第49話 雨とカフェオレと強がり

 シリコンバレーへの旅立ちを明日に控えた日。

 OJT最終日となる金曜の午後。


 花森と私は、取引先への引き継ぎ挨拶に出向いていた。


「山田社長、長らく大変お世話になりました」

「浅海さん、こちらこそ。本当にありがとう」

「今後は後任の花森が全力でサポートいたしますので、どうぞご遠慮なくお申し付けください」


 入社一年目から関係を築いてきた取引先への挨拶は思ったより心にきた。


「花森さん、よろしくね」

「花森と申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 花森が口角を上げ、小慣れた手つきで名刺を差し出す。

 あの飲み会以降も、花森は相変わらず元気がない。ぼーっとした表情で宙を見つめていることが多い。

 それでも仕事となればちゃんとこなす。そこはプロなんだなと感心する。


 最後の取引先との挨拶を終え、車に戻る。花森はシートベルトも締めずに、助手席の窓の外をぼんやりと眺めていた。


「花森さん、シートベルト」

「…あ、すみません」


 慌てて締める手つきも、どこか上の空だった。

 コンビニの広い駐車場に車を滑り込ませる。

 エンジンを切ると、一気にまた車内がシンと静まり返る。


「はいこれ。お疲れ様」


 コンビニで買ってきたカフェオレを花森に手渡す。


「…ありがとうございます」

「これ飲んだら、オフィス帰ろうか」

「……はい」


 カシュッ

 プルタブを開ける音が、静まり返った車内に妙に大きく響く。


 ゴクッ

 自分のコーヒーを喉に流し込む音さえも、耳障りなほど大きい音がする。


 沈黙。

 気まずい。気まずすぎる。

 花森はカフェオレを膝の上で両手で包み込むように持って俯いている。


 ここ最近ずっと、車内はこんな感じでお通夜みたいな雰囲気だ。

 こんな重すぎる雰囲気の中で告白なんて…。

 もう今日が最後なのに。


 ポツポツ…

 フロントガラスに雨粒が一つ、また一つ。


「あ、雨…」


 車体に当たる雨音。か細く、しかし確かに響き始める。


「今日で、終わりだね」


 何か話題を、と私が口を開く。


「……そうですね」

「一年、楽しかったよ。意外と」


 花森が一瞬こちらをちらっと見た。


「そうなんですね」


 そして、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。


「わたしは最悪でしたけど」


 花森はもう一度視線を落として、唇を少し尖らせる。拗ねたような、照れ隠しのような、微妙な表情。


「…もうこれで、浅海さんの運転する助手席に座らなくてよくなると思うと嬉しいです」

「は?」

「浅海さんのブレーキ、いつもちょっと急だから酔うんで」


 この女、なんか急に煽ってきた。ムカつく。


「花森さん運転する時、道、間違えないようにね」

「は?」

「方向音痴だから心配で」

「あの時は浅海さんが間違えたんじゃないですか」


 私が煽り返すと、花森はこちらを睨み、拗ねたような表情になる。


「……来年はわたしがOJTの先輩になって、イケメンの後輩といい雰囲気になるんです」

「はいはい。それは楽しみだね」


「ほんとに。やっと…、」

「浅海さんとの…、ペア解消できて…」


 花森は煽るような言葉を紡ぎ続ける。

 けれど。


「……嬉しい……です……」


 顔が下を向く。少しずつ声が小さくなって。徐々に言葉が途切れ途切れになって。


 膝の上に置いた手に、一粒の水滴がこぼれ落ちる。

 ——涙だ。


 その涙は止まることなく、白いスカートに染みを作っていく。一粒、また一粒と。


「え……花森、さん?」


 私の呼びかけに、花森は慌てて窓の外へ顔を背ける。


「ひっ…く、…っく」


 嗚咽を我慢しているのか、肩が小刻みに震えている。

 外では雨が強さを増していた。車体を打つ雨音が、花森の泣き声を包み込んでいく。


「…違いますから」


 花森は鼻をすすり、涙声で言う。


「浅海さんがいなくなるの、嬉しすぎて泣いてるんです」


 そっぽを向いた頬を、涙が一筋、また一筋と伝い落ちる。窓ガラスを流れる雨粒と重なって見えた。 


 その姿を見て、胸がギュンと締め付けられた。

 これはきっと花森の強がりだ。意地を張って。それでも涙が止まらなくて。

 不器用で、素直じゃなくて。

 それがたまらなく愛おしくて。


 これが、最後かもしれない。

 そう思うと、もう我慢できなかった。

 拒まれたらとか、嫌われたらとか。そんな恐怖や不安なんてどうでもよくなるほどに。


 気づけば私は、花森を抱き寄せていた。

 ぎゅっと。


