第14話 馬の過失と羊の失態
前半
疾駆が沖縄のリゾートから働き始めて数日が経った。彼は毎日、青い海を眺めながらビデオ会議に参加し、「こんな環境で仕事ができるなんて最高だ」と満足していた。
木曜日の午前中、疾駆は重要なプレゼン資料の最終仕上げに取りかかっていた。クライアントへの提案資料で、翌日——金曜日の正午までに完成させる必要があった。
「あと数時間で完成だな」疾駆はリゾートホテルの部屋で一人呟いた。
彼はリラックスしすぎていた。ホテルのWi-Fi環境を完全に信頼し、データのバックアップを怠っていた。「クラウドに自動同期されているから大丈夫」そう思い込んでいた。
午後の定例会議で、疾駆は自信満々に報告した。「プレゼン資料は順調です。明日の正午までに提出します」
賢が確認した。「バックアップは取っていますね?」
「もちろんです」疾駆は軽く答えた。「クラウドに自動同期されていますから」
威風は少し不安そうだったが、和奏が穏やかに言った。「疾駆さんを信じましょう。これまでもきちんと成果を出してこられたのですから」
会議が終わったのは木曜日の午後四時。疾駆はすぐにビーチへ出かけた。ノートパソコンは部屋に置いたまま。白い砂浜に腰を下ろし、波の音に耳を傾ける。潮風が頬を撫でる——これこそがリゾート地でのリモートワークの醍醐味だと思った。
「明日の朝、最終チェックをすればいい。資料は完璧に仕上がっている」そう自信を持っていた。夕暮れの海を眺めながら、疾駆は満足げに微笑んだ。
午後六時頃、ホテルのスタッフが声をかけてきた。「お客様、天気予報では今夜、台風が接近するとのことです。念のため、貴重品や電子機器の管理にご注意ください」
疾駆は軽く手を振った。「大丈夫ですよ。台風には慣れています」スタッフの心配そうな表情を気にも留めず、彼はビーチでのリラックスタイムを続けた。
その夜——午後十時。風が強くなり始めた。窓が激しく揺れ、ガラスが軋む音がする。疾駆は部屋に戻ったものの、すぐにベッドに入った。「明日は早起きして、最終チェックをしよう」そう思いながら、疲れた体を休めた。
深夜二時。台風が最接近した。風の轟音が建物全体を揺らす。突然、部屋の照明が消えた——停電だ。非常用電源が作動するまでの数秒間、真っ暗闇が部屋を支配した。そして再び明かりが灯る。しかし、デスクの上に置かれたノートパソコンの電源ランプが、不規則に明滅していた。電圧の変動。システムエラー。ハードディスクへの不正なアクセス。
翌朝——金曜日、午前七時三十分。疾駆は爽やかに目覚めた。窓の外は快晴で、台風の痕跡はほとんど見当たらない。「昨夜の台風、大したことなかったな」シャワーを浴び、コーヒーを淹れる。今日は勝負の日だ——午前中に最終チェックを済ませ、正午までにクライアントに送信する。完璧なプレゼン資料で、彼らを驚かせてやる。
午前八時。疾駆は自信満々でノートパソコンを開いた。デスクトップ画面が表示される。フォルダを開く。いつもの手順で、プレゼン資料のファイルをダブルクリックした。
読み込みが始まる——しかし、いつもより遅い。
「ん?」疾駆は首を傾げた。ファイルサイズが大きいから、少し時間がかかっているのだろう。そう思った。
しかし、読み込みバーが途中で止まった。画面がフリーズする。嫌な予感が背筋を駆け上る。
そして——。
「ファイルが破損しています。開けません」
エラーメッセージが表示された瞬間、疾駆の顔から血の気が引いた。「……え?」声が震える。もう一度クリックする。同じメッセージ。何度試しても、ファイルは開かない。
「落ち着け。クラウドにバックアップがあるはずだ」疾駆は慌ててクラウドストレージにアクセスした。ログイン。フォルダを開く。同じファイル名を見つける。クリック——。
「ファイルが破損しています。開けません」
同じエラーメッセージ。疾駆の手が震え始めた。「なんで……なんでクラウドまで……」画面を凝視する。同期履歴を確認する——そして絶望した。深夜二時十三分。クラウドの自動同期機能が、停電と電圧変動の際に誤作動を起こし、破損したローカルファイルをクラウド上の正常なファイルに上書きしてしまっていた。
「バージョン履歴は……?」震える指でバージョン履歴を開く——表示されない。設定を確認すると、「バージョン履歴の保存: オフ」となっていた。以前、ストレージ容量を節約するために無効化していたことを思い出した。
ローカルフォルダを必死に探したが、残っていたのは三週間前の初期ドラフトのみ。そこから昨夜までに追加した70ページ分のデータ、全てのグラフ、全ての分析結果——全てが消失していた。
