第11話 蛇の観察
前半
ある静かな朝、会議室に現れたのは細身の女性だった。
「蛇島静香 (へびしま・しずか) です。人事部からの配属です」彼女の声は静かだが、明瞭だった。部屋に入るなり、彼女はじっと周囲を観察し始めた。その眼差しは鋭く、まるですべてを見透かしていくようだった。
「組織行動学と人間心理学が専門です。主に、人間行動パターンをリスク要因として分析します」
賢は少し驚いた。「リスク要因、ですか?」
「はい」静香は淡々と答えた。「理子さんは財務データや市場データから外部リスクを評価されていますね。私は、人間の行動パターンや心理から内部リスクを評価します。どんなに数字が良くても、人が崩壊すれば事業は失敗します」
理子は興味深そうに目を輝かせた。「なるほど、補完関係ですね。私は『何が起こるか』を予測し、静香さんは『人がどう動くか』を予測する」
「その通りです」静香は頷いた。「人間は数字では測れません。本能、感情、過去の経験——それらすべてが、予測不可能な行動を生み出します。私の役割は、その不確実性を可能な限り数値化することです」
「そうなんですね、歓迎します」賢がそう言って、チームの紹介を始めると、静香は一言も発さずに聞いていた。しかしその目は、話の内容だけでなく、話し方、表情、他のメンバーの反応まで、すべてを記録しているようだった。
紹介が終わると、静香はノートパソコンを開き、素早く何かを入力し始めた。数分後、彼女はスクリーンに図表を映し出した。チームメンバーの行動パターン分析だった。
「子田さんは生存本能が強く、常に損得を計算している。牛田さんは進化本能、持続的成長を重視。虎山さんは優性本能、支配欲が顕著。兎野さんは生存本能の逃避型。龍雲さんは存在肯定本能、承認欲求が過剰」
その分析の的確さに、全員が驚いた。わずか数分の観察で、各メンバーの本質を見抜いたのだ。威風は不快そうな表情を見せ、昇天は困惑していた。
「それは、褒めているのですか、批判しているのですか?」威風が鋭く問うた。
「どちらでもありません」静香は平然と答えた。「単なる客観的事実です。人間は誰もが本能に動かされています。それを認識することが、理性的行動の第一歩です」
静香の冷静さには、理由があった。幼い頃、両親の激しい夫婦喧嘩を目撃し続けた。怒鳴り声、泣き声、壊れる食器の音。小さな静香は、部屋の隅で膝を抱えて震えていた。
ある日、父が叫んだ。「お前が悪い!」母も叫び返した。「あなたこそ!」どちらも感情に支配され、相手の言葉を聞かない。幼い静香は思った——感情は、人を盲目にする。
それから、静香は感情を封印することを学んだ。泣かない、怒らない、笑わない。ただ、冷静に観察する。感情的な対立がいかに無益かを、身をもって学んだのだ。
大学で心理学と統計学を学び、人間行動を科学的に理解する道を選んだ。感情ではなく理性で、直感ではなく分析で。それが静香の人生哲学となった。
後半
静香が配属されて一週間後、チームに新しい案件が持ち込まれた。熊田製作所——創業60年の町工場との提携案だ。
「熊田社長は、うちの親父の古い友人なんだ」牛田が資料を配りながら言った。「技術力は確かだ。でも、最近は受注が減って、経営が苦しい。うちが3000万円出資して、共同で新製品を開発したい」
理子がすぐに財務データを分析し始めた。「売上高は5年で半減、負債比率は200%超、営業キャッシュフローは3期連続マイナス……」彼女の声が震えた。「倒産確率は70%です。リスクが高すぎます」
「でも、技術は本物だ」牛田が反論した。「熊田さんの金属加工技術は、業界でも一目置かれている。うちが支援すれば、必ず立ち直る」
「静香さん、あなたの意見は?」賢が聞いた。
静香は資料に目を通し、何かをメモしていた。そして、静かに口を開いた。
「人間心理の観点から分析すると、倒産確率は95%です」
会議室が凍りついた。理子の70%よりもさらに高い数字だった。
