾にして、鋭く研いで矛にして振り回すと、良い考えのはずが、だんだん暴力的な言葉へと変化してしまわないだろうか。他人とのコミュニケーションに怯えるようになってしまう。もっと平和に、優しく「多様性」を広げることはできないのだろうか。

 良くない事は良くないと、正しく声を上げることは素晴らしいとは思う。けれど、過度な取り締まりは、正義中毒という言葉が生まれたように、人々を疲弊させてしまう。

時には受け流すことも、自分も他人も傷つけないためには、必要ではなかろうか。今こそ、あのムーディーなお方に、右から左に受け流していこうと、歌っていただきたい。

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