第8話 髄まで染み込んだ業
「純平くん、あれから調子はどうかな?」
「ヴー…先生、あのクスリ、おいしくないからイヤだで…」
リスパダールの液剤のことだろうか?確かに独特の苦い風味があり味がおいしくないと患者の間では評判になってるようだ。
「そっか。我慢して飲むのも嫌かな?」
「イヤッ!」
…これが中年男性の回答だ。まともな大人なら薬が多少まずくてもそういうものと飲み込めているだろう。しかし純平の味覚過敏には発達障害由来の部分もある。霧島は本人のわがままではないんだと己に言い聞かせ
「じゃあ薬を変えるね。エビリファイってやつは甘い味だから大丈夫だと思うよ。」
「今日は純平くんの昔の話を聞かせてほしいんだ。」
「え?なんで?」
純平は露骨に不機嫌そうになる。自分の内面に触れられるのがやはり嫌なようだ。その自己愛の鎧を纏う前の姿を確かめるため、霧島は純平の心の奥深くに飛び込もうとした。
「昔あった嫌なこととか大人になってから続くこともあるからね。何か子供の頃嫌だったことはあるかな?」
そう歩み寄って問うとこれまでボソボソと呟いていた純平が急に饒舌に語りだした。
「オラ…オラ…小学生の頃から虐められてた!」
「いじめ…例えばどんな?」
「オラ広島から大阪に転校したことがあるんだけど、転校初日に殴られた!オラ何もしてないのに!」
「そうなんだ。殴った相手はなんて言ってたか覚えてないの?」
「覚えてないだで!でもオラが悪いことはしてない!」
龍に目線を合わせると苦虫を噛み潰したような顔をしている。この逸話にも何かしらの背景がありそうだ。
「なるほど、大変だったんだね。他にも配信を始めるまでに嫌だったこと、苦しかったことはあるかな?」
「ほんとにたくさんあるからどれから話せばいいか迷うけど…そうだ!家庭教師のことだ!」
自分が被害者面できる時だけはペラペラと弁が立つ。これが一般の人ならイライラして話を打ち切っていたかもしれない。
「へえ、純平くん家庭教師に勉強教えてもらってたんだ。」
「高校行くときにオカサンが『このままじゃどこも受からないから先生に教えてもらいなさい』って。でもその家庭教師がひどいやつだった!」
「そうなんだね、何をされたの?」
「あの…フケ落とされた!」
「は?フケ?フケってあの頭から出るやつ?」
「それ以外ないだで!オラが問題解いてる時頭掻いてフケ落とした!」
…その話が事実であっても25年以上気にする恨みなのか。純平のいびつな感情は昔からあるようで霧島は心の中で頭を抱えてしまった。
「うん、いろいろ大変だったんだね。今日はこの辺で。じゃあお父さんと話したいから待っててくれるかな?」
「わかっただで。先生が話わかる人でよかっただで。」
純平は愚痴を聞いてもらいスッキリしたのかいつもより軽い足取りで待合室に向かった。
「ではお父様、純平くんの過去の話ですが…その様子だと訳ありだと思うのでお父様からもう少し詳しく聞かせてください。」
龍は顔を真っ赤にしてブルブルと震えていた。
「あんのケツタレ!先生の前じゃなかったらぶん殴ってたとこだったぞ!転校先で殴られたのもあいつが悪いのに!」
「何があったんですか?」
「転校先でな、話しかけてくれた女の子に抱きついてキスしようとしたんじゃ。それで女の子が悲鳴あげると近くの男の子が咄嗟に動いてあのアホヅラに拳めり込ませたというのが経緯じゃ。」
なんということだ。純平は人格だけでなく性行動も幼い頃から歪んでいる。恩師の言葉が揺らぎつつあり動揺した霧島は話題を変えることにした。
「そ、そうだったんですね。では家庭教師にフケを落とされたというのは?」
「そもそもその家庭教師さんはフケなど出しとらん!ケツタレがアトピーなのは知っとるじゃろ?それであいつ痒がってボリボリボリボリいろんなとこ掻きむしるんじゃ。そしてそれは頭も例外なくじゃ。」
