5.青い鳥の記憶
王都の執務室。厚い石壁に囲まれた空間に、またひとつ報告が持ち込まれた。
炎の入ったランプが静かに揺れ、机の上に影を落とす。
「アレクサンドル殿下。西海寄りの村や市場にて、“金髪の若い剣士”が魔獣を斃したとのことです。瞳の色は橙色。不思議な小鳥を連れていた、と」
金髪――橙の瞳。
その響きだけで、胸の奥に冷たい衝撃が走った。
硬く組んだ指先が、無意識に微かに震える。
「その小鳥は、青く光る羽を持つとか」
報告の声が、急に遠くなる。
青い羽。橙の瞳の隣に、いつも止まっていた小さな影。
――封じたはずの記憶が、音もなく水面に浮かび上がる。
*
――王城の庭。
春の陽に包まれ、王都全体が祝祭に沸いていた。
双頭のグリフォンの紋章旗がはためき、花弁が風に舞う。
ヴァレンシエール王国の王子・王女たち、そして隣国のリリオスやモンテリューの子弟たちが、笑い声を響かせていた。
その喧噪の中心で、唐突に響く悲鳴。
小鳥が一羽、地に落ちていた。
青い羽が泥に汚れ、胸のオレンジが赤黒く滲む。
小さな命が、まだ温もりを残して震えている。
「もうだめだな」
「羽を抜けば御守りになるんじゃない?」
「火であぶったら飛べるかな?」
笑い混じりの無邪気な声。だが、少年アレクサンドルの耳には、奇妙に冷たく響いた。
人の“残酷さ”を、初めて意識した瞬間だった。
輪の外にいた彼は、動けなかった。王の嫡子として、軽々しく口を挟めない。――そんな理屈で、足を止めた。
そのとき。
小さな声が、風を裂いた。
「やめて!」
ひとりの少女が、輪をかき分けて現れた。
金の髪、橙の瞳。
八歳のモンテリュー公国の末姫、シャルローヌ。
その姿を、アレクサンドルは鮮烈に覚えている。
陽光の粒をはじくように髪が揺れ、目の奥に強い意志が宿っていた。
少女は小鳥を両手に抱え、膝をつく。
血に染まった羽を撫でながら、震える声でつぶやいた。
「もう……これ以上はだめ」
その小さな背中が、不思議なほど大きく見えた。
静寂が落ち、子どもたちが散る。
十五歳のアレクサンドル・ド・ラ・フォント・ヴァレンシエは、その光景を一歩離れた場所から見つめていた。
隣には親友リオネル。
だが彼の耳には、もう風の音しか聞こえなかった。
少女の指輪が、微かに光った。
金の光が小鳥の傷を照らし、震えるように揺れる。
「……お願い。生きて」
その声は小さいのに、世界のすべてを支配するほど真っ直ぐだった。
(治癒魔法か?聖女の力と聞くが、あの傷では……)
理性が即座に可能性を測り、結論を出す。
――不可能だ。
しかし、その瞬間。
少女の頬を涙が伝った。
雫が落ちるたび、羽の青が光を取り戻していく。
次の瞬間、光が爆ぜた。
金色の魔力が渦を巻き、小鳥の全身を包みこんだ。
血が洗い流されるように消え、風が生まれ、
羽ばたきが空気を震わせた。
「あ……飛べるの?」
驚きと喜びが混ざった声。
その笑顔が陽光を浴び、涙の粒がきらめいた。
アレクサンドルは息を呑んだ。
世界が一瞬、色を変えた。
胸が焼けるように熱い。
心臓が、知らない鼓動を打っていた。
(……美しい)
その言葉が、意識の底からこぼれた。
同時に、恐怖が追いつく。
――これは、何だ?
理性が、感情を即座に否定する。
彼の中で、二つの声がぶつかり合う。
(違う。これは驚きだ。美しいものを見たから、心が動いただけ)
(いや……あれは“感情”だ。お前の中に生まれた弱さだ)
彼の背後で、誰かが笑うように囁いた。
「王は、愛に溺れてはならぬ」
父ギヨームの声。
幼いころ、何度も聞かされた教え。
王とは、感情を国に優先させてはならぬ存在。
かつて同盟国の王が、王妃を失い悲嘆に暮れ、政を誤って滅んだ。
「情は弱さ。弱さは滅びを呼ぶ」――それが王族教育の基礎だった。
ギヨーム王は慈悲深い王でありながら、息子にだけは厳しかった。
「アレク、感情に飲まれるな。理を失えば、国を失うぞ」
父の声が今も耳に残る。
愛は王を狂わせる。ゆえに愛は遠ざけるもの。
そう信じることで、アレクサンドルは心に“鎧”を育ててきた。
だが今、その鎧の内側が焦げている。
胸の奥で熱が暴れ、どうにもならない。
(駄目だ。これは弱さだ。俺は王子だ。国の柱になる存在だ)
自分に言い聞かせながら、拳を握りしめる。
血が滲むほどに。
小鳥が空へ飛び立ち、少女がそれを見上げて笑う。
その笑顔が、痛い。
忘れられない。
(……あの力。あの涙。あれは聖女の資質だ。国家のための奇跡だ)
心を抑え込むように、理屈を探す。
恋を、任務に置き換える。
――こうして、ひとりの少年が“感情を制御する王”になる道を選んだ。
愛を恐れ、理性に逃げる。
その選択が、のちに“黒太子”と呼ばれる彼を形づくる。
鎖は、静かに胸の奥で鳴り始めていた。
*
「殿下?」
騎士の声が、現実へ引き戻した。
アレクサンドルはゆっくりと息を吐く。
「……金髪に橙の瞳。肩に青い小鳥、か」
低く呟き、拳を緩める。
微かに指先が震えた。
「間違いない。シャルローヌだ」
声は冷静だが、心の底では波が立つ。
――だが、“剣士”?
剣を振るい、魔獣を倒す?
彼が知る聖女は、涙で命を救った少女だった。
剣を取る姿など、一度も想像したことがない。
(……シャルローヌが剣を?)
確信と疑念が、同じ重さで胸を揺らした。
報告の騎士が退出し、静寂が戻る。
リオネルが机に肘をつき、低く言う。
「姫が魔獣を倒すほどの剣士だなんて、初耳だな」
アレクサンドルは短く息を止める。
感情を悟られまいと、冷たい声で返した。
「……俺の婚約者は、生きている」
リオネルがわずかに目を細める。
「そこまで信じ切れるほど、惚れてるんだな」
アレクサンドルは一瞬まばたきを忘れた。
次いで鼻で笑う。
「違う。惚れてなどいない。俺が執着しているのは“存在”だ。
あれがいなければ、秩序が傾く。国が、世界が歪む」
言葉は冷徹だが、その奥にわずかな痛みが滲んでいた。
リオネルはそれを見逃さない。
「国のため、ねぇ……」
肩をすくめ、小さく笑う。
(それを惚れてるって言うんだよ。拗らせすぎだ、親友)
アレクサンドルの指先は、まだ震えていた。
それが恋によるものか、恐れによるものか――
本人だけが、まだ気づいていなかった。
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