「まずい……まずい……」疾駆は手が震えた。何度も復旧を試みたが、全て失敗した。専門のデータ復旧業者に電話をかけたが、「離島への出張は週明けになります。しかも、自動同期で上書きされたファイルの復元は、ほぼ不可能です」と言われた。
時計を見ると、午前八時十分。提出期限は今日の正午。あと四時間弱しかない。疾駆は震える手でスマートフォンを取り、チームの緊急連絡グループに電話をかけた。
後半
午前八時二十分。ビデオ通話に次々とメンバーが接続してきた。画面に映った疾駆の顔は青ざめていた。
「大変なことになりました……プレゼン資料が、全て消えてしまったんです」
賢が即座に反応した。「どういうことですか?詳しく説明してください」
疾駆は声を震わせながら説明した。「ファイルが破損して開けません。クラウドの同期も、昨夜のうちに止まっていて……復旧業者にも連絡しましたが、離島には週明けまで来られないと……」
「提出期限は?」牛田が尋ねた。
「今日の正午です……」疾駆は頭を抱えた。「あと四時間もありません」
会議室に重い空気が流れた。誰もが事態の深刻さを理解していた。
賢が口を開いた。「疾駆さん、まず落ち着いて。そして、資料の概要を教えてください。記憶している範囲で構いません。四時間で再構築します」
「四時間で!?」疾駆は驚いた。「でも、あの資料は三週間かけて——」。
「待ってください」威風が言葉を遮った。表情が険しい。「これは自己責任の問題ではないですか?バックアップを取らなかったのは疾駆さん自身の判断です。それに、わざわざ離島のリゾートに行ってリモートワークをしていたんですよね。仕事環境が不安定な場所を選んだのも、疾駆さんの判断です。私たちが尻拭いをするべきなのでしょうか」
会議室に緊張が走った。威風の言葉は冷たく、しかし論理的だった。
静香が冷静に言った。「威風さんの言うことにも一理あります。リスク管理は個人の責任です。それに、私たちにも他の重要案件があります。すべてを投げ出して疾駆さんの問題に集中することは、合理的とは言えません」
昇天も困惑した表情で続けた。「私も……正直に申し上げると、今日中に仕上げなければならない企画書があるんです。四時間も取られてしまうと、私の納期も間に合わなくなってしまいます」
「いいえ、助けるべきです」振り返ると和奏が真剣な目をしていた。
「誰も見捨ててはいけません」和奏は主張した。
「自己責任、確かにそうかもしれません。でも、私たちはチームです。一人が困っているとき、『それはあなたの責任だから』と見捨てるのが、チームのあり方でしょうか」
威風が反論しようとしたが、和奏は止まらなかった。
「今日、疾駆さんを見捨てたら、明日、誰かが困っても同じことが起きます。『それは自己責任だ』と。そうなったとき、私たちはもうチームではありません。誰も助け合えない、孤立した個人の集まりです」
その言葉は皆の心にしっかりと響いた。
賢が深呼吸して言った。「……和奏さんの言う通りです。チーム全員で疾駆さんを助けましょう。4時間で再構築します」
疾駆は声を震わせていった。「和奏さん、賢さん、ありがとうございます。でも4時間で再構築は難しいかと思います。 クライアントに事情を説明して期限を引き延ばしても……」
「この当日にそれを言っては、クライアントの信頼に傷がつきます。それはしたくない」賢は即断していた。
静香が一転して冷静に言った。「一人では無理でも、八人なら可能です。私たちの手元にある過去の資料やメールから、データを集められます」
理子も即座に反応した。「私、プレゼン資料のデザインは得意です。レイアウトとビジュアルは任せてください」
牛田が言った。「過去のプロジェクトのベースデータがあります。数字と事実関係は私が担当します」
昇天も加わった。「クライアントが求めているポイントは把握しています。説得力のある構成は私に任せてください。こちらの納期ですか?私の魅力で調整しておきますから心配ありません」
威風も険しい表情を和らげた。「品質管理は私が担当します。時間がないからこそ、正確さが重要です」
その瞬間から、奇跡のような作業が始まった。賢が即座にGoogleドキュメントの共同編集画面を立ち上げ、全員にアクセス権を付与する。画面には八つのカーソルが同時に動き始めた——それぞれのメンバーが、異なるセクションを担当する。
「疾駆さん、第一章の市場分析について、覚えている数字を教えてください!」賢が沖縄の疾駆に問いかける。
「えっと……前年比120%の成長率で、市場規模は約850億円でした」疾駆の声が震えながら答える。
「了解。理子さん、グラフ作成お願いします!」
