睡眠導入の謎

「……お疲れ様でーす」


 眠い目を擦りながら部室の扉を開けると、そこには既に皆川有栖みながわありす先輩の姿があった。

 そしてその傍らには——


「うぉっ!? ……なんで鉄の処女アイアンメイデンがあるんですか!?」


 教室の隅に、やけに存在感のある棺型の拷問器具が鎮座していた。


「お疲れ、辻村君。どうしたのかしら?」

「いや、どうしたはこっちのセリフですよ!?」

「ああ、これ?私の私物だから気にしないで」

「気にしない方が無理ですけど!?」


 先輩は平然と紙パックの紅茶を飲み干している。僕の狼狽などお構いなしなのだろう。


「それより、ずいぶん眠そうね」

「ええ……実は、あの後イヤーワームが再発しまして」

「まあ」

「寝よう寝ようとするほど頭の中で例の曲が鳴り止まなくて……気づいたら朝でしたよ。……ふぁ~」

「あら、それはお気の毒。じゃあ今日は、“鉄の処女の歴史”から“睡眠導入法”にテーマを変更しましょうか」

鉄の処女アイアンメイデンって日常の謎カテゴリに入るんですか?」


 皆川先輩は傍らの鉄の処女を掃除用具入れに押し込み、黒板の前に立った。……入るんだ、あれ。


「そもそも睡眠のメカニズムとはどういうものか。それを軽く押さえておきましょう」


 眼鏡をクイッと上げ、先輩のスイッチが入る。


「人間の脳にはね、睡眠を促すためのスイッチがあるの。“視床下部ししょうかぶ”という場所よ。聞いたことある?」

「北海道の地名とかだと思ってました」

「確かに、読み方わからない漢字は大体地名だけれども……」


 珍しくツッコミをすると、彼女はチョークで黒板に脳の図を描き始めた。


「この視床下部。日が沈むと“メラトニン”というホルモンを放出するの。それはもう、これでもかってくらいにね。

 あなたにもあるでしょう? 急に眠気が来てスマホを顔に落としたり、テレビをつけっぱなしにしてしまうことが。それは大体メラトニンのせいなの」

「なるほど。つまりメラトニンをいっぱい出せば眠くなるわけですね」

「理論上はね」


 彼女は人差し指を立て、ふるふると首を振る。


「でもこのメラトニン、日光をしっかり浴びて、規則正しい食生活をしていれば自然に作られるものなの。辻村君、そこのところ大丈夫?」

「まあ、人並みには健康的な生活をしてると思います」

「ふむ……だとすると問題は別ね」


 先輩は顎に手を当て、何かを思案するような顔になる。


「せっかく睡眠のスイッチが入っても、外的要因によって上書きされることがあるの。スマホの光とか、騒音とか……。辻村君の場合は“イヤーワーム”がそれね」

「じゃあ、結局どうしようもないってことですか?」

「心配ご無用!」


 教卓から身を乗り出し、彼女は拳を握った。


「上書きされたなら、さらに上書きすればいいのよ!」

「いや、なんか悪循環な気がするんですけど……」


 不安げな僕に、皆川先輩は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「貴方、“認知シャッフル睡眠法”って知ってる?」

「いえ、まったく」

「ふふん。じゃあ説明してあげる」


 黒板に大きく"認知シャッフル睡眠法"と書くと、先輩はその文字を指差す。


「これはね、頭の中で“無関係なイメージ”を次々と思い浮かべて、脳を眠りに導く方法なの。思考をシャッフルさせて、自然とリラックス状態に持っていくのが狙い。……わかるかしら?」

「はぁ……なんか難しそうですね」

「やり方は単純よ。まず一文字、適当な文字を思い浮かべる。そして、その文字から始まる単語をどんどん想像していくの。例えば、“ぱ”なら——」


 皆川先輩は指を折りながら列挙した。


「『パン』『パスタ』『パエリア』『排骨パイコー麺』『パルミジャーノ・レッジャーノ』」

「お腹すいてるんですか?」

「ほら、私。成長期だから」


 堂々たる顔で言い切るその姿勢に、逆に感服する。


「で、幾らかしたら別の頭文字で単語を想像する。それを何回か繰り返すと脳が落ち着いて眠気が出てくるのよ。簡単でしょ?」

「理屈はわかりましたけど、やっぱり難しそうです」


 僕の言葉に、彼女は待っていましたかのような笑みを浮かべる。


「その言葉、待っていたわ」


 本当に言った。

 先輩は自分の席に戻り、スマートフォンを取り出す。


「実はね、この中にランダムな単語を読み上げた音声を録音してあるの。後でデータ送ってあげる」

「え、なんでそんなもの録ってるんですか?」

「以前、“睡眠薬を使わずに被害者を眠らせるトリック”に使えないか試してみたの」

「結果は?」

「駄目。自分の声だと身構えちゃって眠れなかったの」

「……もしかして、また僕で実験しようとしてます?」

「まあまあ。試してみる価値はあるわ。じゃあ、これ——」


 そう言われ、僕は有無を言わさず音声データを受け取ったのだった。

 その夜。

 布団の中でイヤホンを耳に差し、僕は音声データを再生した。


『りんご……りす……理科室……リコーダー……』

(……いや、無理だろこれ)


 同年代の女子、それも美少女の声が一晩中、耳元で単語を囁いてくる。

 ただただ、興奮した。

 それはもう、ギンギンだった。

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