まっちゃん

第1話 掟

  これは掟である。事故はもちろん、ミスなどもっての外。あってはならない。


 ここでは約180 mL、すなわちおおよそ0.18 × 10⁻³ m³の液相一酸化二水素(dihydrogen monoxide)を対象とする。この物質は、約6.022 × 10²³ mol⁻¹というアヴォガドロ定数により定義される分子単位を有し、したがってその物質量はおよそ0.18 kg ÷ (18.015 g mol⁻¹) ≒ 10 molに相当する。すなわち、約6 × 10²⁴個の一酸化二水素分子が、室温下で相互に水素結合網を形成しつつ、液相として束縛された状態にある。


 筆者がこれに熱エネルギーを与える行為は実際には分子運動エネルギーの統計的平均値(Eₖ)を上昇させる過程にほかならなず、すなわち電熱線または燃焼反応により供給されるエネルギーが、水分子の振動・回転自由度へと分配され、やがては分子間水素結合の束縛ポテンシャルを克服するに至る。


 温度が約373.15 ケルビン(すなわち100 °C)に達した時点で、液相中の一酸化二水素分子の一部は、蒸気圧と外圧(おおむね1 × 10⁵ Pa)との釣り合いを得て、気相へと逸脱する。この転換点は、実際にはエンタルピーΔH_vap ≒ 40.7 kJ mol⁻¹の吸収を伴う相転移現象であり、約10 molの一酸化二水素に対してはおよそ4.07 × 10⁵ Jのエネルギーを必要とする。


 かくして、酸素原子1つと水素原子2つからなる分子が、数兆単位の規模で、液相という密集構造を離脱し、気相という高エネルギー状態へと昇華していく。その瞬間、音を立てて立ちのぼる白煙――厳密には凝結した微細液滴――は、分子運動の自由度が解放された可視的証左にほかならない。 


 この熱エネルギーを、発泡スチロール(ポリスチレン:C₈H₈の繰り返し単位)で形成された円筒容器に注ぐ。この容器は、高分子鎖間のファンデルワールス相互作用により自己支持構造を維持しつつ、外界の熱勾配に抗い、内部に封じられたエネルギーを適度に保つという人為的熱力学境界層の役割を果たす。


 内部には、予め乾燥工程(約373 K以下での減圧乾燥あるいは油揚げ処理)によって自由水を剥奪された小麦粉由来の高分子構造体が安置されている。これはグルテン網の可塑的骨格とアミロース・アミロペクチンの部分的な結晶領域からなる。なお、容器に散布されている粉末はナトリウムイオン (Na⁺)、グルタミン酸イオン (C₅H₈NO₄⁻)、および各種香気成分(主に揮発性有機化合物)の集合体である。


 円筒容器に上述の液体が注がれた瞬間、10²³個規模の一酸化二水素が拡散係数D ≈ 10⁻⁹ m² s⁻¹のオーダーで侵入し、デンプンのα化を進行させ、非晶質領域を形成する。同時に、上述の集合体粉末は、同液体にて電離・溶解し、分子拡散による濃度勾配の緩和過程を経る。しかしながら、最終的には人為的な攪拌を要する。


 筆者はいま、約3分間の時間的瞑想を通す。1秒とは、セシウム133原子の基底状態の2つの超微細構造準位間の遷移に対応する放射の9,192,631,770周期の継続時間であり、3分とはその60×3倍であ


 「あなた〜。早くラーメン食べっちゃってよ。なにやってんの。」


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(2025.10.23 了)

三題噺「事故」「ラーメン」「掟」


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