クローゼット・リユース~CLOSET RE:USE~

葉月美緒

クローゼット・リユース 前編

 十月の終わり。

 会社の帰り道は、ハロウィンが近づいている事もあって、どこもかしこもオレンジ色に染まっていた。


 パンプキンの提灯、魔女の帽子、ガラス越しに流れるジャズ調の「Trick or Treat~」

 ハロウィンって、子どものころはただの外国の行事だと思っていたけど、今ではすっかり、街の一部になっている。


「今年こそは仮装して参加しようね!」

 

 ――と、職場の同期に言われていたのを思い出す。

 パーティ用の衣装なんて持っていないし、正直そんなに乗り気でもなかったけれど、誘ってくれた同僚の顔が浮かんで、なんとなく断れなかった。


 「どうしよう……どこかのお店で衣装見繕うしかないかな」


 そんなことを考えながらの帰り道、ふと足を止める。


 路地裏の角に、見覚えのない小さな古着屋があった。

 ガラスのドアの向こうは少し薄暗く、入り口のドアには手書きのポスター。


 『🎃ハロウィン・コスチューム リユースセール開催中! USEDでもキレイです🎃』

 

 ガラス越しに、ドレスや魔女の帽子、ヴァンパイアマント。


 まさにハロウィン用の衣装だった。

 

(あ! いいかも……)


 ちょっと覗くだけ、のつもりだった。

 ベルが鳴ると、古い木の香りと甘い香水のにおいが混ざった空気が、ふわっと鼻をくすぐる。


 店内には数人のお客さんがいて、みんな様々な衣装を手に取り鏡の前で合わせている。

 

 加奈子は店内をゆっくりと見て回る。

 奥のラックに掛かっていた黒いドレスが、やけに目を引いた。


 膝丈で、ウエストに細い深紅なリボン。

 胸元には金色の刺繍。

 生地は少し古びているのに、どこか“人を選ぶような”存在感がある。


「ハロウィンにぴったりかも」


 ドレスを手に取ると、布の感触は柔らかく、手入れも行き届いていた。

 

 ただ、ウエストのリボンに、ほんのわずかな染みがある。

 黒い生地に沈んで、よく見なければ気づかないほど。

 

「中古だから仕方ない」と思い、値札を見た。


 ――2,000円。


 安い。けれど、その安さがほんの少し気になった。

 それでも、時間も遅いし、これでいいかと加奈子は決めた。

 

 レジに向かうと、店員の女性がにこやかに袋を手に取った。

 

「こちら、今朝入荷したばかりなんです。もちろん、検品もクリーニングも済んでますのでご安心ください」


「へえ、そうなんですね」


「黒いドレスって、ハロウィンの時期は人気なんですよ」

 

 そう言って、店員は穏やかに微笑んだ。


 紙袋を受け取った瞬間、ふわりと甘く、それでいて少しスパイシーな香りが鼻をくすぐった。

 

 香水だろうか。

 それは心地よいようで、少し“ぞわ”っとするような匂い。


 加奈子は思わず紙袋の中をのぞきこむ。

 もちろん、中にはドレスしか入っていない。


(気のせいか……)


 加奈子は、店員に見送られながら店を後にした。


 外の風にあたると、さっきの香りはもう消えていたが、なぜか指先だけが、ほんのり冷たいままだった。



 * * *


 部屋に戻ると、鍵を閉め、靴を脱ぎ、テーブルに紙袋を置く。夜はもう遅く、明日は仕事だ。だが、どこか心が落ち着かない。


 照明を落とし、テーブルの上で紙袋を開けると、黒いドレスが大きくふわりと顔をのぞかせた。

 

 金の刺繍は月のように淡く光り、深紅のリボンが静かに揺れる。そのリボンの端に、確かに小さな染みが見える――乾いた暗い色。だが、古着だし、と自分に言い聞かせる。


 鏡の前に立ち、ドレスを手に取って体に通す。思ったよりも体に馴染み、ウエストのリボンが自然に形を作る。鏡の中の自分は少しだけ普段と違って見えた。光のせいか、あるいはドレスのせいか。


 ふと鏡の端で、黒い影がほんの一瞬だけ揺れたような気がした。


「え? なに」


 加奈子は一瞬振り返るが、部屋には何もない。風のせいかもしれない、と笑ってみるが、胸の奥はざわついた。


「なーんか疲れてるのかも」


 言うと、ドレスをハンガーに掛けクローゼットの前に吊るし、シャワーを浴びるとたちまち深い眠りについた――


 ……冷たい。

 どこかで、水の滴る音がしている。


 目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。

 

 壁紙は剥がれ、床はぬるりと濡れている。

 足音が響くたび、ぬちゃり、と何かを踏みしめる音。

 

