第14話 2人の母
恭介は純粋に父のような、くも膜下出血の患者を救いたい思いで脳神経外科を選んだが、脳神経外科は他のどの科より年収が高いのも大きな条件のひとつだった。何故収入にこだわるのかと言うと、父のせいで不幸になった母2人を、そのどん底から救い出したい思いがあったからだ。
正妻信子は幾ら旅館が倒産したと言えど、会社が法人破産を選択していたので、会社が破産しても、原則として社長個人の財産を失うことはないので、それなりの生活保てていたが、哀れなのは、実母麗子だ。中小企業では、会社が金融機関からの融資を受ける際に、社長が会社の連帯保証人になっているケースが多く見られる。この場合、会社が破産すると、連帯保証人である社長は会社の負債を個人で返済する義務を負うことになる。
反骨精神の塊の恭介だったが、そこには破算で翻弄された家族の行く末も大きく関係している。母信子は金銭的な問題はなかったが、哀れな境遇に身を置かされた実母麗子が余りにも哀れで、いくら亡くなったと言えども父太郎を恨んだものだ。
育ての母信子を苦しめ続けた憎き実母麗子ではあったが、その実、恭介を見つめる目はいつも真実の母性愛に満ち溢れているものであった。
信子は母として本当によく尽くしてくれたが、あの7歳の真実を知ったその日から、以前は何気なく過ごしていた日々だったが、本当の母ではなかったと思って改めて母信子と接すると、その目の奥には違った真実が見えてくる。
信子の本当の姿が、クッキリ輪郭を帯びて見えて来るのだった。
時折見せる信子の眼差しの奥には俺が実母麗子に似ている事もあって、凄まじい氷の眼差しを向けられていることを知った。俺が全てを知ったのが丁度バブル期に突入する時期と重なった。全てを祖父麟太郎から聞かされていながら、子供が誕生したのは麗子だけだったので、相変わらず女房は放ったらかしで、愛人麗子の元に入り浸りだった太郎。
バブル景気に沸く日本において、日本一予約が取れない宿(箱根雪月花の森)は、連日連夜お客で溢れ返っていたが、父太郎は豪快な男で幾ら働いても娯楽もしっかり楽しむ男だった。
それは恭介と愛人麗子を連れて旅行に出かけたり、娯楽施設に出掛けたりするのが何よりもの活力源となっていた。何故かと言えば麗子から子供を奪い取った罪滅ぼしに、休日だけは麗子の元に恭介を返したい思いがあったからだが、それだけではない。美しい麗子に首ったけとなった太郎は、麗子が恭介と会いたいと言って、せがむので恭介の喜びそうなところに出掛けて、麗子との束の間の時間を愛する麗子の為に作ってやっていたのだ。
だから……父太郎は全てを知ってもなお麗子を手放せずに、たとえ結婚は出来なくても、親子3人の時間を設けていたのだ。
信子は折角の休みに本妻ではなく、愛人麗子と恭介を連れて出かける太郎が許せなかった。
何も知らなかった頃は気づかなかった信子の氷の眼差しを、幾度となく肌で感じていた恭介は、実母との時間が何よりも幸せな時間となっていった。
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麗子は無情にも「ミートグッド」が倒産したことで1994年10月に首を宣告され出ていった。恭介は母信子には時々身の毛もよだつ恐怖を感じることもあるが、それでも…育て上げてくれたのは誰あろう紛れもなく母信子のお陰なのだ。だから…実母がたとえどのような状況に置かれたとしても、見て見ぬふりをしてきたが、ある日の高校の学校帰りに、見た事のある女が校門の影から必死に手招きするので、誰かと思い目をやると、何と母信子を悲しませたあの麗子だった。
本当は母信子を散々泣かせた女なので、知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、余りにもその顔が切実だったので、見逃すことが出来なくなってしまった。仕方なく手招きする方向に近付いて行った。すると麗子は人目もはばからず、余程会いたかったのか、恭介を思いきり抱き締めてくれた。
「嗚呼……会いたかったぁ。顔を見せてちょうだい!もう半年顔見ていなかったね。以前は事務員の傍ら、恭介を度々見ることが出来たけど……」
「チョッチョット人目があるから止めて……止めてくれよ!」
2人はしばらく歩き近くの公園で話した。
「本当は休職して恭介を育てるつもりでいたんだけれど、未婚で子供がいたら世間の好奇の目に晒され大変だって太郎が言ったのよ。確かに私もお腹が大きい時に近所から未婚のくせにと、世間の好奇の目に晒され辛い思いをしたわ。そんな時太郎が家で面倒見るって言ったのよ。私はね。本当は恭介を離したくなかった。でも……でも……太郎が妻と別れてお前と一緒になるつもりだよ。だけど……今すぐには一緒になれない。もうちょっと待ってくれ!そう言うから恭介を手放したのよ」
確かにあの時代未婚の女が、子供を1人で育てていれば白い目で見られた時代だった。ましてや超一流旅館の跡取り息子になれるのなら、自分の手で育てるより手放す方が息子の将来は何倍も何十倍も輝かしいものとなる。苦渋の決断だったに違いない。
母麗子に抱きしめられ改めて母の温もりを感じ、恭介はその後何度か麗子と会う事になる。このことは両親には内緒で麗子と会っていた。
それは医師になってからも続いた。
