8.王妃と王

 王妃の私室は香が漂い、深紅の帳が夜を閉じていた。 ひざまずいた監視者が淡々と報告を続ける。

 

「……剣を振るう癒し手が現れました。金髪に橙の目。“もしや?”と噂されていますが……剣の腕前を見る限り、とてもシャルローヌ姫君と同一人物とは思えません」


 マルゲリータ王妃は細い指で杯を転がしながら、伏し目がちに言った。

「癒し手、ね。便利な言葉が流行るものだわ」


 「ただ、その人物は、シャルローヌ姫の乳母と接触した様子です。ともに王都へ向かっているという情報もあります。また、もう一人、地味な青年も旅をしていますが……」

「その青年にもなにかあると?」

「いえ、こちらは特筆すべき点はありませんでした」

「そう。あの乳母と……」

 王妃は小さく息を吐いた。


 「黒太子の婚約者は死んだ――死んだはずなのです。モンテリュー公国と『聖女』という後ろ盾を失って黒太子の立場は弱まっていくはず。けれどもし生きていたなどという噂が広がれば……」


 監視者が退くと、王妃は杯を強く握りしめた。

(あの子……黒太子。どうしても目に入るだけで腹立たしい。私が望んでも得られなかったものを、あの女の息子は当然のように持っている)


 マルゲリータが王宮に嫁いだとき、すでに王は世継ぎを求められ、国内の貴族の娘を側室に迎えていた。彼女がアレクサンドルを産み、王の寵愛を受けた。――正妃は私なのに。

 やがてその女は若くして儚く世を去ったが、王の心はなお彼女の想い出を追っているように見える。


(その息子が、黒太子が、王の跡継ぎとして盤石の地位を得るなど……)


 押し殺してきた思いが渦を巻き、口惜しさが胸を焼いた。叶わぬ望みは澱のように積もる。

 

 ◇

 

 玉座の奥、王の寝所。病に侵された王の体は痩せていたが、青い瞳はいまだ鋭く光っている。


 「……シャルローヌ姫が逝ったと聞いた」

「はい、陛下」

 呼ばれ、控えていたリオネルが答える。


 「アレクサンドルはどうしている」

「殿下は平静を装っておりますが、内心は……」

「うむ」王は目を閉じ、静かに息を吐いた。


 「力を持ちながら冷たさゆえに孤独を背負う……。あの子は私に似すぎている」

 その声は弱々しい吐息のようで、誰にも届かないほど小さかった。


 「幼いころから“黒太子”などと呼ばれ、冷徹であれと教え込まれてきた。弱さも情も許されぬと。……恋に心を奪われるなど、あの子にとっては失敗と同じことなのだ」


 わずかに笑みを浮かべて、しかしその笑みは苦く滲む。

 「初めて惹かれた少女を失いかけて、胸の奥で処理を誤ったのだろう。素直に『愛している』と言えず、『聖女だから必要』『秩序のため国のため』と理屈で塗り固めて……。あの子は、感情を認めることを恐れている」


 リオネルは深く頭を垂れ、静かな言葉を黙って受け止めた。



 そこへ王妃が入ってきた。


 裾を優雅にさばき、床に膝をつく。

 「陛下、お加減はいかがですか」

 その声は甘やかで、仕草は慎ましい。


 「おまえの支えに感謝する」

 静かに目を閉じて告げる王の言葉に、王妃は柔らかく微笑んだ。――だがその裏で、胸は痛みに締めつけられていた。


  (どうして。どうしてその眼差しは私を見てくださらないの。今もなお、亡きあの女の幻影を追って……!)


 エメラルドグリーンの瞳の奥には、どうしようもない暗い炎が渦巻く。手に持った扇をつかむ手が、ほんの少し震えているように見えた。


 ◇

 

 夜。

 王の寝所には重厚な帳が垂れていた。

 

 王は枕元の書類に目を通していたが、ふと手を止め、遠い視線を漂わせる。

「……シャルローヌ姫を失ったと聞くたびに、胸が痛む」


 傍らに立つのは近衛隊長ラザール。鍛え上げられた体躯に簡素な騎士服。実直さがにじむその姿は、王の信頼を一身に集めている。


 「アレクサンドル殿下は悲しみを隠しておられます。その悲しみが殿下をさらにお強くするでしょう」

「……あの子は、私の若き日の姿そのものだ」

 王は瞼を伏せ、かすかに吐息をこぼす。

 「孤独を背負い、誰にも頼ろうとせぬ……私がそうであったように。シャルローヌ姫を深く思っているであろうに」


 ラザールは一呼吸置き、静かに言葉を添えた。

 「王子殿下が姫君を想う気持ちほど強く、王妃様も陛下を想っていらっしゃれば……」

 王は目を閉じ、長い沈黙。


 「其方の目にもそのように見えるか……」


 「出過ぎたことを申しました。お許しを」

 ラザールは深く頭を垂れる。

 王は目を開けず、ただ思索に沈んでいた。


 

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