煙たい男
裃左右
煙たい男
『煙たい男』
大学で最近、やたらと纏わりついてくる男がいた。
ひどく、煙たい男だった。
褒めてくるのだ。頭の良さ、言葉選び、服のセンス。あらゆるものを、過剰なまでに。
そして、必ず最後にこう続けて来る。
「あ~、あなたに嫌われたくないなあ、でも言っていいですか?」
「それって、もっとこうしたほうがいいですよ」
「それは良いことなのだから、喜んだほうがいいですよ」
善意の顔をして、彼は俺の思考を、感性を、行動を、一つ一つ決めつけ、がんじがらめにしていく。
「あなたは、どうせボクの意見なんて『勝手にお前がいったことだ』というのかもしれませんが」
「人の好意は受け取らないとダメですよ」
「おや、あなた。……実は、具合が悪いんじゃないですか? 疲れてます?」
ぬるり、ぬるり。
友人たちに相談しても、「考えすぎだ」と笑われるだけ。
どうにも、息苦しい。不思議と、彼に関わり始めてから、俺が一生懸命やっていたことは、何一つうまくいかなくなっていく。
「そうだ。こうしたら、お金を集められますよ。さあ、やりましょう」
ある日、彼が持ち掛けてきた話に、俺ははっきりと「いやだ」と答えた。それは、俺のやり方ではなかったからだ。
すると彼は、心底がっかりしたという顔で、悲しそうに眉を下げた。
「せっかく『こうしたほうが良い』って、言ってあげているのに」
「――やっぱり、体調が良くないんじゃないですか? ほら、疲れてるんでしょ?」
勝手に決めつけないでくれ。
しかし、何度も「お前は間違っている」「正常じゃない」と言われ続けると、本当に、そんな気がしてくる。
苦しい。誰か、助けてくれ。
そんな理解されない
サークルに名前だけ所属している、変わり者。
廃墟巡りに、いわくつきの品々の
――
珍しく部室にいた彼になぜか飲みに誘われ――気でも迷ったのか、俺は一緒の席に着く羽目になった。
***
「ほほう、それは“呪い”だね」
何を言われたか、一瞬わからなかった。
呪い?
思わず、手にした焼き鳥の串を取り落としそうになる。安っぽい居酒屋の、ベトついたテーブルに、思わず手をついた。周りの喧騒が、ふっと遠のく。
「……呪い、ですか。またまた、冗談やめてくださいよ、孔舎衙先輩」
乾いた笑いを返す。
されど、読みにくい苗字の、この変人。
反応を意にも介さず、ちびりと熱燗を舐めた。首から下げている、奇妙な形のペンダントがちりり揺れた。
「冗談で言うものか。私にはわかるんだよ、
「削り取られる、って……」
「そうさ。
先輩の濁った瞳は、酔っているのか醒めているのか。薄暗い照明の下ではよくわからない。
「最初に褒めちぎるのは、麻酔みたいなものさ。褒められて気分が良くなると、人間、心のガードが甘くなるだろ? 」
「全然、褒められても、良い気分になんてなっていませんけど?」
無理解な称賛なんて、気色が悪い。下心を感じれば、なおさらだ。
「まあ、君はそうなのだろうね。でも……褒められたせいで、無下にもしずらいだろう。世間体的というやつさ。この隙間に、『こうしたほうがいい』『君はこうあるべきだ』っていう、其の価値観を直接、脳に注射してくる。褒めることで、君の動きや思考を鈍くして支配しているわけだね」
注射、という生々しい言葉に、背筋がぞくりとした。
言われてみれば、そうだ。あの男に会った後は、いつも頭がぼんやりして、自分の考えがわからなくなる。
……自分の頭がおかしくなったんじゃないか、って。
「
「……どうして、そんなことを」
「さあね」と先輩は肩をすくめる。
「単に“人をコントロールしたい”という、そんな歪んだ支配欲か。それとも……君から何かを“奪おう”としてるのかもな。才能、運、気力……あるいは、君という“存在”そのものを、自分のものにしたい、とかね。善意の顔をした、一番効率のいい乗っ取りさ」
「体調が悪いんじゃないか」というのは常套句だ、と先輩は言った。
相手の自己肯定感を削り、正常な判断力を奪うための、古典的だが効果的な呪文。何度も言われりゃ、本当にそんな気がしてくる。そうやって弱らせて、君を操り人形にするのだと。
孔舎衙先輩は、おしぼりで作った人型を、指でへにゃへにゃと動かしてみせた。
なんだか、吐き気がした。友人たちには、「考えすぎ」と言われた出来事が――生々しく分析されて――実体を帯びて迫って来る。
手術後に麻酔が切れたら、こんな気分だろうか。
善意のフリをされたなら、こちらは何もできないのか?
