『水の底の百日』

灯ル

1日目~5日目

1日目


入学式。朝から晴れて、空気がよく乾いているのに、靴下の裾だけがずっと冷たい。多分、寮の玄関マットが湿っているせい。写真を撮ろうとしたけれど、画面が一瞬白くなってシャッター音だけ鳴り、保存が見当たらない。混んでいると聞いていた食堂は拍子抜けするほど静かで、並ぶこともなく席に座れた。周りの会話はあるのに、言葉が耳に届く前に空気に吸われる感じがする。寮に戻って荷ほどきをして、シャツをハンガーに掛けた。新しい部屋の匂い。廊下の先、非常口の緑の人型だけがやけに濃く光っている。夜、シャワーをひねると、水が少し鉄っぽい味。気のせいだろう。明日から本格的に動く。今日も風呂は長め。


2日目


履修登録。学務の窓口は開いているのに、人が少ない。並ばずに順番が来て、紙を差し出したら、受付の人は注意書きを布で拭きながら、こちらを見ないまま頷いた。声は聞こえなかったが、通ったことにして次に進む。帰りに自販機のガラスで髪の跳ね具合を確認したら、肩のところに濡れた輪郭が重なって見えた。振り返ると誰もいない。ガラスに顔を近づけるとただの指紋だったのかもしれない。寮のシャワーは止まりが悪くて、ハンドルを締めても細い糸みたいな水がずっと出続ける。排水溝の奥で気泡が一つ、二つ、静かに弾ける。今日は食堂のメニューにカレーがない日らしい。そういう日もあるのだろう。ノートの表紙が少し湿っている。今日も風呂は長め。


3日目


図書館で席を取った。冷房の風が紙をめくる音ばかりが大きい。ノートを開いてメモを書いていたら、左頁の中央に丸い水染みが広がっていた。飲み物は持ち込んでいない。袖口を触ると少し冷たい。近くの机に誰かが置きっぱなしにしたコップがあったのかもしれない。通路を誰かが通る気配がして顔を上げたが、背表紙の並びが歪んだように見えただけで、足音の続きはなかった。帰り際、返却カートに本が山になっていて、札に古い月名が見えた。僕の見間違いだろう。今日も風呂は長め。


4日目


昼は食堂。ピークを外したつもりだが、それにしても空いている。レジの隣に今日のメニューの札が斜めに立っていて、書体が昔の手書き風に見える。厨房の中で誰かが鍋をかき混ぜる腕の動きはあるのに、皿が重なる音ばかりで声がない。トレイを取って席に運ぶ。窓の向こう、ベンチで二人組がしゃべっている仕草をしているが、口元だけが曇ったガラスに吸い込まれて読めない。食べ終えて返却口に皿を置くと、奥で水が一瞬はねた。床は濡れていない。今日も風呂は長め。


5日目


寮のシャワーはやっぱり止まりが悪い。ハンドルをきつく締めても、髪の毛一本くらいの細さの水が続く。足拭きマットが昨日より重い。廊下に出ると、消灯前なのに空気が湿っている。自室に戻るまでの間に、点々と水の丸が並んでいて、僕の足跡と重ねるように進んだ。途中でひとつ余計な丸があった気がして立ち止まったが、ただの汚れだと思う。窓を少し開けて湿気を逃がす。夜、寝返りのたびに枕がひやっとする。今日も風呂は長め。

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