 花森の華奢な肩に腕を回し込み、背中越しに強く引き寄せる。


「え……?」


 花森の戸惑った声と吐息が、熱を帯びて耳に響いてくる。

 至近距離で目が合う。涙で濡れた瞳。震える唇。その唇がすぐ近くに。 


 その瞬間。


 触れるか触れないかの距離で、唇が重なった。 

 やわらかくて、温かい。ほんのり甘いカフェオレの味がした。


 私はもう一度、今度は少しだけ長く唇を重ねる。そっと離して花森を見つめると、潤んだ瞳がさっきよりも緩んでいる気がする。

 私の視界もぼやけている。涙が溢れる。


 花森の顔が近づいてくる。そして再び、唇が重なる。

 軽く触れて、離れて、また軽く触れてを繰り返す。


 私はもう一度ぎゅっと花森を抱きしめる。

 ドクンドクン

 心臓の音が全身に響く。自分の音か、花森の音か。


「花森さん」


 震える声。耳元で言葉を紡ぐ。


「……好きだよ」



 顔を覗き込むと、花森が戸惑ったような表情を浮かべている。瞳がふるふると揺れている。


 けれど。

 その直後、ふっと微笑み、細められた目元から涙が流れる。

 その笑顔が、耐えられないほど愛おしかった。


 また顔が近づく。どちらからともなく。

 今度のキスは、さっきまでとは違った。 


 気付けば、私の舌が花森の唇をなぞっていた。花森が小さく息を呑む。そして、ためらいがちに唇を開く。


 舌先が触れ合う瞬間、電流が走ったような感覚。

 そして絡みつくように、吸い付くように、溶け合うように。お互いを求め合う。


 お互いを抱きしめる腕に力がこもる。

 花森が私のブラウスを握りしめる。その指先に込められた力が、その想いを伝えてくる。強く、強く。愛おしい。


 お互いの呼吸が荒く、熱を帯びていく。車内の空気が、熱っぽく、甘く、濃くなっていく。


 唇をゆっくりと離すと、透明の糸が淡く光を反射する。至近距離で見つめ合う。


 花森の頬は紅潮し、瞳は熱に浮かされたようにとろけている。

 唇は濡れて艶めいて、長いキスで少し腫れているようにも見える。


 そして少し意地悪な目になって、囁く。


「浅海さん…。仕事中ですよ」


 花森が息を切らしながら言う。その声がエロティックに耳の奥まで響く。自分の身体の奥がどんどんと熱を帯びるのを感じる。


「花森さんもね」


「サボってたって部長に報告しますよ。アメリカ行く話、取り消しになるかも」

「花森さんが離してくれないから」

「先にキスしたのは浅海さんじゃないですか」


 そんな会話を至近距離で交わしながら、ふふって笑い合う。

 顔が近づき、また唇を重ねる。


 こんな時まで言い合いになるなんて。本当にこの女は後輩のくせに生意気だ。

 憎たらしくて、それがまた愛らしい。


 花森のことが、花森千紗のことが、愛おしくて、愛おしくてたまらない。 


 仕事中に何をしているんだろう。

 しかも営業車の中で。後輩と。


 罪悪感と高揚感、言いようもないほどの幸福感が複雑に入り混じる。

 そんな中、私たちは何度も唇を重ねる。今度は深く、貪るように。花森の吐息が甘く、切なく、耳に響く。


 外は、いつの間にか土砂降りになっていた。雨音が激しく車体を叩き、外の視界を遮断する。私たちだけの世界を守ってくれているように。


 どれほど時が過ぎただろう。

 激しく叩きつけていた雨が、少しずつ静かになっていた。


「……もう、帰らないとね」


 花森にそう告げてゆっくりと身体を起こし、シートベルトを締める。


 私はエンジンをかけ、前方を向いて車を発進させた。

 花森が、前を向いて俯き加減で、小さく呟く。


「浅海さん」

「ん?」



「好きですよ」



 消え入りそうな声。


 えっ。


 私は思わずコンビニの駐車場を出る前に急ブレーキ。


「もう、浅海さん危ないですよ」

「あ、ごめん。さっき、なんて言った?」

「はあ?絶対聞こえてたでしょ」

「いや、幻聴かなって。もう一回言ってもらっていい?」

「絶対嫌です。ほら、早く帰らないと夕礼始まりますよ」

「はいはい」


 車が信号で止まった時。

 私は花森の横顔を盗み見る。

 顔はそっぽを向いている。でも、耳が赤い。頬の位置がいつもより高く感じた。


 胸が高鳴る。顔が熱い。

 自分の口角が無意識に上がっていることに気づいた。



 ——明日、私はシリコンバレーに出発する。

 もう少しだけ、花森とこうしていられる時間が長ければよかったのに、と思う。


 でも。

 ふと前を見ると、フロントガラスの向こうに、薄く虹が架かっているのが目に入る。​​​​​​​​


 それと同じぐらい、私の気持ちは晴れやかだった。

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