【短編】アミーラ15歳、その死は1年後

雨丹 釉

アミーラ15歳、その死は1年後

 部品と部品の間に挟み込まれた鉱物が、チカチカと光をはじいた。遠くで誰かが話す声、さらには軽快で楽しげな音楽が流れ、決して広くはない室内に、非日常の亀裂を生み出している。

 少女は机の上に無造作に置かれた装置に、じぃっと視線を注いでいた。それは奇妙で異質なものだった。床に敷かれた羊毛絨毯や、棚に並ぶテラコッタ壺、壁に掛けられたタペストリー、そういったありふれた〝生活〟の気配とはかけ離れた、違和感の正体だ。

 扉の向こうから、外を歩く人々の声が聞こえてくる。市場で仕入れた果物や穀物、色とりどりの織物、肥えた羊、奴隷の値段がどうだったか。通りがかりの隊商に色男がいただの、猿回し芸人と蛇使い男の諍い、占い女の占術の結果、物乞いたちの「嗚呼、お慈悲を!」。

 少女は通りを行き交うそれらには耳を貸さず、ただ目の前の装置から流れる音に夢見心地になっていた。

 装置そのものに、父の字で「らじお」と書かれている。大雑把だが妙に真面目な父らしく、装置についての説明が簡単に記された紙片も挟まっていた。どうやらこの「らじお」とは、遠く離れた世界の音を聴くことができる代物らしい。

 なんて甘美な音楽。弦楽器だろうか。はずむ音程となめらかな旋律は、まるで踊り子のひらめく繊手のようだ。そして耳あたりの良い異国の言葉。何を話しているのか分からないけれど、男女が楽しげに笑うさざめきのような声。するりと喉を通る薄荷水のように爽やかだ。

 父がこの手の不思議な品を所持していることに驚きはない。父は魔術を使う類いの人間だ。

 時間旅行人である父が、家に帰ってくることは少ない。だが、この家にひっそりと設けられた彼の書斎には、膨大な旅行の記録が保管されている。少女は、父の目を盗んでは、こっそりそれらを読んでいた。だが、父はお見通しであったろう。そうでなければ、わざわざ娘に文字を教えることはしなかったはずだ。同じ年頃の少年たちが教師のもとで学んでいる間、娘たちは家事労働に精を出すけれど、この少女に限っては、奇妙奇天烈な、遠い世界についての記述をひたすら追いかけて、何百もの頁を繰っていたのだ。

 おかげで少女はすっかり変人扱いされていたが、表だって陰口を叩く者はいない。というのも、父が旅行先から帰還すると、土産として持ち帰った貴重な品々を、近所の者に気前よく分け与えるためである。病に効く薬や、よその土地の産物が欲しければ、彼のひとり娘を邪険にするわけにはいかない。また多くの者は、彼女の父を気まぐれな風来坊だと思いこそすれ、まさか時間旅行を生業にしている胡乱な人物だとは知らなかったのである。

ところで、父の「らじお」には、美しい鉱物が使われていた。装置自体はごく単純な造りに見えるから、きっとこの鉱物が特別なのだろう。それ自体は紺青にも緑碧にも見えるし、半透明で硝子質の内部には、焔に似た光が揺らめいているようにも見える。

この不思議な光。まるで輝く陽炎のようだと少女は思った。

そうだ!これを「光の陽炎」と名付けよう。少女は勝手に納得した。

砂漠や焼けた石畳に立ちのぼる、あの陽炎とはまた別のものであるが、空想好きな少女の頭のなかには、すでに「光の陽炎」を自在に操り、美しい幻を様々に生み出して遊ぶ、魔術師の姿が浮かび上がっていた。

 父はもう一年もの間、この家を不在にしている。母は慣れているのか、特段気にも留めていない。それでも時々は寂しく感じるのか、父の「写真」──物を写実的に紙の上に再現したもの──を見つめてはため息をついていた。そして少女の空想好きな性分も、おそらくは父がいない寂しさを紛らわせるために必要なものだったのだ。


