転生スパイは異世界でチート能力を隠し、王国の深層心理を読み解く

御厨あると

序章

 壁に叩きつけられた瞬間、久世零の意識は、鋭利なガラスの破片が心臓を貫く冷たい感覚と共に途絶した。


「失敗……か」


 最後の思考は驚きでも恐怖でもなく、ただ任務完遂の成否に対する冷静な分析だった。


 久世零。コードネーム【ファントム】

 冷戦時代から水面下で世界を動かしてきた、伝説的なスパイ組織の末席に位置するエージェントだ。彼の仕事は暗殺でも爆破でもない。情報操作、心理誘導、そして対立する大国の指導者たちの心に植え付ける「疑念」の種蒔きだった。彼の最大の武器は鍛え抜かれた肉体ではなく、敵の心理プロファイルを瞬時に作成し、その行動を予測する究極の頭脳だった。


 今回ファントムが追っていたのは、数十年前の冷戦終結と共に歴史の闇に消えたはずの、古い組織の残党が開発したとされる「指向性マイクロ波兵器」の設計図だった。追跡の末、彼が突き止めた標的のアジトは、都心からかなり離れた廃墟ビル。ターゲットは最期の抵抗として、ビル全体に仕掛けた爆弾と、ガラス片を散乱させる特殊なトラップで迎撃してきた。


 回避は間に合ったはずだった。しかしファントムは一瞬の迷いを生じてしまう。それはターゲットの「自爆」によって民間人の犠牲が出ることへの躊躇だった。郊外の廃墟ビルとはいえ、周囲には平穏な日常がある。その一瞬の逡巡が、彼の命取りとなった。


 ――俺はスパイとしては不適格だったかもしれないな。任務のためなら非情に徹するべきだった。


 薄れゆく意識の中、零の頭脳は最後の瞬間に見た情景、ターゲットの微かな笑み、そして自身の行動のすべてを、完全なデータとして記憶のアーカイブに収めようとしていた。

【完全記憶(アブソリュート・リコール)】

 この能力は彼の生得的な才能であり、スパイとしての活動を支えてきた基盤だった。

 しかしそのデータ転送は、心臓の停止と共に途切れる。久世零、享年二十七歳。スパイ【ファントム】は情報世界の歴史から姿を消した。


 次に意識が覚醒したのは、まるで羊毛に包まれたかのような温かい感触の中だった。


「――――っ!」


 声を出そうとしたが、出たのは甲高い赤子の泣き声だった。視界はぼやけ、焦点が定まらない。見えるのは古めかしい木造の天井と、ぼんやりとしたランプの光だけだ。


「ああ、レイ。やっと起きたのね。よかった、よかったわ」


 優しく響く女性の声。彼女の手が零の小さな身体をそっと抱き上げる。


 ――レイ? いや、それ以前に……この身体はなんだ?)


 零の頭脳は瞬時に状況を解析しようと試みた。視覚、聴覚、触覚。すべてが成人のそれではない。体温、筋力、骨格構造。すべてのデータが「生後間もない乳幼児」であることを示していた。


 転生。


 その非科学的で現実離れした言葉が零の頭の中に閃いた。前世で扱っていた「裏の世界」の任務においても、決して関わって来なかった概念である。しかしこの身体感覚と状況証拠は、それを否定することを許さない。


 そしてその「転生」をきっかけに、久世零の頭脳には、新たな「能力」がインストールされていた。

 世界の理を瞬時に理解する力。

 目の前にいる女性が持っている、古めかしい木製のペンダント。そのペンダントが、なぜこの世界では「魔除け」として機能するのか? その木材の密度、加工された形状、施された微細な彫刻のパターンが、周囲の大気中の微量な「マナ粒子」とどのように干渉し、特定の周波数のエネルギーを反射しているのか?


【異能解析(チート)】

 零の頭脳はそのペンダントの「機能」を、量子力学や熱力学、果ては心理学的なバイアスまで含めて、ほんの一瞬で完全に解読した。それは前世で培った【完全記憶】とは、根本的に異なる次元の理解力だった。


「これは?」


 零は自身の【異能解析】の能力に驚愕した。 この世界にある、魔法、武術、経済、社会システム、人々の言語、すべてが「数式」や「設計図」のように見えていた。


 この能力を使えば、世界など容易く征服できるだろう。 魔法の構造を解析し、より強力で効率的な魔法を開発する。武術の動きを解析し、最短距離で敵を打ち破る。経済の動きを解析し、一瞬で莫大な富を築くことも可能だ。

 だが、久世零は能力を隠す道を選択する。


 ――強大な力は、必ず敵を生む。そしてその力に頼り過ぎると本質を見誤る)


 前世で零は数々の「力による支配」が、結局「情報と心理による支配」に敗れ去るのを目の当たりにしてきた。究極の武力を持つ者が、簡単な偽情報一つで惨敗する。莫大な財力を持つ者が、巧みな心理操作で破滅するのだ。


