Tくん

斉田颯太

どうか忘れないで

 小学生の頃、Tという友達がいた。


 彼といつ、どのように仲良くなったのかは覚えていない。気付いた時には、いつも一緒にいるくらいの間柄になっていた。当時の僕は内気で、人と話すことがとても苦手だった。しかしどういうわけか、Tとだけは自然に話すことができた。心が通じ合っていたのか、あるいは僕たちはどこか惹かれ合う部分があったのかもしれない。


 Tは時折、まるで僕の心を読んだかのように話すことがあった。僕が言葉に詰まっていると、彼は僕の言いたかったことを代弁してくれた。まるで僕の頭を覗き込み、脳の奥底にしまい込んであった言葉を探し当ててくれるかのようだった。僕はその度に彼を尊敬した。僕もTのように頭の良い人間になりたい、と強く憧れていたのを覚えている。


 Tは絵を描くのが上手かった。静物画というのだろうか、物をスケッチさせたら、学校でTの右に出る者はいなかった。彼は中でも車を描くのが大の得意で、美術コンクールに車の絵を描いて出したことがあるほどだ。なお、その時の美術コンクールのテーマは「環境保護」だったため、その絵は先生に突き返されたという。


 Tの家へ遊びに行ったことがある。彼の自室は、当時僕の住んでいたマンションの一室よりも広かったように思える。そんな広い部屋には、所狭しとスケッチブックの山が積んであった。そしてそれら全てに、往年のクラシックカーから最新のフォーミュラカーまで、多種多様な車の鉛筆画が描かれていた。それも、恐ろしいほどの精密さで。凄まじい執念で刻まれた、ワイヤーホイールの一本一本。むせかえるほど臭い立つような、マフラーの金属光沢。目をこらしてようやく見える、タコメーターの目盛。写真をモノクロ印刷しても、あれほどのリアリティは出せなかっただろう。僕は、それらすべてに圧倒された。無理もないことだ。自分と同年齢の友人が、大人どころか機械をも超えるほどの絵を描いていたのだから。スケッチブックをめくる手が止まらない。もっと、もっとすごい絵を見たい。その一心で、僕はTが隣にいることも忘れ、ページをめくり続けた。

 何冊か、あるいは何十冊かのスケッチブックを見終えた僕は、自分が部屋に一人きりであることに気付いた。窓からは西日が差している。どうやらもう帰る時間らしい。Tはいない。トイレにでも行ったのだろうか。スケッチブックの見すぎで凝り固まった首を回していると、部屋の端にある何かに目が留まった。それは、イーゼルに掛かったキャンバスだった。スケッチブックでなく、キャンバス。図工の授業でも見ないようなそれに、僕は心を躍らせた。きっと何か凄まじいものが描いてあるに違いない。僕は立ち上がり、それを覗き込んだ。

 キャンバスには、ワゴン車のスケッチが描かれていた。ただ、その絵は他のものと決定的に違った。ボンネットが大きくへこんでいたのだ。まるで何かに激しくぶつかったかのように。Tは修理中の車でも見たのだろうか。それとも、壊れた車にも独特の魅力を感じているのか。

 不思議に思っていると、Tが部屋に戻ってきた。熱中している僕に気を遣って、しばらく一人にしてくれたようだ。僕がキャンバスの絵について聞こうとする前に、Tは言った。

「それはまだ途中なんだ。いつか完成したら、君に一番に見せるよ」


 詳しいことは完成したら聞こうと思い、その日は帰った。


 それから数週間ほど。残暑もすっかり落ち着き、肌寒い秋が本格的に到来しつつある日のことだった。いつものようにTと下校し、他愛のない話をした後、いつものように交差点で彼と別れようとした時、Tが僕のジャンパーの袖を掴んで言った。

「少し話したいことがあるんだ」

 僕はTに連れられるまま、通学路を外れた学区外の公園に足を踏み入れた。そこは小さな丘や樹木がある自然公園で、夏場は昆虫採集の穴場として有名な所だった。その日は寒かったこともあり、人影はなかった。僕は少し不安だった。下校中に寄り道をしたという背徳感もあったが、Tが僕に何かを隠しているような気がしてならなかった。

 Tは人目に付かない木陰に僕を連れ込むと、ジャンパーの袖から手を離した。樹木にもたれかかるようにしながら、僕はTを見た。彼は落ち着かない様子だった。白いパーカーのポケットに手を突っ込んでは出し、何かを言おうとしては口を閉じ、目は泳いでいた。

 やがて、決心したように深く深呼吸をすると、Tは言った。


「実は、ちょっとした都合でここを離れることになったんだ」

 彼は続けて言った。

「だから、最後に後悔したくなくて」


 そう口にすると、Tは僕に歩み寄った。

その時、僕は初めて彼の眼をしっかり見た気がする。その眼は僕のものと違って青く、少し緑が混じったような瞳をしていた。


 彼は吐息がかかるほどの距離にまで近づくと、僕を引き寄せ、そっと口づけした。


 不思議と、そんな気がしていた。彼が僕を好いていたのも、なんとなく感じ取っていた。彼はいつも僕との距離が近かった。僕の顔を覗き込むと、彼はいつも口元をほころばせた。手をつなぐ時、彼はいつもそのしなやかな手で僕と指を絡めた。そんなことばかりだった。


 長い一瞬の後、彼は僕の口から離れた。彼と僕の口の間に、二人の唾液が名残惜しそうに糸を引いた。呆然としている僕に対して、彼は言った。


「君は僕のすべてだ」


 その日は、家に帰ってからも高揚が治まらなかった。僕も彼のことを慕っていたが、それは恋愛感情だったのか、もはや自信がなかった。単なる友情や尊敬では片付けきれなかった。僕は熱に浮かされたように、いつものように風呂に入り、家族と夕食をとっていた。両親はぼんやりしている僕を見て、風邪を引いたのかと心配していた。

 電話が鳴った。僕は、それがTの家からではないかと思った。Tの親に僕たちの関係がばれて、怒られるのではないかと思った。ちょうどそばにいた母が受話器を取った。最初はよそゆきで高かった母の声が次第に低く小さく、明るかった顔も沈んでいった。受話器を置いた母は、呟くように僕に言った。


「Tくんが事故で亡くなった」


 通夜を終えた日の夕方、僕はTの家にお呼ばれした。Tの母は、前に来た時よりも10歳ほど老け込んだように思えた。Tの母は涙を拭き終えると、僕に渡すものがあると言った。それは、Tが亡くなる数日前から僕に渡したがっていたもののようだった。内容はTの母も知らないようだが、丁寧にラッピングされたそれが、Tの自室に置いてあったとのことだ。梱包には「Forget me not」と、Tの整った字で書いてあった。

 キャンバスほどの大きさのそれを、僕は受け取った。


 僕は家に帰ると、受け取ったそれを開けた。やはりそれはキャンバスだった。丁寧に額に入れられたそれは、いつか僕が彼の自室で見た、ワゴン車の絵だった。

 その絵は完成していた。しっかりと彩色されたその絵には、ボンネットが大きくへこんだワゴン車と、倒れている少年が描かれていた。白いパーカーには引きずったような痕がついており、少年は頭から血を流し、アスファルトには鮮やかな血だまりが広がっている。


 それから、もう30年になる。

 あの絵はもらってすぐお返ししたが、それから数年後に火事でTの家ごと燃えてしまったらしい。


 だが、結婚して家庭を持った今でも、彼の青い瞳は脳裏に深く刻まれている。


 僕は彼のすべてだからだ。

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Tくん 斉田颯太 @Gorochi

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