第7話 月のウサギ(前編)

前半


満月の夜だった。


兎野理子(うさぎの・りこ)、三十歳は、自宅のベランダから夜空を見上げていた。明日、彼女は「十二支プロジェクト」の面接を受ける。新設部署という不確実な環境。強烈な個性を持つメンバーたち。リスクだらけの選択だ。


「また、逃げるのか?」


理子は自分に問いかけた。いつものように、安全な道を選び、リスクを避け、目立たないように生きていくのか。


月の中には、ウサギがいるという。餅をつくウサギ。黙々と、地道に、自分の役割を果たすウサギ。


理子の脳裏に、ある記憶が蘇った。


——二十年前、1995年の冬。


「お父さん、どうしたの?」


十歳の理子は、リビングで頭を抱える父を見て戸惑っていた。証券マンだった父は、いつも自信に満ちていた。でもこの日、父の背中は小さく震えていた。


「理子……すまない。お父さんは、全部失った」


バブル崩壊。父が投資していた株式は暴落し、借金だけが残った。マンションは差し押さえられ、一家は小さなアパートに引っ越した。母は夜勤のパートを始めた。理子の私立小学校も諦めざるを得なかった。


「リスクを軽視してはいけない」父は何度も言った。「一瞬の判断ミスが、全てを奪う。慎重に、慎重に進まなければならない」


転校した公立小学校で、理子はいじめに遭った。


「おい、貧乏ウサギ」「お前のお父さん、破産したんだってな」「ダッセー服着てんじゃん」


理子は何も言い返せなかった。ただ、じっと耐えた。目立たないように、静かに、逃げるように生きた。


ある日、クラスで問題が起きた。誰かがガラスを割ったのだ。犯人探しが始まったとき、何人かの生徒が理子を指差した。


「兎野がやったんだろ?」「あいつ、いつも隅っこにいて怪しいし」


やっていない。でも、理子は否定できなかった。声が出なかった。心臓がバクバクして、手が震えた。


結局、真犯人が名乗り出て誤解は解けた。でもその経験は、理子の心に深い傷を残した。


「立ち向かえなかった」


そのとき以来、理子は「逃げること」を選ぶようになった。リスクを避け、安全な道だけを選ぶ。目立たず、波風を立てず、静かに生きる。


大学では統計学を学んだ。リスク管理の専門家を目指した。「起こってはいけないこと」を想定し、予防策を立てる。それが理子の生きる道になった。


就職先も、安定性を最優先に選んだ。給料は高くなくても、確実に生活できることが重要だった。昇進のチャンスは何度もあった。でも、リスクを伴う挑戦は全て断った。


「兎野くんは優秀だけど、もう少し積極性が欲しいね」


いつかの上司の言葉が、棘のように刺さっていた。


後半


面接当日。


会議室に入った瞬間、理子は後悔した。


三人の内、そこにいた一人は、圧倒的な存在感を放つ男——虎山威風だった。


「よ、よろしくお願い、します」


理子の声は小さく、視線は机の上を泳いでいた。威風の鋭い眼光を感じるだけで、身体が固まった。


威風は理子を一瞥すると、露骨に失望の表情を見せた。


「この人で大丈夫ですか?プレゼン能力や交渉力が必要な場面で、役に立つとは思えませんが」


その言葉に、理子の心臓が凍りついた。


——また、あのときと同じだ。


小学校で指差されたとき。何も言い返せなかったとき。ただ、逃げたいと思ったとき。


「理子さんの専門分野を教えてください」


牛田の優しい声が、理子を現実に引き戻した。


「データ分析と……リスク評価です」理子は小声で答えた。「特に、想定されるリスクを、事前に洗い出して、対策を立てることを得意と、しています」


「具体的には、どのような手法を使うのですか?」賢が興味を示した。


理子の目が少し輝いた。これは自分の専門分野だ。


「シナリオ分析を中心に、統計的手法と経験的判断を組み合わせます。特に『起こってはいけないこと』を想定し、その予防策を考えるのが得意です。『二兎を追う者は一兎をも得ず』と言いますよね。確実に一つずつ成果を上げることを大切にしています」


威風は鼻で笑った。


「要するに、臆病者の発想ということですね。ビジネスはリスクを取らなければ成功できません。一兎すら追わない者は何も得られない。多少のリスクを必要以上に恐れて、石橋を叩いて壊していては、機会を逸してしまいます」


理子は再び黙り込んだ。反論したい。でも、言葉が出てこない。喉が詰まる。


——また、逃げるのか?


理子は意を決して言った。


「 —— ウサギと亀の話を知っていますか?」


一瞬、会議室が静まり返った。


「亀が勝ったのは、速さではなく、着実さがあったからです。私もときには亀のように、確実に前進したいと思っています」


しかし威風は容赦なかった。


「その話の教訓は『油断は禁物』ですよ。ウサギが途中で昼寝をしたから負けただけです。真面目に走り続けていれば、ウサギが勝っていたでしょう」


理子は言葉を失った。


確かに、そう解釈することもできる。自分の慎重さは、単なる臆病さなのかもしれない。


面接は終わった。


そしてほどなくして合格の連絡が来た。賢はリスク分析の専門家は必要と判断していた。しかし、嬉しいはずの理子の心は全く晴れなかった。


その夜、理子はまた満月を見上げていた。


月のウサギは、今日も餅をついているだろうか。一人で、黙々と、誰にも褒められることなく。


「私も、月のウサギと同じだ」


理子は呟いた。


でも——それで、いいのだろうか?


一週間後、理子は十二支プロジェクトに正式に加わった。


初日から、威風の圧力は強烈だった。会議では発言を控え、威風が提案するプロジェクトに対しても意見を述べようとしなかった。


賢は理子の様子を心配していた。このままでは、理子の能力を活かせない。


ある日の午後、賢は理子を個別に呼び出した。


「理子さん、少し話せますか?」


二人は空いている会議室に入った。賢は資料を見せた。


「威風さんの提案について、リスク分析をお願いできますか?」


理子は困惑した表情を見せた。


「でも、威風さんは私の意見を求めていないようですし……」


賢は優しく、しかし明確に言った。


「逃げてはダメです」


その言葉が、理子の心に刺さった。


「理子さんの慎重さは、チームに必要な個性です。威風さんの大胆さと、理子さんの慎重さ、両方があってこそバランスが取れるのです」


賢は続けた。


「逃げることも戦略です。でも、永遠に逃げ続けることはできません。いつかは立ち向かう時が来ます。理子さん——今がその時ではないでしょうか?」


理子の目に、涙が浮かんだ。


誰も、こんなふうに言ってくれなかった。自分の慎重さを「弱さ」ではなく「必要な個性」だと。


「分かりました」


理子は震える声で答えた。


「やってみます」


その夜、理子は徹夜でリスク分析をまとめた。威風の提案は確かに魅力的だった。でも、いくつかの見落としがある。競合他社の反応、市場の変化のスピード、法的リスク——。


データを集め、シナリオを想定し、対応策を考える。これが理子の得意分野だ。


夜が明けた。満月は沈み、朝日が昇った。


「今日、発表しよう」


理子は決意した。


でも——怖かった。


会議室の扉の前で、理子の手が震えた。心臓がバクバクする。冷や汗が流れる。


——また、あのときみたいになるんじゃないか。


——威風に否定されて、皆の前で恥をかくんじゃないか。


——逃げたい。


でも——。


理子は深呼吸した。


「もう、逃げない」


扉を開けた。

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