秋の灯

朧月アーク

秋の灯(ともしび)

 風の匂いが変わった、と葉月は思った。


 季節がゆっくりと体の奥に忍び込む。朝、窓を開けると空の色が少し淡くなり、遠くで聞こえる鳥の声が、どこか寂しげに響く。


 アスファルトを渡る風の中に、焼けた木の香りが混ざっていた。きっとどこかの庭で、誰かが落ち葉を燃やしているのだろう。その匂いは懐かしく、胸の奥をくすぐるようだった。


 街全体が、まるで深呼吸をしているように静かだった。


 夏の余韻をほんの少しだけ残したまま、風は軽やかに角を曲がり、街路樹の枝を鳴らしていく。


 夕暮れは急ぎ足でやってきて、空の青はあっという間に琥珀色へと溶けていく。


 その移り変わりを見ていると、葉月はなぜか心の奥で小さく疼くものを感じた。


 ――過ぎていくものは、どうしてこんなにも美しいのだろう、と。


 秋の光は、夏よりもやわらかい。でも、その優しさの中に、どうしようもない寂しさが潜んでいる。その寂しさが、葉月には愛おしかった。


 ***


 休日の朝、葉月は古本屋の近くの広場に立っていた。


 木々の陰が少し長く伸びる時間帯。人通りはまだまばらで、街の音が少しだけ遠くに聞こえる。


 指先が冷える。マフラーを巻こうか迷うが、まだ早い気もして、ポケットの中で手を握り直した。


 雲ひとつない空が、澄みきった青を見せている。空気は澄んでいて、呼吸をするたび胸の奥がすうっと冷たくなる。


 「お待たせしました」


 振り向いた瞬間、風が頬をかすめた。そこに立っていたのは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた凪澤だった。


 彼の頬は、秋の冷気のせいで少し赤く染まっている。彼の笑顔を見るたび、葉月の中で何かが静かにほどけていく。不思議と安心する。どんな季節の風にも、この人だけは揺らがないように思えた。


