19.エレナのハンカチ発見と首飾りを返したくない黒太子

 夕暮れが近づき、路地は赤い光に染まっていた。一行が狭い裏通りを抜けたとき、不意にカイルが足を止めた。


「……待て」


 視線の先、石畳の隙間に小さな布切れ。汚れているけれど、見覚えのある色。カイルの指が震えながら拾い上げた。


「これは……」

 息を呑む音。ぎゅっと握りしめる拳。

「間違いない。エレナのハンカチだ」


 布には刺繍が施されていた。つたない花模様――それは、エレナが一生懸命に縫っていたものだ。

 カイルは息を呑み、拳を震わせる。


「じゃあ、まだ……生きているのね」

 シャルローヌも思わず声を漏らした。


 カイルの目ににじんだ涙が、すぐに怒りに変わる。

「生きてる。絶対に……! ここに残していったのは、俺たちに知らせるためだ」

「エレナ、必ず見つけるからな!」


 アレクサンドルは黙ってその布を見つめ、やがて低く言った。

「ならば手がかりはここだ。黒塗りの馬車と、この路地の抜け先を追う」


 リオネルが短くうなずいた。

「殿下、もう一歩踏み込む時ですな」


 ばあやは胸に手を当て、震える声で祈るように呟いた。

「どうか……無事でありますように」


 シャルローヌはカイルの隣に立ち、強く拳を握った。

「必ず見つけよう。エレナも、他の娘たちも」

 みんなの頷きがそろった。よし、方向は定まった。

 (あとは掴みにいくだけ!)

 

 広い石畳に戻った瞬間、影が前に広がった。銀の装甲、緋の房。王妃派の近衛。通行人が音を立てずに道を開ける。


「お探し申し上げましたぞ、黒太子殿下」

 隊長格の兵が恭しく礼をとりながらも、その声には皮肉が混じっていた。

「殿下自ら市井を徘徊とは……まこと噂どおり、奇矯なお振る舞いで」


 アレクサンドルの青い瞳がわずかに細められる。

「……何の用だ」


「そのお連れの――姫君です」

 兵の視線がシャルローヌに突き刺さる。

(またそれ。仕事の邪魔、いただきました)


「剣を振るう異国の姫君。王妃殿下におかれては『宮廷の秩序を乱す』とご懸念でして。そのような姫にそそのかされてかお忍びに出られるなど、殿下も随分とシャルローヌ姫に……」

「その名を口にするな」


 アレクサンドルが一歩、前。

「俺の婚約者の名を、軽々しく汚す舌は必要ない。王妃殿下に仕える身であろうと、俺の許しなく名を呼ぶことは許さん」

 抑制された声は、最後に地を震わせる低音を響かせる。

 「わきまえろ」


 温度が一段下がった。空気が凍る。

(魔力、ちょっと漏れてる。止める? いや、このタイミングは効く)

 兵たちが息を呑んだまま固まる。


 リオネルがわざとらしく咳払い。

「殿下、これ以上足止めされても調査が遅れるだけです。行きましょう」


 アレクサンドルは、兵たちにはもう目もくれず背を向ける。

「……行くぞ」


 シャルローヌは短くうなずいて続いた。

(牽制完了。次、進む)

 残された王妃派は、硬直したまま見送るしかなかった。


 ◇


 噂と空気とハンカチは掴んだ。でもエレナたちの居場所の決め手はまだ。日が斜めに傾き、王宮へ戻る時刻が頭をよぎる。

 (今日はお忍び。夜には戻らなくては……私も「監視下」扱いだものね。うん、規則は守る)


 焦りが首筋に張りつく頃、耳が細い音を拾った。

「……音?」

 振り返ると、路地の奥から一台の馬車。


 艶のない黒塗り。窓は厚い布で覆われ、内部は見えない。御者の目は乾いていて、余計なものを見ない訓練の目。馬の蹄が石を打つたび、通りに薄い不吉が残る。

「……あれか」リオネルが低く。

「酒場でも井戸端でも出ていた“黒塗りの馬車”」


 カイルの拳が鳴った。

「エレナも……あれに」

 シャルローヌの胸の中に冷たい線が走る。(噂じゃない。現物)


「尾けるか?」

 リオネルが問いかけると、アレクサンドルは短く首を振った。

「今は駄目だ。護衛もなく、市井の真ん中で動けば民を巻き込む」


「でも……!」と言いかけたシャルローヌの腕を、アレクサンドルの手が制す。

「焦るな。奴らは必ず夜に動く。……次に現れる時が、仕掛け時だ」


 黒塗りの馬車は音を飲み込んで去り、夕闇に溶けた。シャルローヌたちはその消えた角をしばらく見ていた。

(次で掴む。逃がさない)

