03 おっさん超人になる
それから一カ月。
結局バッタもどきの話は誰にもしなかった。
実はその後もバッタもどきは毎日現れ続け、スマホで動画も撮るには撮った。しかしそれを誰かに見せる気にはならなかった。
色々と悩んだのだが、正直に言えば、少しだけのいたずら心というか射幸心というか、そういうものが俺の中で先立ったのだ。
なにしろ人生で初めての『自分だけ』の希少な経験である。しかも健康アップや身体能力アップというラッキー現象のおまけつきだ。少しだけ独占したいという気持ちが起こっても誰に文句を言われる筋合いもないだろう。
もちろんあのバッタもどきによって誰かに被害が出た、なんてことになったら後悔するかもしれないが、どうもあのバッタもどき、人間があの林の近くに行かないと出てこないようなのだ。
しかも一回出現するとまる一日は出てこないらしい。そこで俺は毎日早朝に林に行ってひと狩りして、その後普通にリモートワークをこなすという日課を作った。
ネットにバッタもどきの話は依然として出ていない。人が襲われたなんてニュースはしばらく前から盛んにされているが、それは熊とかイノシシなど野生動物の話である。
そして今日はちょうど一カ月目になる金曜日。
仕事が終わり夕飯を食った後、俺はジャージに着替え荷物を持って外に出た。夜は田舎ということもあり、出歩いている人間はおろか車さえ音が遠くの幹線道路から聞こえる程度である。
俺は準備運動をして、いきなりトップスピードで家の前の道を走り始める。
多分時速70~80キロは出てるだろう。靴がすぐにダメになるので裸足である。
夜中に裸足で走る中年男、完全に事案であるが、やっていることはただのランニングなのでセーフのはずだ。
5キロほど走ると大きな川がある。その土手の上にあるサイクリングロードを隣町まで走る。往復で40キロくらいあるはずだが、一時間もかからない。
その後河原に下りて、バッグからバールを五本束ねたものを取りだす。重さは10キロを超えているが、俺はそれを持って素振りを始める。風きり音が凄まじいが、いつものことなので気にせずトレーニングを続ける。1分で100回が目標だが、そろそろそこまで行きそうだ。
その後もトレーニング用バールを2時間ほど振り回して、今日の鍛錬を終了する。全身汗だくで、心地よい疲労感が全身を支配している。
バールをバッグにしまって家路につく。見つかったら職質どころの騒ぎではないのだが、周囲100メートルくらいの範囲なら大きめの生き物の存在はほとんど感知できるので問題ない。
「しかし完全に人間やめたな」
走りながらそんな言葉が漏れる。
そう、一カ月毎日出現するバッタもどきを倒し続けた結果、俺の身体能力は異常に高まってしまった。筋力も体力も瞬発力も視力も反射神経も、もはやマンガやアニメの超人クラスである。身体能力に付随して体そのものも物理的に頑丈になった。裸足で走ってもまったく足裏が痛くないのはそのおかげである。ちなみに治癒力も半端ではない。一度走っていてガードレールのささくれでふとももをざっくり切ったのだが、一瞬の痛みのあと、その傷口がみるみるふさがっていったのである。なお今ではその程度では皮膚は裂けない。
「まさか自分がスーパーマンになるとはなあ」
という感慨はもはや何度目かわからないが、しかしスーパーマンになったからといって、別段俺自身の生活が変わることはなかった。
これだけ社会システムが進んだ現代において、人より多少運動できます程度の人間ができることなどない。やれるとしたらせいぜいスポーツ界や格闘界で活躍するくらいのものだろうが、そんな風に目立つつもりはさらさらないし、ラッキーで身についた力を誇示するほど子どもでもない。
「要は自己満足なんだよな。まあ自分自身が玩具になったと思えばいいか。っと、これは……?」
家まであと少しというところで急に『気配』が感じられた。道の真ん中だ。このまま走っていればすぐにぶつかってしまう。
俺はスピードを緩め、目を凝らして前方を見つめた。ちなみに暗視能力も飛躍的に上がっている。
「……犬? いやイノシシか……?」
近づいてみると、それは四足歩行の動物であった。大きさはセントバーナードとかの大型犬くらいある。飼い犬だとしてもあんなのにうろつかれたらたまったものではない。
さらに近づく。どうやら犬ではない。見た目ネコ科に見える。
……いやあの大きさのネコ科はまずくないか?
俺は急停止して、背中の袋から五本組バールを取りだした。構えながらゆっくりと歩いていく。
向こうもこちらに気付いたようだ。そいつは目を赤く光らせたかと思うと、シャオッ! と一声鳴いてダッシュしてきた。
口元からのぞくのは包丁ほどもある牙。いやサーベルタイガーなんてはるか昔に絶滅したはずでは!?
そいつは目前で一瞬身を沈め、下から俺の喉元を狙って跳んできた。俺はバールをバットみたいにスイングした。毎日素振りをしていたはずなのだが、その練習はあまり活きていなかった。
ギャバッ!?
それでもそいつは一撃を受け、首をあらぬ方向に曲げて吹き飛んだ。間違いなく即死だろう。その証拠に光の粒子になって消え始めている。
「……って、消えるってことはこいつはバッタもどきの仲間なのか? ということはモンスターってことになるが……」
と言ってみて、これはかなりマズいことなのだと気づく。
バッタもどきに比べても、さっきの奴は明らかに危険だった。普通の人間が狙われたらほぼ100%食い殺されるだろう。なにしろあの赤く輝く目は明確な殺意に満ちていた。
「しかしだからってどうやって警察とかに説明するんだ。サーベルタイガーみたいな奴がいきなり襲ってきましたなんて、そんなこと言えないぞ」
俺は頭を抱えながら、再び足を家へと向けるのだった。
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