第12話 蛇の脱皮

前半


提携から1ヶ月後——


熊田製作所には復活の兆しが見えていた。牛田が持ち込んだ新製品の試作が成功し、大手メーカーから引き合いがあった。従業員たちの表情も明るくなり、工場には活気が戻ってきた。


「見ろ、うまくいってるじゃないか」牛田が嬉しそうに報告した。


理子は少し安堵の表情を見せたが気を引き締めている様子だった。静香は無表情のままデータを眺めていた。


——しかし、3ヶ月後。


暗雲が立ち込め始めた。大手メーカーとの交渉が難航し、新製品の量産化が遅れた。さらに、熊田社長の判断ミスで、無理な受注を受けてしまった。従業員の疲労が蓄積し、品質問題が発生した。


「やはり……」理子が暗い顔で言った。「予測通りの展開です」


静香も頷いた。「衰退期組織の典型的なパターンです。一時的な好転の後、本能的行動パターンが再び表れる」


牛田は黙って資料を見つめていた。何も言えなかった。


——そして、半年後。


熊田製作所は倒産した。3000万円の出資は、すべて失われた。


会議室で、牛田は頭を下げた。「すまない。俺の判断ミスだ。全責任は俺にある」


「いや、牛田さん」賢が言った。「私も賛成したんだ。責任は——」


「分析通りでした」静香が静かに言った。「倒産確率95%。予測の範囲内です」


その言葉に、牛田は顔を上げた。怒りではなく、深い悲しみが目に浮かんでいた。


「静香さん、あなたは正しかった」牛田は静香の目を見て素直に言った。


あっさりと認めた牛田の言葉に静香は少し驚いた。


「でも、俺は後悔していない。熊田さんを見捨てることはできなかった」。


その頬に涙が流れていた。本当の涙だった。


静香は、何も答えなかった。


——正しい。そう、私の分析は正しかった。


倒産確率95%。もともと予測していた通りの結果。泣くなんて馬鹿げている。


なのに——。


牛田の頬を伝う涙を見た瞬間、静香の心に奇妙な痛みが走った。


でも、なぜこんなに胸が苦しいんだろう。


——何かが揺らいでいるのを感じた。



後半


—— 倒産から数週間後、オフィスに一人の若い女性が訪ねてきた。


「熊田美結(くまだ・みゆ)と申します。熊田製作所の——父の娘です」


牛田が驚いて立ち上がった。「美結ちゃん……いや、美結さん。お父さんは——」


「父は元気です」美結は微笑んだ。「それを伝えに来ました」


美結が語った話は、チーム全員を驚かせた。


倒産後、熊田社長は従業員全員の再就職先を自ら探し回った。自分の人脈、技術者仲間、かつての取引先——あらゆるつてを使って、一人一人に合った職場を見つけた。


「全員、再就職できました」美結が言った。「しかも、前より良い条件で。父は『牛田さんのおかげで、最後に良い仕事ができた。従業員に恩返しできた』と言っています」


さらに——


「父は今、ホワイトベア精密の技術顧問になりました」美結が続けた。「工場経営の重圧から解放されて、純粋に技術に打ち込めると、とても喜んでいます」


そして、美結は一通の手紙を牛田に渡した。


牛田が手紙を読み始めると、顔色が変わった。


「これは……」


手紙には、熊田の新しい名刺と共に新しいプロジェクトの提案が書かれていた。ホワイトベア精密が、50億円規模の新規プロジェクトを計画している。そして、十二支プロジェクトチームに優先的な協力を要請したいという。


「利益率を10%と見積もっても、5億円……」理子が計算機を叩いた。「3000万円の損失が、5億円のチャンスに変わる……」


静香は、じっと手紙を見つめていた。


「父が言っていました」美結が微笑んだ。「『ビジネスは分析じゃない。人と人の絆なんだ』と。牛田さんが最後まで自分を信じてくれたこと、父は一生忘れないそうです」


会議室に、静かな感動が広がった。


倒産確率95%——静香の予測は正しかった。でも、その先に何が起こるかまでは測れなかった。


——分析だけでは見えなかった。


人を信じること。それが正解であった。


そして、その結果を少し、嬉しく感じる自分がいた。


「良かった――」静香の凍っていた心に、小さな亀裂が入った。




美結が帰った後、会議室に沈黙が流れた。


牛田は涙している。賢も、理子も、感動で言葉が出なかった。


静香は窓辺に立っていた。


手紙を片手に持ちながら、差し込む陽光に手をかざす。冷たかった指先が、ゆっくりと温かくなっていく。


——蛇は冷血動物だ。自分では熱を生み出せない。だから太陽の光を浴びて、体を温める。


彼女は、いつもそうやって生きてきた。観察と分析、そして理性を太陽にして、一人で這い上がってきた。でも、今ようやく分かる。牛田の純粋さに触れて、人の温かさは、ずっと深く、体の芯まで届くのだと。


今回、自分の感情を封印した人間心理分析が否定されたと言っても良い。信頼には勝てない。そういう結果を突き付けられたが、気持ちは晴れやかだった。


―― ただ、チームのみんなには、もう自分の分析なんて必要ないと思われたかもしれないな――。そう思い始めたときだった。


「静香」牛田の声が背中に届く。


その声には、責める響きがない。失敗を恨む調子もない。ただ——温かさだけがあった。


「次のプロジェクト、一緒にやろうぜ」


——一緒に。


その言葉が、静香の心に染み込んでいく。


「50億の案件だからな」牛田が続けた。「お前の分析、必要なんだよ。人間のリスクも、ちゃんと見なきゃいけない」


振り返ると、牛田が笑っていた。理子も、賢も、皆が笑っていた。


その笑顔に——拒絶がない。批判がない。ただ、仲間として受け入れてくれている。


ああ、これが——仲間なんだ。


静香は、小さく頷いた。


「ありがとう……みんな」静香が小さく呟いた。


牛田が笑った。「何言ってんだ。俺たちにはお前が必要なんだよ」


静香の目に、涙が滲んだ。でも、それは悲しみの涙ではなかった。


古い皮を脱ぎ捨てるように。冷たかった心が、ゆっくりと温まっていく。


新しい自分が、そこから生まれた。そんな気がした。


そして静香は久しぶりに心から笑顔になって言った。


「はい、これからも宜しくお願いします」

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