「じゃあ、俺は……どうすれば……」
「決まってる」
藁にもすがる思いで尋ねると、孔舎衙先輩は、ふっと、面白そうに口の端を吊り上げた。
その
「簡単さ。呪いには、呪いを以て制す。それが、古来からの
「呪いを、呪いで……?」
「そう。呪いは返せばいい。形がない相手なら、形を与えればいいのさ」
意味の分からないことを嘯きながら、孔舎衙先輩はおもむろに小さな桐の箱を取り出した。
中から現れたのは、古びた
それを、俺の手に握らせた。ひんやりとした、滑らかな感触。
「いいか、よく聞け」と、先輩は身を乗り出し、声を潜めた。
「次にそいつが、君に何か決めつけるようなことを言ってきたら、それを差し出して――」
「差し出して?」
思わず、唾をのむ。ごくり。
「まったく関係のない、意味のわからない単語を、三回だけ、そいつの目を見て、はっきりと言うんだ」
それだけ言えば、満足と言わんばかり。互いに離れる距離。
孔舎衙先輩は、人を食ったような、とぼけ顔でまた熱燗をちびちび舐める。
「はあ? ……意味のわからない単語、ですか?」
「そう。例えば……ふむ。『アスパラガス、アスパラガス、アスパラガス』とかな」
アスパラガス。
あまりに馬鹿馬鹿しい提案に、俺は言葉を失った。
「馬鹿げてると思うだろう? それがいいんだよ。意味のない言葉を返せ。そして、こう言うんだ。『之を、最近拾ったのだ。なんだか、貴方に似てると思って』とね。そう言って……くれてやれ」
「は……はあ……」
出るのはため息めいた、困惑ばかり。
「いいかい。重要なのは、その時の君の“目”だ。――其を、それはそれは哀れな、何か“得体の知れないモノ”を見るような目で、見てやることだ。君が今まで、されてきたようにね」
「そんなこと、したって……」
なにも意味がないんじゃないか?
でも、藁にもすがりたい今の俺には。
――この奇妙な“処方箋”が、なぜかとても力強く思えた。
たぶん、酔っていたのだ。このじめっと妙な空気と……染みこむような語り口調に。
***
翌日、大学の図書館で本を探していると、案の定、背後からぬるりとした声がかかった。
――例の男だった。
「やあ、三田先輩。奇遇ですね。やっぱり、あなたは勤勉だなあ。素晴らしいよ」
来た。麻酔だ。
俺は唾を飲み込み、ゆっくりと振り返る。
「でもね、三田先輩。ボクはあなたに嫌われたくないけれど、思うことがあるんですよ。きっと――」
男が、得意げに持論を展開しようとした、その瞬間。
俺は、例の根付を取り出し……彼の目を、じっと見つめて、言った。
孔舎衙先輩に教わった通りに。
哀れな、可哀想な、“ヒトではないナニカ”を見てやる目で。彼の目をじっと見つめて、こう言った。
「……メロンパン、メロンパン、メロンパン」
饒舌な口が、ぴたり、と止まった。
男の顔から、作り物めいた笑顔が、すうっと消えていく。
そして、代わりに現れたのは――今まで見たこともない、能面のような、無表情。黒い瞳の奥で、何かが、チリ、と音を立てショートした……ような気がした。
怖くなって、すかさず言って押し付ける。
「最近、これを拾ったんだよ。……なんだか、君に似てると思って」
男が、それを黙って受け取ったのを見て。
俺は、そこから一目散に逃げだした。
――それから、ぴたりだ。
あの男を、大学で見かけることはなくなった。
あれほど執拗に、ぬるりとした偶然を装って現れていたのが、嘘のように。ぬるりとした視線も、善意の皮を被った呪いの言葉も、もう俺を苛むことはない。
心に、久しぶりの安寧が訪れた。息が、深く吸える。
自分のしたいことに、ようやっと集中できそうだった。
だが、一点。説明つかない、奇妙な部分があった。
「なあ、最近さ、あのやたら褒めてくるやつ、見ないよな?」
友人たちは、きょとんとした顔でこちらを見返した。
「え? 誰それ? そんな奴、いたっけ?」
「さあ? わかんね。誰、そいつ」
馬鹿な。あいつは、俺たちの輪の中に、いつも巧みに入り込んできていたはずだ。
一人だけではなかった。ゼミの仲間にも聞いてみたが、誰もが「そんな男は知らない」と首を傾げるばかり。
言われてみれば、俺自身。
……あれだけ忌々しく思っていた男の、名前も、学部も、顔の細部すら、霞がかかったように思い出せないことに気づいた。
ただ、人の好さそうな笑顔で近づいて来た。言葉だけは丁寧だった。そんな印象だけが残る。