 そのとき、扉のほうからギギ、と音がした。「らじお」に夢中になっていた少女は、びくっと肩を震わせる。今日は来客の予定はなかったはずだが。

怪訝に思って振り向くと、戸口に影が立っていた。否、逆光を背負った人影だ。

 はじめ、少女は父が帰ってきたのだと思った。

「こんにちは。誰か、いますか」

 だが父のものではない声。ずっと若く、しかし低く落ち着いている。発音にも独特の訛りが感じられた。

「……だれ?」

 少女はやや落胆したものの、気を取り直して扉へ向かった。知らない人が来てもむやみに応対してはいけないと、母に言い含められていたことは、うっかり忘れていた。

 扉のそばに立っていた青年は、少女の存在に気がつくと、アーモンド型の目を見開いた。

 彼は風変わりな格好をしていた。この国の気候には合わないだろう、厚めの生地で、風通しの悪そうな、窮屈な形状の服だ。

 少女もまた驚いていた。青年の瞳が、「らじお」に嵌まっている鉱物に酷似していたからだ。青のような緑のような、奇妙な色合いの底にたゆたう光。「光の陽炎」! その中心に黒い瞳孔がなければ、同じ鉱物が眼孔に嵌め込まれていると勘違いしたかもしれない。

「きれい……」

「え?」

 青年がきょとんと少女を見返した。

 二人はしばらくぽかんと見つめ合っていたが、やがて青年のほうが咳払いし、少女と目線を合わせるために少し身をかがめる。

「僕の名前はハーバート・ジョージだ。君のお父さんから何も聞いていないか?」

「いいえ」と少女は首を振る。

「そうか」

青年は顔を曇らせたが、「いや、急に押しかけてすまない。ところで」と気を取り直して続けた。

「君の名前を教えてくれないか? 娘がいることは彼から聞いていたが、うっかり名前を訊くのを忘れていてね。このままでは失礼になってしまうだろうと」

 尋ねられ、少女は一瞬、沈黙した。

 その様子にハーバートは「どうしたんだ?」と首をかしげた。

「えっと……」

「ああ、もしかして、この国では、むやみに女性に名を訊いてはいけないのだろうか。すまない、僕はこの時代の、この土地の文化に疎いものだから……」

 ハーバートは気まずそうにしている。

少女はもじもじとしながら、首を振った。自分の名を名乗るというのは少々気恥ずかしい。「王女」を意味する名前を、昔はよくからかわれたからだ。

「アミーラ……私の名前。別に、名前を訊くくらいなら大丈夫」

「そうか……」

 ハーバートはほっと安堵したようだ。

「ではアミーラ。ここにあるはずだ、えっと……」

 ハーバートがポケットの中をごそごそし始めたので、アミーラは彼の袖を引き、室内に引き入れた。

「あまり他の人に見られないようにして。男の人が、女しかいない家を訪ねるものではないわ」

「え? ああ、すまない。なるほど」

 バタン、と扉を閉じる。外の喧噪が遠ざかり、室内には「らじお」のかすかな音だけが流れていた。

「あった、これだ」

 彼がポケットから出したのは一枚の紙切れだった。

「君のお父さんが持っている書物のリストだ。とても貴重なものだが、彼がこの時代のこの場所に保管してしまったので、誰も閲覧ができなくてね。緊急で必要になったから、借り受けたいのだが」

