25.仮面

 婚約式が終わった夜、城の中はまだざわついていた。

 リリオス王国との宴、酒と花の香り、華やかな会話。

 

 そのどれもがアレクサンドルにはやけに遠く感じられていた。


 夜遅く、アレクサンドルはリオネルを伴い、ようやく執務室に戻った。

 窓辺に立ち、背筋を伸ばし、灯火の向こうに王都の灯りを見下ろしている。

 横顔は、相変わらず完璧だった。

 彫像のように整っていて、隙がない。

 ただ――その整いすぎた静けさが、逆に痛々しいほどだった。


 リオネルが口を開く。

「……ご婚約、おめでとうございます」

 軽く頭を下げて言うと、アレクサンドルはわずかに目を細めた。


「ありがとう。これで、国の安定は保たれる」

「ええ。王妃派も満足そうでした」

「それでいい」


 まるで他人事のような声だった。

 いつもの冷静さとは違う。

 温度がない。

 何かを押し殺して、削ぎ落としたような声。


 リオネルはそっと机に手を置き、様子をうかがった。

「殿下……お疲れのようで」

「疲れてなどいない」

 即答。

 それはいつものことだが、今日のそれは、まるで自分に言い聞かせているようだった。


 少し間をおいて、アレクサンドルは静かに続けた。

「今日の式は、成功だった。リリオスの姫も満足げだった。聖女も、見事な祝福を捧げてくれた」


 “聖女も”という言い方。

 そのわずかな一語に、リオネルの耳が反応した。


「……シャルローヌ姫の祝福、見事でしたね」

「――ああ」

 短い返事。

 けれど、たったそれだけで、空気がわずかに揺れた。

 アレクサンドルの指先が動く。

 胸の前で、無意識に何かを掴むような仕草。

 まるで“もう手の中にないもの”を確かめるかのように。


 リオネルは胸の奥で小さくため息をついた。

 式の最中、殿下は完璧に笑っていた。

 誰も気づかない。

 王妃も、王も、参列した貴族たちも。

 だが彼だけは見た。

 ほんの一瞬、祝福の光が降るとき、アレクサンドルのまつげの影に滲んだものを。


「殿下……イサドラ様はお幸せでしょうね」

「それは、望ましいことだ」

「でも、殿下は?」

「俺の幸せは、この国の安寧だ」


 そう言い切って、アレクサンドルはふと窓の外を見た。

 青い瞳が、ろうそくの光を反射して微かにきらめく。

「そして聖女も心から俺の婚約を喜んでくれている」

 けれど、その輝きの奥は、凍りつくほど冷たかった。


「リオネル。……俺は“王”の器でいなければならない」

「“王”である前に、“人”でもあるでしょう」

「その“人”を捨てたからこそ、ここまで来た」


 その声は、穏やかで、そしてどこか悲しい。

 リオネルは返す言葉を失った。

 気づけば、室内の空気が澄みきりすぎて、息が詰まりそうになる。

 殿下はいつだって、こうして自分を削っていく。

 誰にも気づかれないように。


 沈黙を破ったのは、アレクサンドルの低い声だった。

「……“黒太子微笑記念日”、などという愚かな噂がまた流れているらしいな」

「はは。侍女たちが勝手に言ってるだけですよ。殿下が笑ったら奇跡の日、だそうで」

「奇跡ではない」

「いや、俺はそう思いますね」

「……何の根拠が」

「だって、あの微笑みを見て倒れた文官、まだ入院中です」

「……」


 リオネルはわざと肩をすくめて、軽口を叩いた。

「殿下が笑うと国が揺れる。だからほどほどに」

「心配するな。もう、笑うことはない」


 その一言で、笑いがすっと引いた。

 リオネルは口をつぐむ。

 まっすぐ立つその背中が、ひどく遠い。

 誰よりも強く、誰よりも孤独な王子。


 アレクサンドルは、あの日からずっと、心に鎖をかけて生きている。

 十年前、青い鳥の奇跡を見たときからだ。

 あの光の中で心を奪われながら、恋だとは認めず“理屈”で閉ざした。

 その鎖を、今また自分の手で締めなおしている――。


 ――けれど。


 リオネルは小さく息をつき、微笑を浮かべた。

 穏やかな顔の裏で、鋭い観察眼が殿下を射抜く。

 ――今日の婚約式。聖女の放ったあの光は、ただの祝福ではなかった。

 あれは国に向けた祈りではなく、ひとりの男に捧げられた想いの形。

 その輝きを真正面から受けながら、涼しい顔で「国のため」と言い切るこの人は、やっぱりずるい。

 いつも無自覚に人の心を揺らすのだ。


「……殿下、やっぱり人の心を弄ぶのはお得意じゃないですね」


 軽口めかした声に、アレクサンドルがわずかに眉を寄せる。

「何の話だ」


「自覚のないのが、いちばん罪深いってことです」


 リオネルは肩をすくめ、柔らかく笑った。

 彼の笑みはからかうようでいて、どこか切なさを含んでいる。


「……おまえも時々、王妃派のように面倒だな」

「お褒めに預かり光栄です」

 アレクサンドルがようやく小さく息を吐いた。

 肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。

 その微かな変化を見逃さないまま、リオネルは心の奥で決意していた。


 ――この人が“笑える日”を取り戻すまで、自分が支える。


 だから今日も、軽口を武器に仮面を守る。

 完璧な王子の、唯一の隙を知る者として。

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