「どういうことだ?」牛田が声を荒げた。
「熊田社長は67歳、後継者なし。従業員20名の平均年齢は45歳」静香は淡々と続けた。「社長の経営判断パターンを見ると、過去の成功体験に固執し、新しい市場への適応を拒んでいます。『昔のやり方が一番』『若い者には分からない』——この思考パターンは、変化を拒む防衛本能です」
「従業員も同様です。長年同じ作業を繰り返し、新しい技術への学習意欲が低下している。これは心理学で言う『学習性無力感』です。変えようとしても変わらなかった経験が積み重なり、もう変わろうとしなくなる」
静香はグラフを示した。「過去5年間の離職データを見てください。30代以下の従業員の離職率は30%を超えています。退職理由の面談記録には『提案が通らない』『意見を聞いてもらえない』という言葉が繰り返し出てくる」
「さらに、組織内の人間関係が硬直化しています。会議の議事録を分析すると、社長の発言に対する反論や質問がゼロ。全員が『はい』としか言っていない。これは典型的な『衰退期組織の行動パターン』です。支援を受けても、内部から変革する力がない」
「でも——」牛田が反論しようとした。
「加えて」静香は遮った。「牛田さんの感情的関与が、冷静な判断を妨げています。『親父の友人』という関係性が、リスク評価を歪めている。これも典型的なバイアスです」
牛田の顔が紅潮した。「俺の判断が歪んでいるって言うのか?」
「事実を述べているだけです」静香は表情を変えない。「人間は感情で判断を誤ります。それを認識し、修正するのが理性です」
緊張が走る会議室で、静香は続けた。
「皆さんは『蛇と農夫』の話を知っていますか?」
賢が頷いた。「凍えた蛇を助けた農夫が、蘇った蛇に噛まれて死ぬ話ですね」
「はい」静香は言った。「一般的には『恩を仇で返す者がいる』という教訓とされます。でも、私は違うと思います」
「では、何が教訓なのですか?」理子が聞いた。
「本能的行動パターンを知ることの重要性です」静香は答えた。「蛇は悪意があったわけではありません。ただ、本能で噛んだだけです。農夫は善意から助けましたが、蛇の本能を理解していなかった」
「熊田製作所も、蛇だというのか?」牛田が低い声で言った。
「比喩ではありません」静香は冷静に答えた。「組織にも行動パターンがあります。衰退期の組織は、支援を受けても変われない。それは悪意ではなく、本能です。過去の成功体験、慣れ親しんだやり方、変化への恐怖——それらが、変革を拒むのです」
「だから助けるなと?」牛田の声が震えた。
「助けるなとは言いません」静香は言った。「ただ、相手の本能的行動パターンを理解した上で、適切に対処すべきだと言っているのです。感情的に飛び込めば、農夫と同じ結末になります」
会議室に重い沈黙が流れた。
賢は思った。静香の分析は正しい。でも、牛田の気持ちも分かる。データと感情、理性と人情——どちらが正しいのか。
「俺は、助ける」牛田がゆっくりと言った。「データも分かる。リスクも分かる。でも、熊田さんを見捨てることはできない。もし失敗したら、俺が全責任を取る」
「牛田さん——」賢が止めようとした。
「いいんだ」牛田は静かに笑った。「静香さんの言う通りかもしれない。でも、俺は感情で動く人間だ。理性だけでは生きられない」
静香は、初めて表情を変えた。ほんの少しだけ、眉を寄せた。
「分かりました」彼女は言った。「では、私も分析を続けます。最悪のシナリオを避けるために、できることを探します」
こうして、熊田製作所との提携は決まった。理子の70%、静香の95%という倒産予測にもかかわらず。チームは分裂していた。感情と理性、どちらが正しいのか——誰にも分からなかった。
熊田製作所の運命が——その答えを示すことになる。
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