 アミーラはリストを受け取ると、「こっち」とハーバートをタペストリーの前に案内した。

「これは?」

「これはね」と、アミーラはタペストリーの中央を指さしながら言う。

「秘密の書庫への入り口。お父さんだけが通れるの。真ん中に精霊ジンが描かれているでしょ。彼が入り口を守っているわ」

「これは参ったな。さすがに魔術防壁を破るわけにはいかない。しかも僕は魔術については門外漢だ。まあ、やるだけやってみるか……」

 ハーバートが腕につけた装飾品(アミーラにはそう見えた)をいじると、突如として空間に綻びが生じた。彼は片腕を綻びの中に突っ込み、ずるり、と薄い金属の板を取り出す。

「ううむ……」

 彼は板の表面を覗き込み、なにやら難しい顔をしはじめた。

アミーラは好奇心のまま、彼の傍らに出現した綻びに、そっと手を触れてみる。

冷たくて、ざわざわした手触りだ。砂のような、霧のような、ねばついた沼、あるいは虚無──

ハーバートが言う。

「君、危ないからやめておいたほうがいい。その内部は生物を保管できる環境ではないんだ。素人が触れれば、大事な手がうっかり塵になってしまうかもしれない」

「これはなに? お父さんの魔術と同じもの?」

 アミーラの問いに、ハーバートは金属板の上でせわしなく指を動かしながら返答した。

「得られる結果は同じだとしても、僕と君のお父さんでは、全く異なるプロセスを辿るだろうね。君のお父さんは魔術が専門だけど、僕は科学の徒なんだ。僕たちのような、いわゆる【時空探索者】というのは、必ずしも同じ技術で時を超えているわけじゃない。僕は科学と理論の力で時空を移動するけれど、君のお父さんは、魔術と時の精霊との交渉によって、軽やかに時空を飛ぶ。時間と座標を指定すれば正確な位置に移動できる僕の技術は、なにより重いのが難点でね、演算だけでデータ容量がパンクしないか冷や冷やしないといけないが、魔術は不確定要素が多いランダム方式が採用されているから、軽いんだ。それでいて整合性の取れる魔術理論を構築して、外せない条件だけは守る仕組みになっているから、実に興味深い。さらに、このように物体を収納できる時空の綻びについては──」

 ハーバートがあまりにも早口でまくし立てるので、アミーラにはあまり理解できなかった。けれど彼自身がこの分野を愛しているのだろう、生き生きと楽しげに見える。だが程なくして、目の前で科学の徒が魔術的タペストリーの精霊に、半笑いでそっぽを向かれたところを見るに、魔術防壁とやらは突破出来なかったようだ。

 がっくりと肩を落としたハーバートに、アミーラは言った。

「どうしても、お父さんの本が必要なの?」

「ああ、そうだ」

「どうしてお父さんが自分で取りに来ないの? お父さんが一年も帰って来ないことと関係があるの?」

「……」

 ハーバートは沈黙し、瞳の色を翳らせて少女を見た。彼の視線の中に浮き沈みする「光の陽炎」が、アミーラの視線と絡まった。


 あ。


 唐突にアミーラの脳裏に直感が走った。


 私は彼の瞳を知っている。


 それだけでなく、自身の肉体、その奥底、内臓、血管、神経、骨、細胞の一片にいたる、いや床に落ちる己の影にさえ、ほとばしるような「光の陽炎」が、ゆらゆらと湧き出でる気配がした。


「君のお父さんは、同胞を助けるために、とある時空に釘付けにされている」

 ハーバートが告げた。

「【時空探索者】は、あらゆる勢力に狙われる。だが、権力や利益、いかなる命令にも従わないのが僕たちの信条だ。だから、もし同胞が囚われる、あるいは我々の自由と規律が脅かされることがあれば、必ず抵抗する。そもそも、ありとあらゆる時間と空間を自在に飛び回る【時空探索者】を捕らえるなんて、普通の人間には不可能なはずなんだが。どうやら悪魔に魂を売り渡した奴がいるようでね」


 そのとき、急に室内が静かになった。


 なんだろう? アミーラの視線は机に向かった。

それまで陽気な音楽を流していた「らじお」が、しん──と沈黙したようだ。



 次いで、

 ザザ──ザザザ──ザ……

数秒間の雑音。




『臨時ニュースをお知らせします』


『臨時ニュースをお知らせします』


『臨時ニュースをお知らせします』


『臨時ニュースをお知らせします』


『臨時──────ブツッ』 

 



