30.聖女の癒し
その報せは、朝の庭に届いた。
夜明けの雨は上がり、濡れた芝に陽が差している。
シャルローヌは剣を抜かず、アレクサンドルの動きを見ながら呼吸を整えていた。
療養明けの体を慣らすための、軽い稽古だ。
「力の加減はどうだ」
「大丈夫。剣を持たなくても、心の型は崩してないつもり」
「それなら――」
そのとき、近衛の騎士が駆け込んできた。
「殿下! 陛下が……危篤でございます!」
アレクサンドルが息を呑む。
剣の柄を握る手がかすかに震えた。
「父上が……」
すぐに踵を返す。
「行く。……シャルローヌ、頼めるか」
「もちろん」
その声は静かだったが、瞳はまっすぐに光を宿していた。
そのとき、背後から甲高い声が響いた。
「まあ! どこへ行かれるの、殿下!」
イサドラが紅いドレスを翻して立ちはだかる。
「またその“聖女”と一緒に? 今はわたくしとお茶を――」
「悪いが、それどころではない」
アレクサンドルの声は低く、鋼のようだった。
「俺の執務時間は、まだ始まっていない。だが“王子”としての務めは今この瞬間にある。これ以上、国務に干渉するな」
イサドラが息を呑む。
「わたくしは殿下の婚約者ですのよ!」
「その立場を忘れるな。王家の婚約は政であり、娯楽ではない」
冷たい声が室内を震わせる。
「な、なんですって!?」
イサドラが顔を真っ赤にして叫ぶ。
背後で控えていたリオネルがそっとため息をついた。
(……あぁ、殿下。どんどん容赦なくなっているな)
「行くぞ、リオネル」
イサドラが何かを叫んだが、アレクサンドルは振り返らなかった。
雨の残る石畳を踏みしめ、ただ王のもとへ――。
◇
王の寝所は、厚い帳と香の煙に包まれていた。
豪奢な寝台に横たわる王は、額に汗をにじませ、息も荒い。
かつて大陸一と謳われた剛毅な姿はそこになく、痩せた手がかすかに震えていた。
枕元には王妃マルゲリータが寄り添い、濡れ布で額を拭っている。
その傍らには銀髪の騎士――ラザールが直立し、片時も離れず見守っていた。
「陛下……」
王妃の声はかすかに震えていたが、毅然さを保っていた。
室内に入ったシャルローヌは、息を呑む。
(これは病じゃない。やっぱり、黒いものが絡みついてる)
目に見えぬ瘴気のようなものが、王の胸元から立ちのぼっている。
他の者には見えない。だが聖女の力を宿す彼女には、はっきりと見えた。
「お下がりください、殿下」
ラザールが一歩前に出て、アレクサンドルを制そうとする。
「陛下は安静が第一。無闇に人を近づけるべきではありません」
「聖女の癒しを試させてもらうだけだ」
アレクサンドルが声を張った。
そのとき、王妃マルゲリータが静かに頷いた。
「ならば……聖女と噂される娘に試させるのも、ひとつの手かもしれません」
その言葉に、室内の空気がざわめく。
(なぜだ? あの王妃が、こんなにもあっさりと許すとは)
アレクサンドルの胸に一瞬、迷いが走る。
(もしシャルローヌが失敗すれば、王妃はそれを口実に……)
それでも、青い瞳は迷わず彼女を見た。
(だが俺は知っている。――シャルローヌなら、必ずやり遂げる)
「俺が保証する」
アレクサンドルの声が室内を震わせた。
「彼女になら、できる」
王妃の扇がわずかに止まった。
ラザールは表情を動かさぬまま、一歩下がる。
シャルローヌは深く息を吸い、寝台へと歩み寄った。
(やるしかない)
◇
シャルローヌは王の手を取る。冷たく乾いた掌。その奥で、黒い何かが脈打っている。
「聖女の力などで、本当に癒せるのか」
廷臣の一人が低くつぶやく。半信半疑の視線が突き刺さる。
シャルローヌは王の手を握り、静かに祈った。
「どうか……どうか、この国の王をお救いください」
指輪の宝石が強い光を放つ。
黄金の輝きが奔流のようにあふれ、王の体を包み込んだ。
「おお……!」
廷臣たちがどよめく。
だが王の顔色は変わらない。黒いもやがなおも胸を締めつけている。
そのとき、青い羽ばたきが視界を遮った。
「ピルルッ!」
ビジュがシャルの目の前で羽を広げた。
周囲からは冷ややかな声が上がる。
「やはり……無理か」
「聖女の力など、この程度か」
「ただ光るだけでは……」
アレクサンドルは悔しげに唇を噛み、拳を握りしめた。
だがシャルローヌの耳には、そんな言葉は届いていなかった。
彼女は目を閉じる。思い出すのは、あの日のこと――。
まだ幼かったビジュを抱き上げ、必死に祈った。
「どうか、どうか」と繰り返し願い、溢れた涙が小さな体に落ちて……あのとき、命が戻った。
――涙。
はっとして目を開いたシャルローヌの視界に、アレクサンドルの苦しげな顔が飛び込んできた。
胸が締めつけられる。
強く両手を組み、もう一度祈る。
「どうか……どうか、この国の王を――いえ、アレックスのお父様を……お救いください!」
その瞬間、熱い涙が頬をつたって落ちた。
ぽたりと王の胸元に触れた雫が、指輪からの金の光と混ざり合い白金の輝きとなって広がる。
廷臣たちが息を呑み、誰もが目を見張る。
「っ……!」
王の体がびくりと震える。
黒いもやが、苦鳴を上げるように揺らめいた。
マルゲリータが王の肩を抱きしめ、必死に呼びかける。
「陛下! 陛下!」
王の瞳がかすかに揺れる。
「マル……ゲリータ……」
その名を呼んだ瞬間、黒いもやが一気に弾け飛んだ。
やがて王の呼吸はゆっくりと整い、頬に血の気が戻ってきた。
「陛下!」「父上!」「陛下!」みなが口々に呼ぶ。
歓声と涙があふれた。
「心配をかけたな。だが……もう大事ないぞ」
王が微笑み、上体を起こす。
「よかった……!」
シャルローヌが力尽きるように崩れ、アレクサンドルがすぐに支えた。
「シャルローヌ。よくやった。よくやった」
その場に歓声が満ちる。
だがただひとりだけ冷たく表情の抜け落ちた顔をしているものがいた。
気づいた一人が不思議そうに尋ねる。
「どうなさった?そんなこわいお顔で。貴公がもっとも喜ばれると思っておったが。ラザール卿?」
ラザールの瞳が揺らぎ――その顔が冷たく歪んだ。
王をはじめ、その場の全員が異様な気配に振り返った。
ほんの一瞬、黒い影のようなものがその輪郭をかすめたのを、誰も見逃さなかった。
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