 零の真の武器は、人の心を読み、情報を操る技術。この【異能解析】能力は、その技術の裏付けとして活用すべきだ。


 辺境貴族私兵の子として、零に与えられた第二の人生。彼は表向き【異能解析】能力を隠し、静かに成長していくことを決意する。スパイ【「ファントム】の頭脳だけを駆使し、まずは【完全記憶】を研ぎ澄ますことに専念するのだった。



 あれから十数年の歳月が流れた。

 この頃には、この世界での名前「レイ」にも馴染んでいた。彼が転生したのは「アステラ王国」の辺境ミルフォード領。小規模な騎士団を抱えるだけの、取るに足らない貧乏貴族の領地だった。


 辺境貴族私兵の子として育ったレイは、その卓越した身体能力と、なによりも機転の良さで知られていた。剣の稽古では誰よりも早く相手の動きを予測し、最小限の力でカウンターを決める。座学では一度読んだ文献は瞬時に記憶し、その内容を体系的にまとめてしまう。


 周囲はそれを「才能」と呼んだ。しかしレイ自身は知っていた。それは【異能解析】と【完全記憶】という二つのチート能力を、意図的に「才能」の範疇に収まるよう出力制限しながら運用している結果に過ぎない。


 ――ミルフォード領の経済構造。領主の性格、騎士たちの俸給、農民たちの不満指数。すべてがダルク公爵領の二年前の状況と酷似している。これは組織的な経済的圧迫の定型パターンだ。


 十七歳になったレイは、自身の置かれた状況を、前世のスパイ組織が用いた「国家レベルのプロファイル作成」の技術を用いて詳細に分析していた。


 アステラ王国は筆頭公爵ギルバート・ダルクが主導する保守派と、第三王女エリアル・フォン・アステラが率いる改革派の、二大勢力の対立軸で動いていた。現国王は病に臥せ、王位継承戦は公然の秘密となっていた。


 そしてレイの生まれ育った領地ミルフォードは、地理的にも経済的にも、ダルク公爵領への編入を画策されている「ターゲット」だった。



「レイ、お前を王都へ遣わす」


 ある日、領主の老騎士がレイを呼び出した。


「王都にいる第三王女エリアル様に、我が領の窮状を訴える親書を届けてほしい。これは公爵派には決して知られてはならぬ極秘任務だ」


 老騎士の顔には隠し切れない焦燥と恐怖が滲んでいた。


〈解析:老騎士の脈拍は平常値の1.5倍。瞳孔は収縮し、発汗量が多い。これは単純な緊張ではなく、死の恐怖を伴うストレス反応だ。この親書には単なる窮状の訴え以上の、ダルク公爵にとって不利益な情報が記されている可能性が98%〉


 レイは瞬時に分析を終え、深呼吸一つで、その結果を頭の奥にしまう。


「承知致しました。命に代えても親書を王女殿下にお届けします」


 礼儀正しく、しかし感情の起伏を見せない返答。それがスパイの鉄則だった。



 王都は辺境とは比べ物にならない喧騒と、権力の臭いに満ちていた。 レイは自身に与えられた「辺境貴族の私兵」という役割を完璧に演じながら王都の情報を収集し始めた。


 最初のターゲットは、ダルク公爵派の貴族が経営する大手商業ギルドだった。ミルフォード領への経済圧迫「実行犯」である。

 レイはギルドの職員として潜入することを考えたが、すぐに【異能解析】でより効率的な方法を見つけた。


〈解析:ギルドの情報セキュリティレベルは低い。彼らが頼りにしているのは、入り口に配置された警備兵と物理的な施錠。最も脆弱なのは人間関係の信用構造だ〉


 レイはギルドの経理担当者の生活サイクル、趣味、そしてなによりも「金銭的な不満」を数日間の尾行でプロファイルする。経理担当者はギャンブル好きで多額の借金を抱えていた。


 ある夜、レイは経理担当者がよく通う薄暗い酒場で彼に接触した。


「ご相伴に預かってもいいですか?」


 レイは金貨を差し出し、経理担当者の隣に座った。


「見慣れねえ顔だな。こんなところでなにをしている?」


 経理担当者は不機嫌そうにグラスを傾ける。


「旅の者――ということでよろしいでしょうか? あなた様にご相談があるのです。実は私『少しだけ未来の株価』がわかる能力を持っていましてね」


 レイはそう言って、数日後のギルドの株価が急落する情報を、極さりげなく匂わせた。もちろんこれは【異能解析】によって、ギルドの隠された財務状況と、それに伴う市場の反応を完璧に予測した結果だ。


 経理担当者はしばらく訝しんだが、レイが語る「未来の情報」があまりにも具体的で、個人的な借金問題に絡む部分まで正確だったため、見知らぬ少年の言葉を信じざるを得なくなった。