『────』


 笛だろうか、ラッパだろうか、竪琴、手拍子、いや、歌かもしれない。

 朗々と、滔々と、絢爛に、淫靡に。

それは流れた。



『超越の冠を継ぐ者よ


 時空に隷属し、次元に仕えよ


 そなたの手は枷、足は楔となり


 理を虜囚として、真を傀儡に


 あがめ讃えよ あがめ讃えよ あがめ讃えよ』




『──以上、臨時ニュースでした』




「らじお」は再び沈黙した。



 じっとりと、この国にそぐわない湿気が部屋を覆う。

 外が急に暗くなった。

 鳥の羽ばたきと、野良犬の吠え声、赤ん坊の泣き声が重なった。

 ハーバートがゆっくりと視線を動かす。

「まずい」

 青年の声には、ひとしずくの恐怖。

「〝奴らが来た〟」




 気がつくと、目の前が真っ白になっていた。

 足が空を切る。足許が、地面がないのだ。

 落下している。

 こわい。さむい。色がない。見えない。

「アミーラ!」

 近くでハーバートの声がする。

「……どこっ? どこなの!?」

 アミーラが叫ぶと、白い背景の中空に、「光の陽炎」がひゅるひゅると降りてくるのが見えた。

「ここだ!」

「光の陽炎」が形状を変えて実体化し、ハーバートになった。

 彼はアミーラに手を伸ばす。

「この手に掴まれ! どうやら僕たちは、時空の狭間に強制的に落とされたようだ。しかも、【時空探索者】にとっても気の遠くなるような古の時代、すでに世界の記憶から漂白されかけている場所にだ! このままだと巻き込まれる」

「え? なに! 説明が長いよ!」

「〝いつでもなく、どこでもない場所〟に取り残されるってこと!」

 もみくちゃに落下しながら、ハーバートは少女を引き寄せた。

「座標を設定する暇が無い。ランダムは嫌いだが、ええいとにかく転移するぞ」

 ハーバートの持つ金属板が文字列を展開した。

 アミーラはぎゅっと目をつぶる。



 濃厚な緑と土の匂いに、少女は目を開けた。

 身体がぎしぎしと痛い。

 地面に仰向けに倒れている。

視界いっぱいに広がるのは、巨大な樹の枝だ。ツタが絡まり、ところどころ樹皮が苔むしている。樹液に群がる虫たちが見えた。甲虫、蝶、あ、蜘蛛もいる。羽虫が横切った。

街の喧騒や、砂風の音がしない。

どこだろう、ここは?

起き上がろうとしたアミーラは、身体が一切動かないことに気がついた。

どうしよう。ハーバートはどこだ? 近くにいるのだろうか。

アミーラは視線をそっと動かし、自分の身体を見た。次の瞬間、びくっと指先が痙攣する。

「光の陽炎」だ。

肉体を取り囲んでいる。

心臓を起点にして、胴や手足に絡みつき、立ちのぼり、蠢いているのだ。それは極光にも似て美しかったが、同時におぞましく、いまは恐怖が勝った。

 たすけて。


「落ち着いて」

 ハーバートの声がした。彼は横たわる少女のそばに膝をつき、冷え切ったアミーラの頬に触れる。彼の掌から、じんわりと熱が伝わってきた。

「やはりこうなったか」

 ハーバートはため息をつくと、痛ましい表情で少女を見つめる。

「流石あの人の娘といったところだな。狭間への落下と、僕の時空移動が引き金になったとはいえ……」

 ハーバートは上着を脱ぎ、その厚手の布でアミーラの身体を包んだ。少しでも体温を戻そうとしてくれているようだ。

「……いいかい、よく聞いて」

 覚悟を決めた青年の声を、アミーラは聞きたくなかった。とにかく何もかもが恐ろしく、自分の身に起こった現象を理解しようとすると、思考がよじれ、曲がり、反転していく。

 ひどく混乱した少女に、青年は言い聞かせるように言う。

「君はたった今、強制的に【時空探索者】の権能を得た」

 その言葉に、ぐるぐると眩暈がした。

「さきほど僕たちを時空の狭間に落とした奴らの仕業だ。これから先、君が生きて行くには、時間と場所を自在に飛び回れるようにならなければいけない。恐らく君は狙われているのだろうからね。であるならば、【時空探索者】として、最初の義務を果たす必要がある」