「つまり純平くんは自分のフケを家庭教師のものと思い込んで恨んだと?」
「そうじゃ。何度もこれはおまえのもんじゃ!と怒ってきたのにあんのバカが…」
「…わかりました。ですがこの話は我々にとっても貴重な情報です。だから純平くんを怒らないであげてください。」
「…まあ、先生がそういうなら。ところで、あいつをそろそろ作業所に通わせたいと思うんじゃが、先生はどう思う?」
「はい、私もそろそろかなと思っていました。今の純平くんの状態ならB型作業所をお勧めします。」
就労支援事業所、障害で一般就労が難しい人が働く場所だ。そのうちのA型は雇用契約を結ぶため最低賃金以上の給与を雇用主は支払う必要がある。一方のB型はどちらかというとリハビリ的な位置づけにされ、作業も簡単で柔軟な働き方ができる代わりに支払われる工賃は雀の涙だ。
「うーむB型か…せめてAにできんか?」
「知能指数ではA型でも問題ないと思いますが、いかんせん純平くんは対人関係に難があります。まずは作業する習慣を身に着けてもらいましょう。」
「それもそうじゃな。あいつ人とまともに話もできんし…」
こうして診察が終わり、霧島はカルテの記入を開始した。
純平を深く診れば診るほど恩師の理念が揺らいでしまう。
患者の病を取り除き善良な人格を取り戻す。病のせいで岩のように見えても奥底には輝く宝石が眠っている。
しかしもし掘っているものが100%石だったならば?
霧島はそんな嫌な考えを払うように目の前のデスクワークに集中した。
診療録
氏名:浜坂 純平
年齢:41歳
診療日:令和○年○月○日
主治医:霧島健
1.主訴
父親同伴にて来院。前回より抗精神病薬服用中。表情にやや硬さあるも会話は成立。
2.現病歴
前回より服薬継続しているも、「リスパダールが苦い」と訴え。本人の感覚過敏を考慮し、アリピプラゾールへ変更。服薬指導を行い、日内変動を確認予定。
3.生活・心理状況の聴取
聞き取りでは、幼少期および学齢期のエピソードについて語る。
「転校初日に殴られた」「家庭教師にフケを落とされた」など、被害的な内容を中心に饒舌に話す傾向が見られ、主観的体験と客観的事実との乖離が推察される。
反省や自省に関する言及は乏しく、語りの多くが「自分は理不尽に傷つけられた」という構図で統一されている。
4.家族面談(父親)
父親より追加情報あり。
「転校初日に殴られた」件は、純平が同級生女子に対して不適切な接触・言動をしたことが発端であった。
「家庭教師にフケを落とされた」という件も、実際には本人のものであり、家庭教師を長年にわたり一方的に恨んでいるとのこと。
幼少期より対人トラブルが多く、自己中心的・被害的な語りや性的逸脱傾向は早期から認められていたという。
父親は「今後の就労についてどうすればよいか」と質問あり。
知的機能(IQ65)および対人適応の課題を踏まえ、就労継続支援B型事業所の利用を検討するよう助言。
父親はA型事業所を希望するも追加説明により理解を示す。
5.所見
被害的思考・自己愛的傾向・反省困難が持続。
対人認知の歪みが強く、過去の出来事を「不当な迫害」として長期に保持している。
父親の語りからも発達的脆弱性および人格的偏倚の早期発現が示唆される。
情動の変動は乏しいが易怒性が残存しており、今後も慎重な薬物調整および心理社会的支援が必要。
6.治療方針
アリピプラゾール少量投与にて経過観察。
家族への情報提供および就労支援連携(B型作業所含む)。
包括支援センターと連携し、社会的支援の枠組みを維持。
必要に応じて心理士による認知行動的介入を検討。
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