第8話 月のウサギ(後編):勇気の証明
前半
理子が会議室の扉を開けた瞬間、全員の視線が一斉に彼女に向けられた。
「遅刻か。ウサギ君」威風が冷たく言った。「時間を守れないのも、君の逃げ癖の一つか?」
理子の手が震えた。いつもなら謝って座り、小さくなっていただろう。でも——。
「すみません。印刷に時間が掛かってしまい。ですが、これを見ていただけますか」
震える手で、資料を配る。徹夜で作り上げた、30ページのリスク分析報告書。ページをめくる音だけが、静寂の中で響いた。
「……これは」賢が最初に声を上げた。「詳細だな。裏付けもしっかりしている。」
「新規事業の拡大計画について、財務リスクを分析しました」理子の声は震えていたが、止まらなかった。「このまま進めば、3ヶ月後にキャッシュフローが——」
「待て」威風が遮った。「君は何を言っている?この計画は私が立案し、上層部も承認済みだ。君のような新人が口を出す領域ではない」
理子の古い恐怖が蘇る。逃げたい。今すぐ——。
でも、賢の言葉が頭に響いた。「永遠に逃げ続けることはできません」
理子は深呼吸をした。そして、初めて、威風の目を真っ直ぐ見た。
「威風さん。無謀と勇敢は違います」
会議室の空気が凍りついた。
「何だと?」威風の声が低くなる。
「ウサギと亀の話、覚えていますか?」理子の声が次第に力を帯びる。「あなたは亀を馬鹿にしました。でも、あの話の本質は違う。亀は自分の限界を知っていた。だから一歩一歩、確実に進んだんです」
「でも、ウサギはー」威風が話そうとするが理子が遮る。
「そう、ウサギは速い。でも、自分を過信した。リスクを計算しなかった」理子は資料を指さす。「この計画も同じです。素晴らしいアイデアです。でも、財務基盤を見ていない。速く走ろうとして、足元を見ていない」
威風の表情が変わった。怒りではなく——驚き。
「私は臆病者です」理子は続けた。「ずっと逃げてきました。でも、それは——怖いものを見てきたからです。父が破産した時、どんなに立派な計画も、リスク管理がなければ崩壊すると知りました。だから私はリスクを計算できるウサギになりたい。」
資料の5ページ目を開く。
「ここを見てください。3ヶ月後、大口取引先の支払いサイクルと、私たちの設備投資のタイミングが重なります。たった2週間のズレですが——この2週間で、資金繰りが破綻します」
賢が資料を見て、静かに頷いた。
威風は長い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がった。
「……見落としていた」彼は認めた。「完全に、見落としていた」
そして、理子の前に立つ。
「ウサギ君。いや、理子」威風の声が変わった。「この計画を修正できるか?君と私で」
理子は驚いて威風を見上げた。あの圧倒的な虎が、協力を求めている。
「……はい。やってみます」
「よし」威風が初めて、本当の笑みを浮かべた。このチームに来るまでは誰も見たことのない笑みだった。
後半
それから3日間、理子と威風は会議室にこもった。
威風の攻めの提案を、理子が財務の視点で検証する。理子の保守的な案を、威風がビジネスチャンスの視点で磨く。最初はぎこちなかった二人の対話が、次第に化学反応を起こし始めた。
「ここは攻めるべきだ」威風が地図を指さす。
「でも、リスクが——」理子が資料を開く。
「なら、このリスクヘッジはどうだ?」
「それなら……いけます。このタイミングなら」
深夜2時。オフィスに残っているのは二人だけだった。
「なぁ、理子」威風がコーヒーを飲みながら言った。「さっきの会議で、お前、私の目を見たよな」
「……はい」
「誰も私にあんな風に反論したことがなかった」威風が窓の外を見る。「みんな黙るか、媚びるか、だった」
「怖かったです」理子が正直に言った。「今でも怖い。でも——もっと怖いことがあるんです」
「何だ?」
「間違っていると知っていて、何も言わないこと。それが一番怖い」
威風は理子を見た。そして、静かに頷いた。
金曜日の夕方、修正プランが完成した。
理子と威風は、最後のページを閉じた。二人とも疲れ切っていたが、同時に達成感に満ちていた。
「……できたな」威風が静かに言った。
「はい」理子も頷いた。「これなら、いけます」
翌週月曜日、経営陣へのプレゼンテーションが行われた。理子は緊張していたが、もう逃げなかった。威風が力強くビジョンを語り、理子が慎重にリスク分析を説明する。二人の息はぴったりと合っていた。
「素晴らしい」常務が言った。「プレゼンを聞いて良く分かったが、威風君の大胆さと、理子君の慎重さ。この二つが組み合わさって、初めて完璧なプランになったように思う」
プランは全会一致で承認された。
プレゼンの成功を祝い、威風が理子を屋上に誘った。賢も一緒だった。
夕暮れ時。空はオレンジ色に染まり、街は静かに夜の帳を待っていた。三人は缶ビールを片手に、欄干に寄りかかった。
「理子、本当によくやった」賢がグラスを掲げた。
「ありがとうございます」理子は照れながら答えた。「賢さんに言われた言葉——あれがなければ、私は今日もまだ逃げていました」
「『永遠に逃げ続けることはできません』か」賢が笑った。「あの言葉、覚えていてくれたんだな」
「一生忘れません」
威風がビールを飲みながら、空を見上げた。
「理子」威風が静かに言った。「お前は俺を変えた」
「え?」
「俺は、力だけがすべてだと思っていた」威風が続ける。「スピード、勇猛さ、攻撃性。それが虎の強さだと信じていた」
理子は黙って聞いていた。
「でも、お前は俺に教えてくれた。慎重さも強さだと。立ち止まって考えることも、勇気だと」威風が理子を見た。「お前は俺の弱点を補った。俺は——お前の背中を押した」
理子の目が潤んだ。
「威風さん……ありがとうございます」
「なぁ、理子」威風がビールを一口飲んだ。「会議室で、お前『ウサギと亀』の話をしたよな。実は、もう一つ有名なウサギの話があるんだ」
「何ですか?」
「月のウサギの話だ」威風が空を見上げる。「日本の伝説では、月にウサギがいる。餅をついているって言うだろ?」
「ええ」
「あれはな、仏教説話が元になっている」威風が語り始める。「昔、ウサギとキツネとサルが、飢えた老人に出会った。老人は『何か食べ物をくれないか』と頼んだ」
理子は黙って聞いていた。
「サルは木の実を取ってきた。キツネは魚を獲ってきた。でも、ウサギには何も取れなかった」威風が続ける。「何の力もない、小さなウサギには——」
理子の胸が締め付けられた。
「それで、ウサギは——火の中に飛び込んだんだ」威風の声が静かになる。「『私には何もありません。だから、この身を捧げます』って」
「……」
「その勇気に感動した老人——実は帝釈天だったんだが——は、ウサギを月に昇らせた。その献身を、その勇気を、永遠に讃えるために」
威風が理子を見た。
「お前、会議室で俺に反論した時、火の中に飛び込むような顔をしていた」威風が言った。 「でも——それが本当の勇気だったんだな。ウサギの勇気だ」
理子の目が潤んだ。
威風が笑った。「これからも、よろしくな。ウサギ」
「はい。威風さん」
賢が二人を見て、静かに微笑んだ。もう、敵ではない。相棒だ。
夕暮れの空が、ゆっくりと夜に変わっていく。東の空に、満月が昇り始めていた。
「父さん、私やったよ。」輝く満月を見ながら、理子は静かに微笑んだ。
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