「その義務とは──自身が死ぬ時代に飛び、落命するその瞬間を目撃することだ」





 ハーバートが言うには、ここは太平洋上の小さな孤島らしい。

 草木が生い茂り、さっきから野生動物の鳴き声がひっきりなしに聞こえている。

 乾燥地帯で生まれ育ったアミーラにとって、湿潤な気候はなじみがない。じめじめした空気は落ち着かないが、植物の緑は少しほっとする。

 ハーバートが手際よく起こした焚き火のそばで、アミーラは膝を抱えていた。

「大丈夫かい」

 ハーバートが気遣わしげに声をかけてくる。

「……」

「まあ、気分が良くないのは当然だね。僕も驚いているが、あの人の娘であれば、魔術的才能が目覚めても不思議ではないし」

 言いながら彼が焚き火で炙っているのは、近くで採取した果実だ。甘い蜜のような香りが鼻孔をくすぐる。あいにくアミーラは一切の食欲を感じなかったが。

「ちなみに、当然ながら僕も、自分が死ぬ現場を目撃しているんだが、どうやら『生魚にあたって死ぬ』ようだよ。滑稽だね」

 焚き火にくべられた枝がパチパチとはぜる。アミーラはぎゅっと唇を噛んだ。

「どうして、わざわざ自分が死ぬところを見ないといけないの」

 さわ、と風が吹いた。炎がゆらゆらと形を変える。

「ねえどうして」

「それは──」

 少女の問いに、青年は静かに答えた。

「【時空探索者】は、その能力、権能ゆえに、ある程度の──決して小さくもない──タイムパラドックスを生み出すことが容認されている。けれど、たったひとつだけ、許されないことがあるんだ。それが、『己の死』の回避だよ」

 ハーバートが香ばしく焼けた果実をアミーラに差し出す。少し焦げて破れた皮の隙間から、じゅわ、と果汁が染み出した。

「……いらない」

 彼は黙って果実を引っ込め、言葉を続ける。

「それこそ【時空探索者】が己に課すべき誓約なんだ。『死』は何にでも平等に訪れる。あらゆる生き物、文明、歴史、技術、時間にさえ」

 ぷん、と顔に寄ってきた蚊を、ハーバートはバチンと叩いた。彼の掌で無残に潰れた虫の死骸。

「『その時』が来たら、【時空探索者】は『死』を受け入れなければならない。だから僕は、いつか中毒を起こすその魚を、その瞬間に食すだろう。……あ、ちなみにその魚は、ジャパンで獲れた鯖ということも分かっている。まあ、余所で起きたタイムパラドックスの影響で、僕の死ぬタイミングがずれる可能性もあるけれど、今のところ『ハーバート・ジョージは生魚で死ぬ』が現時点で決まっている結末だ」

「……それって、あなたは怖くないの?」

 アミーラはぼそりと、問いを投げる。

 すると、彼は「はっはっは」と快活に笑った。

「勿論、勿論怖いとも! 恐怖のあまり眠れない夜もあったし、落ち込んで、悲しくて、どうしようもなかった時もあったさ。でも」

 ハーバートはアミーラに顔を向ける。

「僕を見て。僕の目を」

 彼はそうささやいた。


 彼の瞳のなか。

 揺らめく「光の陽炎」。

無慈悲な【時空探索者】の証。


「【時空探索者】の権能そのものだ。この光、君も見えているだろう。君自身の肉体にも満たされているよ。望んだわけでもないのに、一度得たら自分の意思で手放すことは出来ない。忌々しいにもほどがある。だけど、これがいつか訪れる僕の死を保証する。メメント・モリ! 死を忘却することなかれ! 死の肖像画はいつも目の前に架かっている。誇らしく、金の額縁に収まって、ね。いつかそれが僕の誉れになるだろう」

