第33話 雷鳴が近づくほど、距離が縮まった
窓の外は、どんよりとした曇り空。
雨はどんどんと強くなっていた。
私と花森はそれぞれパソコンの画面と格闘していた。
資料の修正。グラフの調整。文言の確認。
時計を見ると、午後八時を回っていた。その時だった。
ゴロゴロゴロゴロ……
遠くで雷の音が聞こえた。
「……雷、鳴ってますね」
花森が言った。いつもより、少し声のトーンが低い。心なしか震えている気がした。
「うん。雨も強くなってきたね」
窓の外を見ると、激しい雨が降っていた。
「花森さん、雷苦手だったよね」
「別に。ちょっとだけ、です」
こいつ、絶対強がってる。
「本当に?」
「……だから、ちょっとだけって言ってるじゃないですか。それより、さっさと終わらせて帰りましょ」
私が軽くからかうと、花森の唇がわずかに尖っている。ムキになってる証拠だ。可愛い。
って、また何考えてるんだ私は。
私たちは作業を続けた。
ゴロゴロゴロゴロ……ピカッ!
また雷。音がさっきよりかなり近い。花森の肩が、ぴくっと動いた。
そして、次の瞬間。
ガシャアアアアン!!!
耳をつんざくような雷鳴。
同時に、オフィスの電気がパッと消えた。
真っ暗。完全なる暗闇だ。
「ひぃっ!」
花森の悲鳴。さっきまでの強がりはどこへやら。
「停電……?」
私は声を上げた。パソコンの画面も消えている。真っ暗で何も見えなくなってしまった。
「浅海さん!?!?どこ!?どこですかあぁあ」
花森の声が、明らかにパニックを帯びている。さっきまでの強がりはどこに消えた。
「大丈夫、ここにいるよ」
「ど、どこですかっ!暗いの無理で」
ガタン!
何か倒れる音。暗闇の中で慌てて立ち上がったらしい。
「花森さん、落ち着いて」
「落ち着けるわけないじゃないですかあぁ!」
ゴロゴロゴロ……ガシャアアアン!!
また激しい雷鳴。
「うぅー無理無理無理!」
ドンッ!
「痛っ……」
何かにぶつかった音と、花森の声。
「大丈夫?」
「机に……机に、足を……」
完全にパニック状態の花森。暗闇の中で、ガサガサと何かを探すような音が聞こえる。
私は手を伸ばした。何かに触れた。柔らかい。温かい。花森の手だ。
「ひゃあぁあぁあ!?何これっ!」
花森の声。
「大丈夫、それ私の手」
「あ……」
花森の手が、私の手をぎゅっと握り返してきた。かなり強い握力。
日頃の生意気な態度からは想像もつかない必死さだ。
「ちょっと強いよ、痛い痛い」
「すみません!でもほんとに無理で」
必死な声。さっきまでの生意気な花森はどこへ行った。
ゴロゴロ……ガシャアアアアン!!
またしても激しい雷鳴。
「ひぃっ!」
握る手に、さらに力が込められた。
花森の悲鳴。そして次の瞬間——
何か、私にぶつかってきた。
柔らかい感触が、一気に身体に押し寄せる。暗闇の中で、花森が私のブラウスにしがみついてきたのだ。
「無理、無理です……ほんとに」
花森の声が、泣きそうになっている。花森の体が震えているのがわかる。
そして——暗闇の中で、私の感覚が研ぎ澄まされていく。
視界は完全に奪われている。だから、他の感覚が異常なまでに鮮明になる。
花森の髪から漂う、ほのかに甘いシャンプーの香り。
彼女の体温が、服越しに伝わってくる。思っていたよりずっと温かい。
すぐそばで聞こえる、花森の荒い息遣い。
震える身体。小さな肩。細い腕。
こんなに華奢だったんだ、と今更ながらに思う。いつも強気な態度だから気づかなかった。
花森の指が、私のブラウスをぎゅっと掴んでいる。その感触まで、はっきりとわかる。
雨音が、窓を叩く音。
遠くで鳴る雷の音。
でも、一番うるさいのは——自分の心臓の音だった。
ドクン、ドクン、ドクン。
こんなに激しく鳴っている。
心臓が暴れている。胸の奥が、熱い。身体の芯が、じんわりと熱を帯びている。
花森の震える指先。
首元に感じる吐息。
心臓の音。
かわいい。愛おしい。
そう感じているうちに、気づいたら、私は——花森を抱き寄せていた。
「え?浅海、さん……?」
戸惑いの声。
「えと、な、何してるんですか……?」
花森の身体が、少し硬くなる。
でも、私は——離せなかった。
むしろ、腕に力が入ってぎゅっと花森を抱きしめる体勢になる。
