14.王妃マルゲリータ
王宮の重厚な扉が開かれる。
シャルローヌの左にはばあや、右にはカイルを伴い、広い廊下を奥へと進む。高い天井には黒と金の双頭のグリフォンの旗が連なり、外とは別世界の空気が満ちていた。
「まずは王妃殿下への謁見だ」
歩きながらアレクサンドルが低く告げる。
「宮廷の慣わしだ。どんな客人も、最初に正妃と国王陛下の前で礼を示さねばならない。今日は父上はあいにく謁見できない。王妃だけだ。俺が同席すれば、王妃派の警戒を強めるだけになる」
「礼を示すって、礼儀正しく、って意味であってる?」
その言葉にアレクサンドルはうなずいた。
(つまり、アレックスの政敵に会う、礼儀正しくってことね)
少し心配そうなばあや。
やがて客間へと案内される。アレクサンドルが扉を押し開け、自らシャルローヌを中へ導いた。
「ここで休むといい。支度が整い次第、マルゲリータ王妃のもとへ案内される」
低い声に促され、シャルローヌはばあやと顔を見合わせてうなずく。アレクサンドルは一礼だけ残し、静かに扉を閉めた。
「俺はここまでだそうだ。呼ばれてもいないのに王妃様に謁見を許される身分じゃない」
残ったカイルが苦笑し、ばあやに深く頭を下げる。
「シャルのこと、よろしくお願いします」
ばあやの瞳が潤み、しがみつきそうになるのをぐっとこらえる。カイルはそれにうなずき、背を向けた。
こうして、シャルローヌとばあやの二人だけが王妃謁見へと向かうことになった。
白い大理石の床に陽光が反射し、長い絨毯が奥の上段へと続いている。
奥まった場所の豪奢な椅子に、王妃マルゲリータが優雅に腰かけていた。プラチナブロンドの豊かな髪、深い緑色の瞳。背筋を伸ばし、透きとおる百合のような威厳をまといながら、シャルローヌを見つめている。
(わあ……THE 美人!って感じ)
「遠路をよくぞ参られました」
涼やかな声が広間に響く。
シャルローヌはドレスの裾を持ち上げ、一歩前へ。後ろで見守るばあやは内心冷や汗を流す。
だがシャルローヌは扇をすっと広げ、背筋をぴんと伸ばし、淀みなく片膝だけを軽く曲げた。
(要するに、体幹よね!)
茶道の手順、剣道の礼、SPとして見慣れた儀礼の空気、そして姫としての記憶――そのすべてが自然に体を動かす。
(……姫様、ご立派でございます!)
ばあやは胸を押さえ、感嘆の息を漏らした。
王妃マルゲリータも、意外そうに眉を上げる。
「マルシャン卿の客人にして、行方知れずとなっていたシャルローヌ姫と伺いました。剣の腕前だけではなく、礼もよく心得ておられるのね」
「もったいないお言葉でございます」
シャルローヌは静かに答え、まっすぐ王妃の瞳を見返した。王妃はその視線を受け止め、数瞬の沈黙を置いたのち、わずかに唇の端を持ち上げる。
「……なるほど。侮れませんわね」
そのとき、広間の隅に控えていた王妃付きの侍女や廷臣たちが、互いに目配せを交わした。
――王妃派の重臣たちだ。
アレクサンドルが“黒太子”と呼ばれるようになってから、王妃に忠誠を誓う一派が静かに勢力を広げていた。彼らにとって、聖女の来訪は天恵にも等しい。
(聖女を王妃陣営に引き入れられれば、黒太子の影響力は半減する。王妃殿下のご加護のもと、宮廷は再び調和を取り戻す――)
そんな思惑が、無言のまま空気に滲んでいる。マルゲリータ自身が命じたわけではない。しかし、彼女の周囲に集う者たちは、王妃のもつ権力を自分たちの野心に都合よく利用していた。
マルゲリータ王妃はそのざわめきを感じ取ったのか、うっすらとまつ毛を伏せた。誰にも読めぬ微笑を浮かべながら、シャルローヌに向かって言葉を紡ぐ。
「礼を知る者は国を治めもするが、時に乱すこともある。あなたがどちらに傾くのか――見極めなければなりません」
広間の空気がぴんと張り詰める。王妃派の廷臣たちが、ほくそ笑むように小さく息をのんだ。
だがシャルローヌは臆せず答えた。
「……私の力と立場が、国を乱すことのないよう尽くす所存です」
その声に、マルゲリータの指がわずかに止まる。瞳の奥で、何かを計るような光が走った。
――この娘は誰にも従わぬ。黒太子にも、私にも。己の意志を持つ者。
王妃の口元が、ほんのわずかに揺れた。
少しだけど、ほほ笑んだように、シャルローヌには見えた。
◇
夜風がひんやりと頬を撫でる。王宮の奥まった中庭は、昼の華やかさを沈めてしっとりとした静けさに包まれていた。
シャルローヌは石灯籠のそばに腰を下ろし、愛用の剣を膝に乗せて布で磨いていた。月明かりを受けてきらめく刃。その光に、彼女自身の横顔もまた凛と照らされている。
「……やっぱり落ち着くな」
刃に映る自分の瞳をのぞき込みながら、シャルローヌはぽつりとつぶやいた。
「剣を磨くと落ち着くのか」
背後から声がした。振り返ると、アレクサンドルが歩いてくる。コバルトブルーの瞳が月光を映して揺れていた。
「姫君なら夜は休むものだろう。庭先で剣を磨く花嫁候補なんて、聞いたことがない」
「あは……慣れないドレスで疲れちゃって。結局こうしてる方が落ち着くの」
布を動かす手は無駄がなく、力みもない。長年の鍛錬が染みついた動作。
「王妃謁見は、うまくやったと聞いた」
「どうかなあ。恥ずかしくない程度の挨拶をしただけ。根掘り葉掘り聞かれたりしなかったから無難にこなしたって感じ」
シャルローヌは、手元から目を離さず答える。
アレクサンドルは黙ってその横顔を見つめた。
「……会ったことがある。幼いときに」
その声にシャルローヌがばっと顔をあげる。
(え! まさかやっぱりあのとき川に落ちた王子だった? 思い出したの?)
「子供のころ、庭で小鳥を助けている少女を見かけた。泣きそうな顔をしながらも必死で救おうとしていて……その瞳が、忘れられなかった」
「え、あ……(ちがったのね)小鳥?」
「その鳥は、今そばにいるあの青い小さなやつに似ていた」
視線を向けると、ビジュが枝の上で眠そうに羽を膨らませていた。シャルローヌは目を瞬かせ、言葉を失う。
「……そんなことが、あったの」
「俺はその少女をずっと忘れられずにいる――まあ、記憶違いかもしれないな」
アレクサンドルは短く言って視線をそらす。夜風が二人の間を抜け、花の香りを運んだ。沈黙は不思議と苦しくなく、むしろ心地よい。シャルローヌは小さく笑い、剣を鞘に収める。
「……剣も悪くないけど、こうして少し話すのも、落ち着くね」
「俺もだ」
アレクサンドルは短く答えたが、その声音には確かな温もりが宿っていた。
部屋に戻ってふとシャルローヌが気づく。
「まさかその忘れられない少女って、シャルローヌ姫ってことなんじゃないの……?」
部屋に戻ってふとアレクサンドルは気づく。
「まさかあれは本人に告白してしまったことになるのか……?」
「絶対違う! 寝る」
同じことを思って布団をかぶるふたりだった。
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