 ハーバートは果実を二つに割った。たらたらと果汁が流れ、彼の袖口を汚す。だが青年は気にも留めず、割ったひとつを自分がかじり、もう片方を再びアミーラに差し出した。

「さあ、良い子なら食べられるだろう? 毒はないし、これで死なないと分かっているから、僕も安心して食べられるよ、はっは」

 その言葉とともに手に乗せられた果実は、余熱を含んでいた。少女は恐る恐る果肉に歯を立てる。熱を加えられた果実は、本来の固さを失って食べやすい。甘い汁がつつ、と顎に垂れた。

「ハーバートは、いちいち話が長い、と思うの」

「自説を垂れ流さずにはいられないんだ。これでも学者なものでね」



「さて」とハーバートは言った。

「とにかく、君が最初の義務を果たさないことには、好きに時空の移動をする権利が得られない。この島から脱出するためにも、やるなら早いほうがいい」

 焚き火に暖められたとしても、身体には未だ硬直が残っている。恐怖も、怖気も、そのままだ。

ハーバートはまだ上着を貸してくれていた。それだけのことがアミーラを励ました。なぜだろう、彼のどこかに、父を感じるからか。顔立ちも、話し方も、全く似ていないのに。

「……やりたくない、けど、どうすればいいの?」

「はじめのうちは僕が補助をしよう。君はただ、君が死ぬ瞬間に目を開けているだけで良い。権能を得ただけで、君にはひとつの技術すらないからね」

 ハーバートが座標を設定し始める。


「……ん? なんだこれ」


「おかしい……妙だな」


「いや、これで正しいはずなんだが……」


「こっちの方法を試すか」


「ふむ──なにがどうなっている」


 ぶつぶつと呟く青年。何やら謎の試行錯誤をしたらしい彼は、ちら、と少女を見やった。

 アミーラの顔が引きつる。

「あの、その様子を見ていると、私も不安になってしまうのだけど」

「うーん……」

 ハーバートは首をかしげていたが、しばらくして首の角度を戻した。

「この世には、理解の及ばない事象なんて山ほどあるからね。じゃあ行こうか」

 少女が「ちょっと待って」と言う間もなく、二人はアミーラが死ぬ瞬間へと転移した。







『あがめ讃えよ』


『あがめ讃えよ』


『あがめ讃えよ!』


『簒奪こそ継承なり! 改竄こそ正統なり! 罪悪は反転し、救世と滅亡の王女は降臨せり!』


『金の枷を王女に捧げよ! 銀の楔を王女に捧げよ! 簒奪と改竄の冠を戴く者に、虜囚と傀儡のくびきを捧げよ!』


 祭壇の上。

 少女の繊細な両手は、金の鎖で縛られていた。

 少女の華奢な両脚は、銀の杭で縫い止められていた。

 粘性の臭気を放つ王冠が、彼女の頭蓋を締めつけていた。

 割れる。

 そのすさまじい圧力によって。

 みしみし、と軋む音が大きくなり、アミーラの頭蓋骨は、バキンと破壊された。

 少女の中から、悲鳴とともに溢れ出る「光の陽炎」が、うねり狂って、ちりぢりに引き裂かれる。権能の実体、時空の神がもたらしたはずの福音は、なすすべもなく少女の肉体から失われ、さらに全ての時間、全ての場所に存在する【時空探索者】からも失われた。替わりに生まれた空洞に入り込むのは、神を冒涜した者たちが唱和する『あがめ讃えよ!』という、汚らわしい礼讃だ。

 神格を簒奪したのは、ひとりの少女だった。

 時空を改竄したのはひとりの少女だった。

 だが、彼女の意思ではなかった。

 アミーラはただの容れ物に過ぎない。

 世界の法則を閉じ込め、意のままにするための、枷であり楔、新しい神の偽物だ。

 彼女は選ばれたのだ!