どうにもこの正体を確かめたくて、俺は、あの風変わりな先輩――孔舎衙ジロウを探した。
されど、あの人もまた、神出鬼没。
サークルの部室を覗いても、いつも空振り。滅多に見かけない彼を捕まえるのは、骨が折れた。
数週間が過ぎ、諦めかけた頃。
学生食堂の隅で、一人。
見つけたのは、古書を片手に、冷奴単品を箸でつつく変人。こんなことを学内でするのは、この世に一人しかおるまい。
「せ、先輩! よかった、やっと会えました!」
俺は息を切らしながら、テーブルに駆け寄った。
孔舎衙先輩は、ゆっくりと顔を上げた。濁った瞳が俺を捉える。
「……ああ、三田くんか。珍しいね、君から声をかけてくるなんて」
「先輩、聞いてください! あの男、いなくなったんです! でも、誰もあいつのこと、覚えてなくて……」
俺は矢継ぎ早に問いかけた。
だが、孔舎衙先輩の反応は、予想とはまったく違うものだった。
「……男? 呪い? さて、なんのことかな」
「とぼけないでくださいよ! 先輩が、俺にあの根付を……!」
「根付ねぇ? ふーむ。なんだい、それは?」
孔舎衙先輩は、眉間に皺を寄せ、本気で思い出そうとしているようだった。やがて、諦めたようにため息をつくと、俺の目をじっと見つめ。
――シンと沈んだ声で言った。
「さあねえ。果たして、そんなものを、私が君に渡したかね」
脳天を殴られたような衝撃。
あの居酒屋での会話も、あの不気味な根付の感触も、俺ははっきりと覚えている。
「い、いや! 先輩が、俺にくれたんじゃないですか! 『アスパラガス』って言え、とか……」
「アスパラガス? ほう、美味そうだね。私はベーコンで巻いて炒めるのが好きだが」
さっきから会話が、噛み合わない。
「でも」と、さらに言い募ろうとする俺を遮るように。
孔舎衙先輩はふっと、憐れむような、あるいは面白がるような……奇妙な非左右対称な笑みを浮かべた。
「君、あれだよ。ひょっとすると……
―――つかれていた?
疲れていた、とは違う。妙に耳に残るニュアンス、発音だった。この言葉が耳奥で、異様に反響した。
次第に頭が、真っ白になっていく。何が本当で、何が嘘なのか。現実の足場が、ぐにゃりと崩れていくような感覚。
呆然と立ち尽くす俺を残し、孔舎衙先輩は「じゃあね」と軽く手を上げると、するりと人混みの中に消えていった。
狐につままれたような気分で、食堂の座席に崩れ落ちた。
一体、何が、本当だったのか。
「あっ!? そうだ!」
唐突に思い出す。あの男との、やり取りの履歴。確か、あったはずだ。
確かめたくて、俺は、震える指でメッセージアプリを開いた。
スクロールしていくと見慣れないアカウントが、一つだけ、ぽつんと存在していた。
アイコンは、真っ黒。
名前は、□□□□□□□と、文字化けして、なぜか読むことができない。
「……なんだよ、これ」
開いてみるトーク履歴。
そこには、俺から送ったメッセージ、何一つない。
一方的に、メッセージが、画面を埋め尽くすほどに、延々と、送られてきていただけだった。
そこに、びっしりと、隙間なく、埋め尽くされていたのは。
――ひたすらに繰り返される、たった一つの言葉。
> 憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ憑かれろ
「ひ――っ」
声にならない悲鳴が漏れた。
脳が理解を拒絶。寒気が、背骨を駆け上る。
俺は、あまりの気持ち悪さに、震える指でそのアカウントを長押しした。
「ブロックしますか?」
迷わず「はい」を押す。
「トーク履歴を削除しますか?」
当然、「はい」だ。
リストから、文字化けしたアカウントが消える。
まるで、最初から何もなかったみたいに。なにも異常なんかない。
……そう。何もなかったんだ。俺は、少し疲れていただけだ。
友人たちが言うように、考えすぎていただけなんだ。そうだ、そうに決まってる。
俺は、そう思うことにした。
そんなふうに、記憶に蓋をして。この気味の悪い出来事を、なかったことにするしかなかった。
ただ、それからは……『疲れた』という言葉を掛けられても、やんわり断るようにしている。
――“ケ”無体オトコ(了)
煙たい男 裃左右 @kamsimo
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