「……お前、本当に何者なんだ?」


 恐怖と欲望が混じった目で少年を見る経理担当者に対し、レイは優しく微笑む。


「私はただの協力者です。あなた様が今夜、ギルドの『裏帳簿』のデータを私に渡してくだされば、私はその情報を元に、あなた様の借金を帳消しにできるほどの利益を明日までに保証しましょう」


 心理戦の成功率は99%だった。人間の最大の弱点は「危機からの脱出」と「欲望の実現」である。レイはその両方を完璧なタイミングで提示したのだ。


 翌朝、レイの手にはダルク公爵派の商業ギルドが行ってきた、ミルフォード領への不当な経済操作の証拠となる裏帳簿のデータがあった。


〈解析:このデータは王女殿下への親書と共に提出することで、ダルク公爵の権威を大きく失墜させることができる。ただし公爵はこの程度の打撃では屈しない。彼の本質は権力構造そのものの掌握にある。この裏帳簿は計画の一端に過ぎない〉


 レイは手に入れた情報と共に、第三王女エリアルが滞在する王宮の別邸へと向かった。

 第三王女エリアル・フォン・アステラの別邸。その謁見の間でレイを待っていたのは、予想以上に若く、知的な光を宿した女性だった。彼女は王族特有の威圧感よりも、むしろ「分析」を試みるかのような、鋭い視線をレイに向けていた。


「あなたがミルフォード領から派遣されたレイという青年ね」


 エリアル王女の声は、澄んでいて感情の揺れが少ない。


「はっ! ミルフォード領より親書と共に、この情報をお届けに参りました」


 レイは親書と昨日手に入れた裏帳簿の複写を差し出した。エリアル王女は、その裏帳簿を一瞥しただけで目を丸くする。


「これはダルク公爵派のギルドが、うちの勢力を経済的に締め上げていた決定的な証拠! どうやって、これを手に入れたの?」

「解析致しました」


 レイは前世で最も得意とした「嘘の真実化」の技術を用いた。


「ギルドの経理担当者の行動パターンを解析し、彼の心理的脆弱性『ギャンブル依存』をプロファイル。情報を提供せざるを得ない最適な状況を、物理的介入なしに作り出しました。私の能力は、その程度の『分析』ならば容易です」

「分析」


 エリアル王女はレイの言葉を反芻するように繰り返した。彼女は王宮の教育で権謀術数を学んできたが、レイの語る「心理を対象とした情報戦」の深さと、それを「容易」と断言するレイの自信に、ただならぬものを感じていた。


「あなた、ただの私兵ではないわね。その『分析』は王国の諜報機関『影の眼』の技術を超えている」


 エリアル王女はレイの目を見つめた。その視線はレイの心の奥底を見透かそうとするかのように鋭い。


〈解析:エリアル王女は「優れた頭脳を持つ情報参謀」を強く求めている。彼女はダルク公爵の武力や財力に対抗するには、目に見えない力、すなわち情報と策謀が必要だと認識している。先程の言葉は俺の能力を試すための、意図的な心理的ブラフだろう)


 そこでレイは自身の隠していた【異能解析】能力を少しだけ強く解放した。王女の視線、脈拍、呼吸、そして彼女が身に着けている宝飾品の微細な位置。すべてを解析し、彼女が今、最も聞きたい言葉を導き出す。


「私は前職、とある『秘密結社』の情報処理部門におりました。そこで培ったのは『人間心理の構造解析』と『偽情報による現実の書き換え』の技術です。王女殿下、ダルク公爵はこの程度の経済的証拠では動じません。彼は『あなたが次の一手をどう打つか』を、私のような情報員を使ってすでに分析しているでしょう」


 レイは一歩踏み込んだ。


「私を雇ってください。あなたの剣としてではなく、あなたの盾として任務を果たしましょう。ダルク公爵の次の一手、そのすべてを事前に解析し、彼の策を自己崩壊させる猛毒として、あなたの勝利をお約束します」


 エリアル王女は息を飲んだ。彼女が今、最も恐れていたのはダルク公爵の「予測不能な次の一手」だった。レイの言葉は、その恐怖を完全に打ち消す可能性を秘めていた。

 王女は静かに微笑む。それは聡明な策士の笑みだった。


「わかったわ、レイ。あなたは私の『影』よ。誰もあなたの存在を知らない。あなたは私の情報参謀、コードネームは【ファントム】。このアステラ王国という巨大なパズルの『深層心理』を見事に読み解いてみせなさい」


 レイは前世のコードネームを、この異世界で再び与えられたことに、内心で静かな高揚を感じた。


「御意。王女殿下、この王国で私の頭脳戦が再び幕を開けることを光栄に存じます」


 零は深々と頭を下げた。スパイ【ファントム】は、異世界での新たな任務に着手したのだった。

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