第3話 賢さと狡さの境界

前半


賢の子供時代は、常に計算の連続だった。父親が転勤族だったため、三年ごとに転校を繰り返す。新しい環境で素早く立ち位置を見つけ、適応することが生存の条件だった。


小学四年生のとき、クラスで学級委員を決める選挙があった。立候補者は三人。一人は勉強ができる優等生、もう一人は人気者のスポーツ少年、そして賢だった。明らかに不利な状況だった。


賢は戦略を練った。優等生とスポーツ少年の支持層を分析し、どちらにも属さない「その他大勢」の票を固めることに集中した。地味で目立たない子たちに声をかけ、彼らの意見に耳を傾けた。


結果的に賢が当選した。「汚い手を使った」と批判する声もあったが、賢は「これは戦略であって、悪いことではない」と自分に言い聞かせた。でも、心のどこかで罪悪感を感じていたのも事実だった。


中学時代、賢は十二支の昔話を改めて読み返した。ネズミが牛の背中に乗って一番になった話。子供の頃は「賢いネズミ」だと思っていたが、今度は「狡いネズミ」という見方も気になった。「鼠捕らぬ猫より鼠捕る犬」という諺がある。名目より実力が大事だと。しかし、その実力が他者を利用したものだとしたら?


牛は真面目に早起きして、自分の足で歩いた。ネズミは他者の力を利用して、最小限の努力で最大の結果を得た。どちらが正しいのだろうか。効率的であることは、道徳的に問題があるのだろうか。


高校受験のとき、賢は志望校の傾向を徹底的に分析し、出題されやすい問題だけを集中的に勉強した。同級生たちが幅広く勉強している中で、賢の方法は確実に効率的だった。


結果、賢は志望校に合格した。しかし合格発表の日、真面目に勉強していた友人が不合格になったのを知り、複雑な気持ちになった。自分の賢さは、本当に正しいものなのか。


大学卒業後、賢は商社に就職した。持ち前の分析力と戦略思考で、着実にキャリアを積んでいった。しかし同期との競争が激しくなるにつれ、「賢さと狡さ」の境界は曖昧になっていった。


牛田と一緒に仕事をするようになって、賢は改めて自分の価値観を見つめ直していた。牛田の真摯な姿勢は、まさにあの昔話の牛のようだった。自分の足で一歩ずつ歩み続ける姿。


「賢さんは頭がいいですね」牛田によく言われた。褒め言葉のはずなのに、賢は素直に喜べなかった。自分の「頭の良さ」は、本当に価値のあるものなのか。それとも単なる小賢しさなのか。


後半


十二支プロジェクトが本格始動して一ヶ月が経った頃、衝撃が走った。上層部から「3ヶ月以内に目に見える成果を出してください。達成できなければプロジェクト終了」というメッセージ。思ったより会社の調子は悪いらしい。


賢の脳は即座に対応策をはじき出した。「他部署で困難に直面しているあのプロジェクトを分析し、解決策を提示すれば評価が大きく向上する」効率的。確実。完璧な戦略。


しかしそれは......要するに「他人の成果を横取りする」ということではないか?賢の頭の中で、昔の自分が囁く。「それは戦略というものだ。ビジネスの世界では一般的だ。むしろやらない方が損をする」


一方で、牛田は地道に基盤作りを続けていた。顧客との信頼関係の構築、社内の協力体制の整備。すぐには成果として見えないが、確実に価値のある仕事だった。


賢は迷った。抜け駆けをすれば確実に評価される。しかし牛田を裏切ることにもなる。そして何より、自分が本当に求めているものは何なのか、分からなくなっていた。


その夜、賢は一人でオフィスに残っていた。パソコンの画面には、他部署のプロジェクト分析資料が表示されている。送信ボタンを押せば、上層部に提案書が届く。キャリアアップへの近道が、目の前にあった。


そのとき、牛田が戻ってきた。「賢さん、まだいらしたんですね。お疲れ様です」彼はいつものように穏やかに挨拶した。


「牛田さんこそ、遅いですね」賢はパソコンの画面を閉じながら答えた。


「ちょっと取引先に挨拶回りをしていまして。小さな会社ですが、将来性を感じるんです。今は直接的な利益にはなりませんが、いずれ大きな価値を生むかもしれません」


牛田の言葉を聞きながら、賢は自分の浅はかさを痛感した。目先の利益ばかりを追い求め、本当に大切なものを見失っていた。牛田が築こうとしているのは、一時的な成功ではなく、持続的な価値だった。


「牛田さん」賢は意を決して言った。「実は、ちょっとした抜け道を見つけたんです。でも、それを使うかどうか迷っています」


牛田は賢の画面を見て、すぐに状況を理解した。「なるほど、確かに効果的な方法ですね。でも、賢さんはどう思いますか?本当にやりたいことですか?」


賢は正直に答えた。「分からないんです。これまでこういう方法で乗り切ってきました。でも、牛田さんと仕事をするようになって、違う価値観があることを知りました」


牛田は優しく微笑んだ。「賢さんの能力は本物です。分析力も戦略思考も、正しく使えば大きな価値を生みます。問題は、その能力を何のために使うかです」


その言葉で、賢の心は決まった。提案書を削除し、代わりに牛田と共同で作成した長期戦略を上層部に提出した。すぐには評価されないかもしれないが、それが正しい道だと思えた。


数日後、二人の提案は「時期尚早だが将来性がある」として、継続検討となった。賢は少し安堵し、そして初めて「自分の選択に納得できた」と感じていた。賢さと狡さの境界線が、少しずつ見えてきた気がした。

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