 女の視界はぼやけ、息が浅い。

 胸のあたりがじくじくと痛む。

 誰かに――刺されたのだと気づく。

 床に手をついた指先が、血で濡れていた。


 部屋の隅に、影がひとつ。

 細い笑い声が、耳の奥でくすぶるように広がる。


「……おまえが別れたいなんて……言うから」


 声が遠のく。

 彼女の身体は冷たく、指先の感覚も消えていく。

 

 ――もう、だめ。

 

 意識が闇に沈む、その瞬間。


 視界の端で、何かが光った。

 銀色の腕時計。血に濡れた手首に巻かれ、秒針がカチ、カチ、と動いている。

 

 そのすぐ隣で、ナイフが転がった。

 

 刃先から赤黒い雫がぽたりと落ち、木の床を染めていく。


 カチ、カチ、カチ――

 

 秒針の音だけが、やけに鮮明に響いていた。


「やめて……いや……!」


 加奈子は悲鳴を上げ、がばっと身を起こした。

 

 息が荒く、汗が頬を伝う。

 

 寝室の時計を見ると、秒針が同じリズムで刻まれていた。

 まるで――いま見た夢の中の音と、重なっているかのように。


 * * *


 加奈子は重く閉じたまぶたをゆっくりと開けた。

 朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋の壁をオレンジ色に染めている。


 胸の奥にはまだ、昨夜の夢の余韻が残っていた。

 深紅のりぼん、そして彼女の必死の声――。


 意識がはっきりしてくるにつれ、夢だったのだとわかるのに、指先がほんのり冷たいままだった。


 ベッドの横、クローゼットの前に吊るしたままのドレスが視界に入る。

 あの夢は、いったい何だったのだろう。


 加奈子は深呼吸をひとつして、布団の上で体を伸ばした。

 昨夜の夢の記憶はまだ鮮明で、胸の奥にざわつくものが残っていた。指先のひんやり感も、まだ消えていない。


 洗面所で顔を洗い、鏡をのぞき込む。いつもの自分。だけど、どこか背筋がぞくりとする。夢の中の女、深紅のリボン――それらが頭の隅にちらつき、加奈子は思わず息をのみそうになる。


「夢……だったんだよね?」


 声に出してみるが、返事はない。ただ、窓から差し込む朝の光が部屋を柔らかく照らしているだけだった。


 朝食を済ませ、仕事へ向かう。道すがら、街は昨日の夜と同じようにハロウィンの装飾で賑わっている。

 

 通り過ぎる人々の笑い声や、商店のディスプレイは楽しげで、加奈子もつい笑みを返す。

 だが、どこか落ち着かない。心の奥で、昨夜の夢の影がぴたりと張り付いているようだった。


 昼間の仕事はいつも通りのはずだった。

 パソコンの画面を見つめ、メールを打ち、電話を取り、書類を整理する。

 

 ――そのはずなのに、今日は指先がどこか自分のものじゃないように感じた。


 画面に打ち込んだはずの文章の末尾で、突然カーソルが動いた。

 加奈子は思わず手を止める。誰も触っていないのに、文字が一文字ずつ現れていく。

 

 ――画面上に浮かびかけたのは、見覚えのない女の名前だった。


「……え?」


 加奈子の指はキーボードの上で固まったまま動かない。

 ぞくり、と背中を冷たいものが這い上がる。


「……寝不足かな」

 

 小さく笑ってごまかし、書類を重ねた――


 仕事を終えて外に出ると、夕方の風が肌を撫でた。

 街はハロウィンの飾りで賑わっていて、カボチャのオブジェや仮装の子どもたちが目に入る。

 

 あの夢の影を振り払うように、加奈子は足早に歩きながら、いつも立ち寄るコンビニを通りすぎようとして立ち止まる。


「そうだ。いつものカフェオレ買っていこ」


 そう思うと、コンビニの自動ドアへと足を踏み入れた。

 

 コーヒーの棚の前で、いつも通りカフェオレを取ろうとした――はずだった。

 だが、手が伸びたのはブラックだった。


 あれ、と思いながらも、何となくそのままレジへ向かったとき、ガラスに自分の姿が映る。


 けれど、その顔が一瞬だけ知らない誰か――どこかで見たような気がする。

 黒いドレス、あの真っ赤なリボン。

 そのイメージが、脳裏を焼く。


 瞬きをすると、もうそこにはいつもの自分がいた。

 でも、心臓の鼓動がどくどくと早い。


「あ~、ビックリした。やっぱり疲れてるんだな」


 加奈子はブラックコーヒーをバッグにしまうと、そのままアパートへと戻っていった。


 夕食を済ませ、加奈子はソファに沈んでスマホを手に取った。


 さっき買ったブラックコーヒーを一口含むと、舌の奥に苦みが広がった。

 