 あがめ讃えよ! あがめ讃えよ! あがめ讃えよ!






「うっ──」

 ハーバートが口元を抑えるも、耐えきれずに嘔吐するのが分かった。びちゃびちゃと汚い水音が響く。

 二人は焚き火のそばに戻ってきていた。

 アミーラはというと、さきほど目の前で砕かれた己の頭蓋骨が、ちゃんともとの形を保っていることを、思考の隅で確かめていた。端から見れば、ハーバートと大差なく、胃の中のものを全て吐き出す羽目になっていた。

「あれが──君の……『死』……? そんな馬鹿な」

 ぜいぜいと苦しげに息をする青年は「だってあれはまるで」と言ったものの、次に続けるべき言葉に戸惑い、はくはくと唇を震わせる。

「いや、ならば──あれが結末だとしたら、あのようなことがあってはならない。起こってはならない。奴らの悲願を成就させてはならない。まだ結末には至っていない……」

 ハーバートは、蹲っているアミーラに近寄った。

 少女の顔は蒼白で、気の毒なほど感情が抜け落ちていた。

「アミーラ」

「……」

「アミーラ、聞こえているね。今、僕たちが見た光景は、君の未来として訪れる。日付を確認したが、およそ1年後だ。だが、既に確定した結末であれば、僕を含めた全ての【時空探索者】は、すでに能力を使えなくなっているはずだ。でもそうなっていない。つまり、まだ【仮定】の段階で食い止められている。ギリギリのところでね」

 その言葉を理解したのか否かはともかくも、アミーラは呆然とハーバートを見上げた。

「わたし……ああなってしまうの? だったら、いまここで……そのほうが──」

 ハーバートは首を振る。

「駄目だ。君の自死は奴らによって阻止されるだろう。それに、どうやら君は神にだってなれる器らしい、死のうとしたって望み薄だろうさ──」

 青年は力尽き、ばったりと倒れ込む。

「僕ともあろう者が、考えがまとまらないなんて……。とにかく他の【時空探索者】に連絡しなければ──そうか、あの人はこのことを言って──であればまだ望みがある……はずだ」

 ぶつぶつと呟いていたハーバートは、少女のすすり泣きで我に返った。

「アミーラ……」

「やだ……帰りたい……っ、お父さんとお母さんに会いたい。【時空探索者】なんて知らないもん……っ、死にたくない、怖いよぉ、お家に帰りたいよぉ……っ」

 えーんえーんと泣きじゃくり始めた少女に、青年はおろおろした。ついでにかつての自分が、自分の死を目撃したときの荒れようも思い出し、最悪な気分にもなった。久しく感じることのなかった感覚だ。時間旅行や研究に、己の命と日々を費やすあまり、人の心や感情の機微が失われがちなのは、【時空探索者】にはよくあることだ。そうでなければ、正気のまま時空と時空の移動に耐えられないからだ。

 ハーバートはこめかみを抑えながら考える。

 このままでは世界が終焉を迎えるだろう。

 急いで行動すべきだが、焦ると全てが台無しになりかねない。

 とにかく情報が足りないのだ。全時代、全世界の【時空探索者】と連携する必要がある。


「アミーラ」

 ハーバートは、少女の手を取った。

「君のお父さんに会いに行こう」

「……えっ?」

 アミーラの瞳からはとめどない涙が落ち、声は掠れ、鼻水も垂れている。ハーバートは服の袖で少女の顔を拭いてやりながら告げた。

「少し前の時代に遡れば、会えるはずだ。彼も【時空探索者】だから、タイムパラドックス的な事情を話しても問題にならない。だから、助言をもらいに行こう」

 青年の言葉に、少女は戸惑いを隠せぬまま、うなずく。



 アミーラ15歳、その死は1年後。

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