「今は時ではない。次の機会に狙いを定める。――退くぞ」アレクサンドルの声は低くて、揺れない鋼だった。


 ◇

 

 忸怩たる思いを抱えて、一行は王宮へ戻った。

 王宮の一室、厚い帳が垂れた応接間。そこにはクロード翁の姿があった。


「クロードさん!」

「少々無理を言って待たせてもらっていたところだ。無事で何より」

 何度も助けてくれたクロード翁の姿に、シャルローヌとカイルの気持ちも少し浮上する。


 アレクサンドルが無表情で要件を問う。

「シャルローヌ姫の指輪のことで、殿下」


 シャルローヌの指には、翁から譲り受けた魔道具の指輪。淡い光は宿っているが、ときどき石の輝きがふっと揺らぐ。


「……やはり、宝石の質が追いついておりませぬな」翁が顎に手を当てる。

「今は何とかなっておるが、より強い魔力を制御するとなると、あるいは――」


(“あるいは”って何!? 割れる? 溶ける?)

「魔力を制御できず逆流し、身を焼くことになる」

(想像よりもっと悪かった!)

 

 そのとき、ばあやが意を決したように進み出た。

「殿下……あの首飾りの橙の宝石なら、姫様の魔力を受け止められます。モンテリュー大公がいずれ嫁ぐ娘に、と託された品。無礼は承知で……どうか姫様へお返しを」


 リオネルが「なるほど」と頷く。

「たしかに、それは返さねばなりませんね。持ち主はご存命ですからね」


 だがアレクサンドルはすぐには答えない。視線を落とした、わずかに指先を握りしめる。

 アレクサンドルの返したくない気持ちを感じてシャルローヌは思う。

(前も返してくれなかったよね……あの橙は、アレックスにとっても気持ちの拠り所なんだろうな。わかる。とても落ち着く色だもの)


 そしてアレクサンドルは平然を装って口を開いた。

「……ふむ。それよりも、こちらのほうがよいのではないか」


 命じると従者がベルベットの重厚な箱を持ってきた。中には、深い蒼を宿す大粒の宝石――国宝級の逸品が収められていた。


「なっ……!」

「殿下、それは王家の貴石のひとつでは……」

「この目で拝む日が来るとは」


「(絶対めっちゃ高いやつ!)いえ、殿下。もとの首飾りで十分です!」

 シャルローヌが慌てて手を振る。


「いや、念には念を入れなくては」

 アレクサンドルは淡々と返す。

 

「殿下はそんなに橙を返したくな――」「取り替えてやろう」

 リオネルが言い終える前に、かぶせるように言うとアレクサンドルはシャルローヌの手を取る。


 指輪を抜き、宝石を付け替え、またシャルローヌの指へと戻す。その瞬間、自然とその手を握り込む形になった。


 ――ふたりの心臓が、跳ねた。


 シャルローヌは頬に朱が散っていくのを感じた。

(なにこれ……手が震えるんですけど!?剣を持ってるときだって震えないのに)


 アレクサンドルもまた、内心で冷静さを失っていた。

(これはただの補助のための接触だ……だが、この温もりは何だ。心臓が痛い。不具合か……? 誤作動か……?)


 視線が合う。沈黙。時間が止まる。手を握り合った1対の美麗な彫像。


 背後でリオネルが腕を組み、ニヤリと笑った。

「……おふたりとも、お顔が赤いようですが、なにか?」


 頬を意識してさらに動けなくなるふたり。


 そこへ翁がひと言。

「まるで、ご婚約式のようでございますな」


 ふたりはいっそう凍りついた。王子は真っ赤な顔で咳払いをし、シャルローヌは「え、婚約式!? 婚約式!?」と動揺がとまらない。


 さらにばあやが感極まって涙ぐんだ。

「あらあらまあまあ……姫様のこのようなお姿を拝めるとは、もう思い残すことはございません」


「ばあや!? 縁起でもないこと言わないで!」

 シャルローヌが慌てる横で、リオネルがさらりと追い打ちをかける。

「なにをおっしゃる。まだご成婚式がございますよ」


「まあ……!」

 ばあやは号泣。場がぐずぐずになっていく。


 そしてクロード翁がとどめをさした。

「いやはや。ご自分の瞳の色を姫君にまとわせるとは、さすがでございますな」


 シャルローヌは「やめてーっ! もう知らない!」と思わず剣を掴んで「とーっとーっ」と素振りを始める。

 アレクサンドルは顔を真っ赤にしたまま無言で額を押さえていた。


 リオネルは身体を曲げて笑いをこらえる。

(手を握っただけでこれとは。黒太子にこんな顔をさせることができるのはシャルローヌ姫しかいないな)


 笑いをこらえつつも、腹筋を鍛えてくれるふたりを柔らかい気分で見守るのだった。

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