第八章 嫌いな後輩と残業

第30話 仕事にならないのはあいつのせい

 花森の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 その瞳が私を見つめている。その唇が、すぐそこにある。


 近い。すごく近い。そして、軽く触れた。

 柔らかくて、温かい感触。

 花森の唇が、私の唇に重なる。

 ゆっくりと、優しく。そして、さらに深く。舌が絡み合う感覚。


 甘い吐息が混ざり合う。

 花森の体温が伝わってくる。


 指先で、花森の身体を優しく撫でていく。

 首筋から、肩、胸。そして下半身へと。


 花森の甘い声。

 かわいい。

 もっと触れたい。

 もっと近くにいてほしい。


「浅海さん……」


 花森が囁くように呼ぶ。

 その声が、耳元で響いて溶けていく。


「花森さん……」


 私も花森の名前を呼んでいた。

 抱きしめる。もっと近くに。もっと――


 ピピピピピ!ピピピピピ!



「ハッッッッッ!?!?!?!?」


 私は跳ね起きた。

 スマホのアラームがけたたましく鳴り響いている。

 目の前に広がるのは見慣れた自分の部屋。

 ベッドの上で大量の汗をかいている自分がいた。


 朝だ。夢だった。

 今のは全部、夢だったんだ。


「はあ……はあ……」


 息が荒くなっている。

 心臓がバクバクと激しく鳴っている。

 顔が火照って熱く、手が小刻みに震えている。


 え、ちょっと待て。いやいやいや、なんて夢を見てるんだ、私。

 頭を抱えて青ざめる。


 何でもない後輩と、…花森千紗と、セッ…あんなことをしている夢なんて。

 

「やばい……本当にやばい……」


 声が震えてしまう。動悸が止まらない。

 私、どうしちゃったんだろう。​​​​​​​​


 ***


 出張から帰って数日後。

 私の日常は、完全に変わってしまった。

 何が変わったかって?


