雨の匂いがする
望月朋夜
第1話 「光の粒」
午後四時を少し過ぎた放課後。
西日が差し込む部室の窓が、ゆっくりと色を変えていく。
光は古い木製の机を照らし、埃の粒がゆらゆらと漂っていた。
その中で、
シャッターを切る音が、静かな空気を小さく震わせる。
カシャン。
レンズの先にあるのは、いつも同じ風景――窓と空と、机の上の光。
誰もいない部屋の片隅にある“静けさ”そのものを、彼は撮ろうとしていた。
「また、空かよ」
背後から声がして、悠は振り向いた。
そこには、
同じ写真部の部員で、無口で、いつも少し眠たそうな目をしている。
カメラバッグを肩にかけ、制服の袖を無造作にまくり上げた姿。
どこか冷たく見えるのに、不思議と目を引く存在だった。
「うん。今日の空、いつもより綺麗だと思って」
「空なんて、毎日あるだろ」
「でも、同じ日は二度とないよ」
「……めんどくさいこと言うな」
朔はそう言って笑い、窓際に寄りかかった。
彼の頬に、西日が当たる。
淡い橙色の光がその輪郭をなぞって、目の奥にかすかに反射する。
悠は無意識のうちに、またカメラを構えていた。
「やめろって」
「いいじゃん、かっこいいよ」
「そういうの、好きじゃねえ」
「写真も?」
「人の目線があるのが苦手なんだよ」
朔の言葉は淡々としていた。
それでも、ほんの一瞬だけ見せた表情が、妙に印象に残った。
言葉よりもずっと深く、何かを隠しているような瞳。
悠はそっとシャッターを押す。
カシャン。
その瞬間、朔の目がわずかに見開かれた。
「……撮った?」
「うん。良い顔してた」
「バカ」
そのやりとりのあと、二人の間に沈黙が落ちた。
窓の外では、雲の切れ間から光が差している。
淡い空の色が、オレンジから群青へとゆっくり変わっていった。
「なあ、悠」
「ん?」
「お前、なんでそんなに写真ばっか撮るんだ」
「うーん……理由、わかんない。でも、撮らないと落ち着かない」
「依存症だな」
「かもね。でも、いい依存だと思う」
朔は苦笑する。
「お前、変わってるよな」
「よく言われる」
「でも……嫌いじゃない」
その言葉に、悠は少し驚いた。
朔が自分からそんなことを言うのは珍しい。
けれど彼はすぐに目を逸らし、窓の外を見た。
「雨、降るな」
「え?」
「ほら、匂いでわかる。空気が重い」
言われてみれば、確かに湿った風が吹き込んでいた。
それと同時に、最初の雨粒が窓ガラスを打つ。
ぽつ、ぽつ――。
その音が、静かな部室に広がっていく。
悠はファインダーを覗き込んだ。
ガラスに映る朔の横顔と、滲む光の粒。
そのどちらもが、現実よりも綺麗に見えた。
「なあ、朔」
「なんだ」
「いつか、俺が撮った写真見てくれる?」
「……気が向いたらな」
「約束な」
「そんな約束、すぐ忘れるくせに」
「忘れないよ」
二人は並んで窓の外を見つめた。
雨は静かに強くなり、夕焼けを洗い流すように降り注いでいく。
その中で、悠の胸の奥に芽生えた小さな違和感が、
まだ“名前のない感情”だということに、彼は気づいていなかった。
――この時間がずっと続けばいい。
そんな願いを抱いたのは、この日が初めてだった。
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