 ――いつもなら、こんなに苦いのは無理なのに。


 顔をしかめるはずの舌先が、今日はなぜか平気で受け入れている。

 

 加奈子は思わず眉をひそめる。


「……あれ? わたし、いつもはこんなの飲まないよね?」


 小さな違和感が胸の奥をくすぐる。

 

 何かが、自分の中で少しずついつもと違う方向へ動き始めている――そんな気配。


 加奈子はしばらくブラックコーヒーを見つめ、呼吸を整えてからスマホを手に取る。


 いつものように友人のメッセージを追おうとするが、手に力が入らずスマホの操作が少しぎこちなく感じられる。


 スマホを持つ手を眺める。


 ピコン!


 スマホの表示バーに、赤い見出しが目に飛び込んだ。


 《若い女性、刺殺 市内マンションで遺体発見──犯人は逃走中、交際トラブルの線も》


 内容を見ると、発見された部屋は血の海で、すざましい現場だったと書かれている。

 

 それ以上の詳細はわかっていないが、現場となった住所は加奈子のアパートより一つ先の駅だった。


 記事の端に載った小さなモノクロ写真――そこに写っていたのは、あの夢の中で見た黒いドレスの女に似ていた。

 

 胸の奥がざわつく。まるで、自分の中の何かがその女の名を知っているかのように。


 加奈子の胸が、ぎゅっと締め付けられる。


「この人……まさか……違うよね」


 首を横に疑念を振り払い、その場から立ち上がると、戸締りの確認をしそのままシャワー室へと向かった。


 時計の針が夜を指すころ、加奈子はため息をつき、ベッドへと足を向ける。

 カーテンを閉め、室内の明かりを消す。視線を横に向けると黒いドレスが目に入った。

 スカートの部分をそっと指で触れると、布の柔らかさと少しだけ残るひんやり感に、彼女は顔をしかめた。


(……また、夢を見るのかな……)


 布団に潜り込み、目を閉じる。心臓が少し早く打ち、呼吸が浅くなる。


 どこからか、かすかな香水の香りが鼻をくすぐる。


 どこかで嗅いだことがあるような、しかしはっきりとは思い出せない匂い。


 加奈子の意識はゆっくりと闇に沈み、再びあの夢の世界が形を取り始めた。


 夢の輪郭が立ち上がると、今度は視点が近く、その視点は加奈子自身の視点として映り、女の体に貼りつきさらに体の奥から徐々に支配されるような感覚が伴う。


 薄暗い室内、ざらつく床材の感触、胸のすぐ下で深紅のリボンが震えている。女は息を弾ませ、手を伸ばしかけては押さえつけられる。だが今回は、首だけでは終わらなかった。


 そのとき、視界の端に小さな光が瞬いた。十字架の形をしたネックレス――誰のものか分からないが、中央の緑色の石が淡く輝き、女の恐怖を際立たせる。


 何かが、すぐそばにいる――そんな気配が背筋をぞくりと走り、闇の中、手が一瞬引き下ろされる。


 鈍い鈍器音のような衝撃とも違う、細く鋭い冷たさが腹に走る。金属の、刃物の感触。女の視界が暗転し、濁った熱さが胸のあたりで膨らむ。


 ――グサッ!


「や、やめて……! ウッ!」


 女の叫びは短くかすれた。だがその声のあと、近くで乾いた擦れる音が続く。布が、肉に触れる音。細い刃が繰り返し入るたびに、視界は小さな赤い点で滲み、世界が浅くなっていく。


 その瞬間、加奈子の体の奥に女の恐怖と絶望が押し寄せ、まるで自分の感覚が混ざり合うように熱く痛い。逃げようにも力は抜け、意識は断片となって崩れていく。

 

 視線がふと下方へ向く。ウエストに結ばれた深紅のリボン。その中心に濃く黒ずんだ染みが広がっていた。液体が布の繊維に浸透し、光を吸い込むように暗くなる。


 加奈子は、これが血だと理解する余力もなく、ただ呆然と見下ろした。胸の奥で、女の恐怖が小さな波紋のように広がっていく。


 遠くで、低い笑い声がこだました。

 温度のない、ただの音。

 そこに感情も意味もない。ただ、誰かが苦しむ様子を見て喜ぶような――冷たい笑い。


 香水の匂いが急に濃くなり、刃の冷たさと混ざり合って空気が歪む。

 視界が暗転し、最後に見えたのは、壁に揺らぐ黒い影。

 その影は、何かを楽しむように、ゆっくりと頭を傾けていた。

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