 花森を意識しすぎて、仕事にならない。


「浅海さん、この資料の件なんですけど」


 佐々木くんが話しかけてくるが、私の視線はデスクの向こう側にいる花森をチラチラ見てしまっていた。

 花森が、パソコンに向かって真剣な顔で資料を作成している。


 気づいたら視線で追ってる。


「浅海さん?」

「あ、ごめん。何?」


 我に返って佐々木くんを見る。


「この資料の件で……」

「ああ、うん。それね」


 集中しろ、私。


 新サービスを大型展示会に出すことが決定して、営業部は戦場と化していた。この展示会で一気に認知を広めたい。会社の命運がかかっていると言っても過言ではない。


 営業活動を進めつつ、展示会用の資料作成、ブースのレイアウト検討、デモンストレーションの準備。やることが山積みで、遅くまでの残業は当たり前になった。


 そんな忙しい中でも、私は気づくと花森のことを目で追っていた。


 花森が席を立つ。

 視線で追ってしまう。

 給湯室に向かう後ろ姿。



「浅海さん、それでここなんですけど……、浅海さん?」

「へ!?…あ、ああ!ここだよね、えっとこれは〜」


 だめだ、本当にぼーっとしてる。しっかりせねば。

 佐々木くんが、「ありがとうございました」と自席に戻る。


 そうしているうちに花森が給湯室から戻ってくる。

 コーヒーカップを持って。


 そして、私と目が合った。


 ドクン。


 心臓が大きく跳ねる。


 慌てて視線を逸らす。

 パソコンに向き直っていそいそと画面を見つめる。


 でも、何も入ってこない。

 なんでこんなに。意味わからない。

 悔しい。


「浅海」


 営業部長の声が飛んでくる。


「はい!」

「展示会のパンフレット、デザイン案できたか?」

「あ、はい。今日中に完成させます」

「頼むよー。印刷所に入れるのギリギリだから」

「分かりました。急ぎで進めます」


 仕事をしなきゃ。

 ちゃんと仕事をしなきゃ。

 花森のことなんか気にしてる場合じゃない。


 そう自分に言い聞かせて、パソコンに向かう。


 ***


「浅海さん」


 背後から声がした。


 ビクッ。


 その声に身体が跳ね上がる。

 振り返ると、花森が立っていた。


「は、花森さん。おはよ」


 声が上ずる。

 落ち着け、私。


「ふ、今ビクッてなってましたよ。展示会のブース配置図なんですけど、これでいいですか?」


 花森がすぐ隣でタブレットを見せてくる。


 近い。

 顔が近い。

 花森の匂いがする。甘い桃の香り。


「あ、うん。いいんじゃない?」

「本当ですか?ここの動線、ちょっと微妙かなって思ったんですけど」


 花森が画面を指差す。


 その指。

 細くて、綺麗で。

 ……って、何見てるんだ、私。


「浅海さん?」


 顔のすぐ隣でこっちを見つめてくる。

 身体が熱い。


「あ、ごめん。どこ?」

「ここです。一回で聞いてくださいよ」


 花森が憎まれ口を叩きながら、もう一度指差す。


 集中しろ。

 ちゃんと見ろ。


「ああ、確かに。じゃあ、こっちの配置のほうがいいかも」

「ですよね。やっぱり」


 花森が納得した顔で頷く。


 その表情。なんだそれ。

 ……可愛い。

 悔しい。なんで可愛く見えるんだ。


「ありがとうございます。修正しておきます」


 花森が自分の席に戻っていく。


 私は大きく息を吐いた。

 ドキドキが止まらない。


 ただ仕事の話をしただけなのに。


 ***


 午後になって、花森がまた話しかけてきた。


「浅海さん、お疲れ様です」

「お、お疲れ」

「さっきの展示会の資料、修正できました」

「あ、うん。ありがとう」


 なんでこんなにぎこちないんだ、私。


「浅海さん、なんか変ですよ?」


 花森が不思議そうに私を見る。


「へ、変じゃないよ」

「顔、赤くないですか?熱あります?」

「そんなことない」

「じゃあまた変なこと考えてたとか?」

「は!?か、かか、考えてないし」


 花森がくすくす笑った。

 その笑み。笑い声。


 ……楽しい。

 悔しいけど、楽しい。

 花森と話すのが、楽しいと思ってしまう自分がいる。


「やっぱり、なんかおかしいです」

「お、おかしくない」

「出張の後から、変ですよ」


「そ、そう?」

「はい。なんか、ぎこちないです」

「き、きき気のせいだよ」


 花森が目を細めて、首を傾げる。

 その仕草がまた、可愛く見える。


 くそ。悔しい。

 なんで可愛く見えるんだ。


「じゃあ、戻りますね」

「う、うん」


 花森が離れていく。

 その後ろ姿を、また目で追ってしまう。

 気づいたら見てる。

 自分でも意味がわからない。


 でも、花森は田村さんのことが好きなんだ。


 そうだ。

 田村さんだ。私じゃない。

 田村さんのことが好きなんだ。

 話せるだけで一人で舞い上がって、馬鹿みたい。


 胸が、ズキッと痛んだ。

 この感覚、何なの。苦しい。


 ***


 夜になった。


 オフィスには、田村さんと花森と私の三人だけが残っていた。

 絶妙に気まずいメンバーが残ってしまった。


 デスクで資料作成をしながら、チラリと花森を見る。花森は田村さんの隣で、何か話している。


 甘ったるい猫撫で声で笑顔で話す花森。

 楽しそうな田村さん。


 胸が、ズキズキと疼く。痛い。

 あんなの、ずっと見てきたいつも通りの光景じゃないか。


 花森は田村さんと話すのが好きなんだ。

 田村さんのことが好きなんだ。

 私なんかじゃなくて。


 二人の会話が、聞こえてくる。

 楽しそうな声。笑い声。花森のボディタッチ。

 胸が、また痛む。ズキズキと。


 私は視線をパソコンに戻す。


 見るな。

 見ちゃダメだ。


 でもまた視線が無意識に花森に向かう。


 邪魔しちゃダメだ。

 二人の時間を、邪魔しちゃダメ。


 私は立ち上がった。


「ちょっとコンビニに買い物行ってきますね」


 田村さんと花森が顔を上げた。


「あ、じゃあわたしも」


 花森が立ち上がろうとする。


「あーいいよいいよ」


 私は努めて笑顔を作った。


「二人の分も買ってくるから」

「でも……」

「大丈夫大丈夫、仕事してて。あ、田村さん、ブラックコーヒーでいいですか?」


 花森が、一瞬だけ切なそうな顔をした。

 気がする。

 いや、絶対気のせいだ。


 どうせまた、「ラッキー」「浅海さんもたまには気が効くじゃん」とか思ってるんだろう。

 やっと田村さんと二人きりになれるって、そう思ってるんだろうな。

 それがまた、ムカつく。


「じゃ、行ってきます」


 私はそそくさとオフィスを出た。

 胸が、またズキズキ痛む。ザラザラする。


 今頃、花森は喜んでるんだろうな。

 田村さんと二人きりになれて。

 邪魔者がいなくなって。


 仕事にも集中できず、こんなことばっかり考えて馬鹿みたいだ。

 悔しい。悔しいのに、気になって考えてしまう。


 コンビニで適当に飲み物を買って、ゆっくりと寄り道をしてオフィスに帰った。

 できるだけ時間をかけて。



 二人きりの時間を、少しでも長くしてあげるために。


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