「任せて。前年比120%、市場規模850億円ね。5年間のトレンドグラフと、競合比較のパイチャートを入れます」理子の指が素早くキーボードを叩く。彼女の画面では、リアルタイムでグラフが生成されていく。
「第二章の競合分析は私が担当します」静香が割り込む。「疾駆さん、A社、B社、C社の市場シェア、覚えていますか?」
「A社が32%、B社が28%、C社が19%……だったと思います」
「十分です。過去のメールにも詳細がありました。クロス照合してまとめます」静香が自信を持って答える。
昇天が第三章を引き受けた。「未来予測とビジョンは私の得意分野。疾駆さんが入れていたキーメッセージを教えてください」
「『3年以内に業界トップ3入り、5年以内に市場シェア25%達成』……そんな内容でした」
「完璧。それに具体的なマイルストーンとアクションプランを肉付けします」昇天の画面で、ビジョンマップが描かれ始める。
威風は全体を監視しながら、誤字脱字や論理矛盾をチェックしていく。「第一章、2行目、数字のフォーマットが統一されていません。修正しました」
牛田は過去のプロジェクトデータベースから、関連する事実と数字を次々と提供する。「2022年の類似プロジェクトのROI実績、追加しました。説得力が増すはずです」
Googleドキュメントの画面上で、八つのカーソルが舞うように動き、リアルタイムで文章が追加され、グラフが挿入され、レイアウトが整えられていく。まるでオーケストラの演奏のように、各メンバーが自分のパートを完璧に奏でている。
午前十時。資料は順調に進み、約六十パーセントが完成していた。和奏は全員の間を取り持ち、疲れが見えたメンバーを励まし、意見の食い違いを調整していた。「大丈夫、あと二時間です」「素晴らしい、その調子です」彼女の言葉が、チームを一つにまとめていた。
しかし、その時だった。和奏の携帯電話が鳴った。画面には「豹崎商事 豹沢部長」と表示されている。和奏の表情が一瞬凍りついた。
「少し失礼します」和奏は席を外し、廊下で電話に出た。
数分後、会議室に戻ってきた和奏の顔色は、明らかに悪かった。いつもの穏やかな笑顔は消え、唇が震えている。
「和奏さん、どうしたんですか?」賢が心配そうに尋ねた。
和奏はしばらく口を開けなかった。そして、ついに声を絞り出した。
「豹崎商事から……契約解除の通告が……」
その場の空気が凍りついた。
「私が担当している人事制度導入プロジェクトで……現場の社員から猛烈な反発が出ていて……先方の経営陣が責任を追及しています……」
和奏の声が震える。「もう待てないと。今日——14時に説明会があるので、正午までに、納得できる解決策を提示できなければ、契約解除を正式に決定すると……」
疾駆が驚いて言った。「正午!?僕と同じ期限じゃないですか!」
和奏は頷いた。「先週、クレームの電話があったとき……私は具体的な解決策を提示せず、ただ丁寧になだめて、時間を稼いだだけでした……それが、今、爆発してしまった……」
和奏の目に涙が浮かぶ。「私は……問題を先送りにしてしまった……調和を保ちたくて、厳しい決断を避けて……そして今、取り返しのつかないことに……」
賢が時計を見た。「今、午前十時十五分。両方とも期限は正午。残り時間は一時間四十五分……」
和奏が頭を下げた。「すみません……疾駆さんの資料を優先してください。私のことは……」
しかし、疾駆が言った。「待ってください。和奏さんは、僕のために動いてくれた。今度は、僕が和奏さんを助けます」
賢が深呼吸した。「二つの危機を、同時に乗り越えるしかない。チームを二つに分けて——」
和奏が首を横に振った。「でも……従来の方法では、もう間に合いません……私は一週間かけて解決策を考えてきましたが、どれも実現不可能でした……」
和奏の声が震える。「私には……できない……クライアントを失う……みんなに迷惑をかける……」
その時、静香が和奏の肩に手を置いた。「和奏さん、あなたは一人じゃない。今度は、群れがあなたを守る番です」
賢が全員を見渡した。「いいですか、みんな。今から一時間半で、二つの仕事を完成させます。不可能に思えるかもしれない。でも、私たちはチームだ。八人の力を合わせれば、必ずできる」
しかし、疾駆の資料はまだ四十パーセントが未完成。和奏の問題は解決策さえ見えていない。時計の針は容赦なく進んでいく。
午前十時三十分。残り時間、一時間三十分。二つの期限が、刻一刻と迫っていた。
バラバラな十二支が最強チームに育つまで @massyi
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