 「行きましょうか」


 凪澤の言葉は、いつもと同じように丁寧で、どこかあたたかい響きを持っている。


 「うん」


 頷いた瞬間、足元の落ち葉がかさりと鳴った。


 ふたりは並んで歩き出す。駅から少し離れた場所にある公園へ向かう道は、並木が両側を囲っていた。


 木々はすでに色づき始め、赤、橙、金――それぞれが微妙な光の加減で異なる表情を見せていた。


 風が吹くたびに、枝から離れた葉がゆっくりと舞い落ちていく。


 ひとひら、またひとひら。

 まるで時間そのものが静かに降り積もっていくようだった。


 「こんなに赤くなるんですね」


 凪澤が見上げながら言う。その声には、感嘆よりもどこか哀しみに似た響きがあった。


 「夏の間、光をいっぱい溜めたから……かな?」

 「その考え方、好きです」


 彼の言葉に、葉月は少し照れくさくなって笑う。


 ふたりの声が、落ち葉の上でやわらかく重なり合う。小さな会話が、秋の空気に吸い込まれていった。


 公園に着くと、静寂が一層深まった。池の水面は凪いでいて、紅葉がそのまま映り込んでいる。


 時折、風に散らされた葉が水面を滑っていく。そのたびに光がきらめいて、波紋が小さく広がった。


 ふたりは並んでベンチに腰を下ろした。陽射しが木の枝の間からこぼれ、葉月の頬を撫でる。


 持ってきた小さな水筒から紅茶を注ぐと、白い湯気がふわりと立ち上る。


 「どうぞ」


 コップを差し出すと、凪澤は静かに受け取った。


 「ありがとうございます。手まで温まりますね」

 「早く飲まないと、冷めちゃうよ」

 「……冷める前に、こうしていれば十分かもしれません」


 そう言って、凪澤はそっと葉月の手を包んだ。その指先は少し冷たかったけれど、てのひらの奥には確かな熱があった。


 驚くよりも先に、葉月の胸の奥がじんと温かくなる。彼の指が少し震えているのを感じて、逆に自分の鼓動が早まった。


 夏の日に見せた無邪気な笑顔とは違う。今の彼の笑みは、どこか柔らかくて、深くて、言葉にしづらい優しさを湛えていた。


 ふたりの間を沈黙が流れる。けれどそれは気まずさではなく、心地よい静寂だった。


 風が枝を揺らすたび、ひらひらと葉が舞い落ち、陽の光がその度ごとに揺れた。


 子どもたちの笑い声、遠くの犬の鳴き声、ベンチの影を横切る影。


 そのすべてが、秋という季節を音もなく描いていた。


 「ねえ、凪澤さん」

 「はい」

 「春に会ったとき、あなた、すごく遠くにいる人みたいだった」

 「そうでしたか」

 「うん。でも、今は違う。……ちゃんと、隣にいるって思えるの」


 凪澤は少しだけ笑って、視線を木々に向けた。


 「僕も、あなたに出会ってから、季節の感じ方が変わりました」

 「季節の?」

 「ええ。ひとりで見ていたときより、すべてがやさしく見える。……たぶん、僕に対しての光の当たり方が変わったんです」


 葉月はその言葉を胸の奥で転がした。


 光の当たり方――それは、恋という名の光なのかもしれない。彼の目に映る景色の中に、自分が少しでもいるなら、それだけで十分だと思えた。


 照れ隠しのように、マフラーを引き上げる。


 「そんなにまっすぐ言われたら……秋風でも顔が熱いよ」

 「では、風のせいにしておきましょう」


 ふたりは小さく笑い合った。


 木々が揺れ、赤い葉が葉月の肩に落ちた。凪澤はそれを指で摘み取り、葉月の髪にそっと留める。


 「似合います」

 「……また、そうやって言うんだから」

 「本当のことです」


 その声は、秋の陽射しのようにやさしくて、触れるたびに胸の奥で何かがほどけていく。


 やがて風が冷たくなり始めた。

 葉月がマフラーの端を凪澤の首元にかける。


 「風邪ひいたら困るから」

 「では、お揃いですね」

 「……そうだね」


 ふたりのマフラーの端が、同じ風に揺れた。その布のぬくもりが、まるでふたりをひとつに結ぶ糸のように感じられた。


 陽はゆっくりと傾き、夕暮れが迫る。街灯が一つ、また一つと灯り始め、長い影が地面を伸びていく。その中を、ふたりは並んで歩いた。影が重なって、まるでひとつの形になる。


 「この灯り、春の頃よりやさしく見えますね」


 凪澤が言った。葉月は少し考えてから、微笑む。


 「うん。きっと、あなたと歩いてるから」


 その一言に、凪澤の頬が静かに赤く染まる。彼は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ歩幅を緩めて、葉月の手を取った。その手は、まだ少し冷たい。けれど、繋いだ瞬間に、心の奥が不思議と温まっていく。


 風が落ち葉を巻き上げ、二人の足元で舞う。街灯の光が、橙色に揺れながらふたりの姿を包み込む。


 凪澤はそっと葉月の肩を抱き寄せた。


 静かに、空を見上げる。

 夜のはじまりの匂いがした。

 空には、ひとつ星が瞬きはじめていた。


 ふたりはその光を見つめたまま、歩き続ける。時間はゆっくりと流れ、やがて街の灯りが遠ざかっていく。


 葉月は心の中で思った。


 ――このぬくもりを、冬になっても忘れたくない。


 春の檻を抜け、夏の微睡を越え、ようやくたどり着いたこの季節の静けさを。そして、隣を歩くこの人の温度を。


 夜風がまた吹いた。それでも、もう寒くはなかった。


 秋の灯は、静かにともり続ける。手のぬくもりが、これからの季節を照らすように。





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前々作『春の檻』(2300字)

https://kakuyomu.jp/works/16818622173793359641/episodes/16818622173794012439


前作『夏の微睡』(5000字)

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