離したくない。
この温もりを、この感触を、まだ感じていたい。
暗闇の中で、花森の体温だけが、やけにはっきりと伝わってくる。
「……ごめん。も、もうちょっと」
「え……」
「もうちょっと…このままでいい?」
自分の声が、震えているのが分かる。
「いい…ですけど。な、なんで、ですか」
花森の声も、震えている。
なんで。
理由は、自分の中でもう分かっていた。
でも、それをそのまま伝えるのが怖くて。
伝えることで花森に嫌われるのが怖くて。
必死に頭の中で、それっぽい理由を探す。
「えっと……。雷……、怖いから」
私は、咄嗟に嘘をついた。
また花森に嘘をついた。
雷なんか別に平気だ。
本当は違う。本当は——
「あ、あの……あさみ、さん……」
花森の声が、小さく震える。
花森の体から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。抵抗するでもなく。ただ、身を預けてくる。
とまどっていた花森の手が、私の背中に回り、ギュッと掴んでくる。
その重みが、ギュッと掴む手が、愛おしい。
心臓が、さらに激しく鳴る。
ドクン、ドクン、ドクン。
こんなに近くにいたら、私の心臓の音は、花森に聞こえてるだろう。
花森の心臓の音も聞こえてくる。自分の身体に響くぐらいに。
でも、止められない。
私は、さらに花森をぎゅっと抱きしめた。
そうすると花森もぎゅっと抱きしめ返してくる。
花森の髪が、私の頬に触れる。柔らかい。
彼女の息遣いが、首筋にかかる。くすぐったい。
その全てが愛おしくてたまらない。
でも、それ以上に——胸が苦しい。
だめだ。これは、本当にだめだ。
花森には、好きな人がいる。別の人を想っている。
私じゃないのに。
花森が雷を怖がってるのをいいことに。
停電して顔が見えないのをいいことに。
こんなことをしている。ずるいと思う。
罪悪感でいっぱいだ。
でも、離せない。
暗闇の中で、二人だけの時間。
この瞬間が、いつまでも続けばいいのにと思った。
花森の唇が、すぐ近くにある気がした。
暗闇の中で、彼女の顔の輪郭がぼんやりと見える。目が潤んでいるのが分かる。
暗闇の中、じっと見つめていると——
パッ!
突然、電気が戻った。
一気に明るくなったオフィス。
花森と目が合う。
めちゃくちゃ近かった。
お互いの吐息が触れ合うくらいの距離。
お互いの唇が…、数センチの距離で近い。
花森の顔が、真っ赤だ。
私の顔も真っ赤に違いない。火が出てるんじゃないかと思うぐらい、自分の顔も身体も熱い。
「あ……」
花森が何か言おうとして、口をパクパクさせている。言葉が出てこないみたいだ。
瞬きが高速で、目が泳いでいる。
耳まで真っ赤になって、こちらから視線を逸らす。
私たちは、慌てて離れた。
「ご、ごめん」
「いや、わたしも…」
花森がおずおずと席に戻る。
「し、仕事、終わらせましょ」
花森が言った。いつもの生意気な口調に、戻ろうとしている。でも、まだ声が震えている。耳まで真っ赤だ。
「う、うん」
私もそそくさとデスクに戻って答えた。
「かっ、雷、怖かったなァ〜」
私は思い出したかのようにわざとらしくそう言った。声が情けなく上ずる。わざとらしすぎたかもしれない。
私たちは、何事もなかったかのように、仕事に戻る。
でも、心臓の音は、ずっと収まらなかった。
胸が、締め付けられるように痛かった。
しばらく沈黙が続く。
パソコンの画面を見つめているけど、文字が全然頭に入ってこない。
と、横からぽつりと小さな声が聞こえた。
「ああいうの……」
花森の声。
顔を向けると、花森は画面を見たまま、こちらを見ていない。
花森の声が、震えている。
「ダメです……本当に、勘違いするんで」
顔を背けたまま、ぽつりと呟く。
その横顔は、まだ赤く染まっていた。
……勘違い?
どういう、勘違い?
誰が、何を勘違いするの?
私の心臓が、また激しく鳴り始める。
全部、聞いてしまいたい。
でも——怖くて、聞けなかった。
そして——手のひらに残る、花森の温もりが、まだ消えなかった。
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