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いつも優しい信子が本当の母でないことを、そして被差別部落の血を引く人間であることを、恭介は僅か7歳で知った。
バブルが弾け実母麗子の実家が倒産し、更には人気の高い由緒正しい名門旅館(箱根雪月花の森)も破産した。
日本事態が夢から覚めた瞬間だった。
時代に翻弄され続け、実母麗子とは会えなくなり少しは寂しさはあったが、高校生にもなれば学校が自分のホームグラウンドとなる。もう親が恋しいという時代はとっくに過ぎている。
そんな時母麗子が、会いたいと言うので夏休みに会いに行った。
そこは目を追いたくなるような酷い場所だった。
1995年母麗子は大阪市西成区で祖母が経営していた居酒屋を引き継いでいた。この頃のあいりん地区は、バブル経済崩壊後の不況期にあり、多くの社会問題を抱えていた。当時は日雇い労働者の仕事が一貫して減少傾向にあり、街には燃え盛るドラム缶があちこちに置かれ、ホームレスの人々が炊き出しに列を作る光景が見られた。
バブル景気終焉後、あいりん地区は暴動、不法露店、不法投棄など、さまざまな問題が山積していた。覚醒剤の密売や路上での闇市なども見られ、治安が悪化していた時期だった。そんな荒れ果てた当時のあいりん地区に足を踏み入れ、一般社会とのギャップに恐怖を感じた。
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医師となった恭介は、教授のお嬢様美琴と結婚が決まった事で、今までくすぶり続けていたコンプレックスを、払拭して行かなければいけないと考えるようになって行った。
相変わらず2人の母信子と麗子からは連絡が入る。
(もし俺が部落だと分かったら縁談話は絶対に立ち消えになる。義父の聡が首を縦に振る訳がない!)そんな時に実母麗子から電話が入る。
「もしもし恭介……元気?」
「元気だよ」
「今度会いに行ってもいい?」
「お母さん僕ね。教授のお嬢様との縁談話が持ち上がっているんだ。だから…もう電話してきてほしくないんだ」
「うううぅっ( ノД`)シクシク…それはそうだわね。こんな私が母だと分かったら縁談話も吹っ飛んじゃうものね。分かったわ(´;ω;`)ウッ…」
戸籍上は「特別養子縁組」した時点で、藤岡太郎と信子の実子と同様の扱いとなっていたので、何の問題もなくクリアできていた。
🥼💉👩⚕️
恭介は栄光の階段を一歩ずつ上り続けている。自分が経験した同じ道を娘江梨香も歩んでいる。恭介も愛人の子供、娘江梨香も同じく愛人静香との間に誕生した娘で、親子で同じ道を歩んでいる。人間の業とは絶える事がない。
もう現役時代ほどの権威は維持できないが、それでも…過去の研究実績、医療界への貢献、現在は主にメディアでの発信などで表舞台に顔を出しているので完全には失墜した訳ではないが、現役時代のような訳にはいかない。それなので義父の聡を恐れる必要は薄れて来た。
今まで散々わがままな妻美琴には振り回されてきたが、世界的名医となった恭介は妻の事が鼻について仕方がない。可愛い娘江梨香を虐待するし、静香の事は勘ぐるしうんざりだ。
あの江梨香虐待事件以来、江梨香は実母静香の下で生活を始めた。学校からもさほど遠くないので、江梨香は幸せな時間を取り戻しつつある。只1つ桜木が家庭教師を首になってしまい憂鬱な日々を過ごしていた。
「お父様家庭教師の桜木先生何故来なくなったの?」
「優秀な家庭教師だったらしいな。静香さんのところに来てもらえるか聞いて見ておくよ」
こうして…また桜木は家庭教師として江梨香の元に通い出した。
🥼💉👩⚕️
最近は恭介は娘江梨香に会いに頻繫に静香のマンションを訪れている。
「もう奥様から苦情が来るからいい加減にしてください!」
「大丈夫さ。もう美琴がギャーギャー言ったところで痛くも痒くもない。もうお義父さんも退職したので、告げ口したって大丈夫。離婚したいくらいだ。江梨香をあんなにも傷つけていたなんて許せない!俺は本当は3人で生活したい」
「それどういうこと?」
「君とやり直したいって事さ!」
「愛人として?」
静香は自分の身の程を十分にわきまえている。施設出身の自分がノーベル賞の最短距離に近付いているお偉い教授と結婚などできる訳がない。一方で当然嫌いで別れた訳ではないので、結婚してくれればノーベル賞夫人と愛情の両方手に入れることが出来るのでいう事ない。
一方の恭介は静香とだったら自分の本当の姿を晒しても許してもらえるし、2人の母にも楽をさせてやれると考えている。
※養子縁組には以下の方法がある。
普通養子縁組と特別養子縁がある。
★普通養子縁組の場合、戸籍の父母欄には実父母と養父母、双方の氏名が記載され、続柄も「養子」と明記されるため、養子であることが一目でわかる。
★ 特別養子縁組の場合は戸籍の父母欄には養父母の氏名のみが記載され、続柄も実子と同様に「長男」「長女」などと記載される。そのため、一見しただけでは養子であると判断することは困難。特別養子縁組は、縁組の日から養親の血族との間に法定血族関係を発生させるのみならず、実方の父母及びその血族との親族関係を終了させる。
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