交差点の向こう
南條 綾
交差点の向こう
放課後、角で私はよく立ち止まる。
向こうから彼が自転車を押してきて、白線の手前でそっとブレーキをかける。
黒いハンドルテープが一度だけ光って、静かに消えた。
紐を直す手つきは落ち着いていて、その動きだけで胸の中が静かになる。
雨の日は、黒い傘を少し前に傾けていた。
もう片方の手で前かごの雨よけカバーの端を指でなでている。
それから自転車を半歩だけ引く。前を行く親子が傘を広げ直せる隙間ができる。
ただ場所を譲った、そのさりげない動作に、私は素敵なものを感じた。
言葉にできない感情が、心に静かに流れ込んだ。
晴れた午後、白線の上でチラシがくるりと舞い返る。
彼は片足で車輪を止め、迷わずそれを拾ってゴミ箱へ運ぶ。
紙のしわが小さく鳴り、そのままこちらに向かって歩いてくる。
私は靴紐をいじるふりをして、その場に留まった。
まるで何かを期待しているみたいだ、と心の中でつぶやく。
視線は向けないのに、彼の存在を確かめていた。
何だか自分は少し変だ、とわかっていた。それは、どんな感情なのか、よくわからなかった。
何日か見かけない日が続いた。
いつもの場所に行っても、流れていく背中は知らない人ばかりで、胸の中が少しざわつく。
会えないのかと思うと、胸の奥がチクッと刺されるような痛みを覚えた。
今日、同じ場所に彼を見つけた瞬間、心臓の鼓動が速まった。
彼はハンドルの根元に親指を軽く当て、位置を一度だけ確かめる。
そこにあるものを確かめるような、優しい触れ方。私は名前を知らないまま、心の中で彼を呼んでしまう。
呼べば気づいてもらえるかな?
そうしたら、何かが始まるのかもしれない。
始まったら—どうなるのだろう?
そう思ったら、動けなくなった。
彼は風と一緒に角の向こうへ消えていく。
私はいつもの歩幅で歩き出す。彼を見られただけで、心が温かくなった。
家に着いてノートを開く。
端に小さく「彼に……」と書いて、すぐ一本線で消した。
彼に、ってその後何を書こうとしたのだろう?
目を閉じると、手が覚えたように指の動きが浮かぶ。
消した跡が薄く残り、紙の白がやわらかく見えた。
たぶん明日も、同じ場所で立ち止まる。
見ないふりをしながら、視界の端に彼を置いて帰る。
まだ名前がわからない感情を、大切に。今の私は、それで十分だと思う。
交差点の向こう 南條 綾 @Aya_Nanjo
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