五章 鴉を追って【2】

【おもな登場人物】

《ミィラス》

聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年

《パルラ》

聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性





「石碑だわ」


 行灯ランプを掲げたパルラが言う。

 二人は崩れた壁の残骸を踏み越えて、それに近づいた。

 よく磨かれた玄武岩の柱だった。大きさは人の背丈ほど。ミィラスは石のつるりとした表面をつぶさに観察し、手で触れてみるなどした。

 ミィラスの指先が、石碑の表面のわずかな凹凸をとらえた。線、溝――何かが彫られている。

 どうやら何かを示す文様だったが、あまりにいびつな形をしていた。少なくともミィラスの知る意匠ではなかった。だが、彼はその溝を何度も指でなぞり、形状を覚える。もしかしたら、あの魔物を知る手がかりかもしれないからだ。


「それにしても、妙よね」


 パルラが言う。


「こんなところに石碑なんて。壁で塞がれていたし、まるで閉じ込めているみたい」


 その言葉に、ミィラスはまばたきした。


「……そうなのかもしれない」


 彼は石碑にじっと視線を注ぎながら言った。


「この石碑に、あの魔物が封印されていたのかもしれない。そして、アシェラが封印を解いたんだ。これは紛れもなくそういう用途の墓だ」

「アシェラって誰?」


 パルラが首をかしげた。アシェラがベトラ・スーム侯に嫁したのはつい最近なので、それより前に教団に入った彼女は知らないのだ。


「領主夫人だよ」


 ミィラスが答えると、パルラは「分からないわね」と眉をひそめた。


「仮にここに魔物が封じられていたとして、その人がどうやって封印を解いたというの?」

「それは……」


 ミィラスが口ごもると、パルラが疑うような目を彼に向ける。


「何か知っているの?」


 問われ、ミィラスは答えに窮した。パルラの黒檀の瞳は、ごまかしや嘘を許さぬとばかりに彼を射貫いている。

 黙り込んだミィラスに、パルラはため息をつく。


「いい?」と彼女は言う。


「私は魔物に兄を殺されているのよ。魔物がどうやってこの世に現れたか、知る権利があると思うの。そして、唯一生き残ったあなたは、魔物に怯える人のために、知っていることを開示すべきだわ」


 ミィラスは喉の奥でうなった。パルラの言うことはもっともだった。

 そしてさらに、マクールの死に顔を思い出した。一瞬だったけれども、彼はミィラスとともにアシェラに立ち向かってくれた。あのときマクールが盃を投げなければ、ミィラスは窒息死していたかもしれなかった。いわばこの命はマクールに拾われたも同然だ。

 志ある青年だったマクール。道半ばで命を落とした彼の無念はいかばかりだろうか。妹にも会えずに。

 彼のためならば、己の自尊心などいくらでも捨てよう。ミィラスは息を吸い、パルラに向き直った。


「実は――」


 ミィラスは、己が持っていた能力の全てを、アシェラに奪われたことを話した。彼女が、〝力ある言葉〟を使って魔物を呼び出したこと、魔物の発した黒い炎を浴びた者は凍りついて死んだことも。


「なんですって」


 パルラは目を剥いた。


「〝力ある言葉〟を奪い取るって、そんなことができるの?」

「分からない」


 ミィラスは力なく首を振る。


「けれども、私の中にあった〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟はたしかに失われている……」


 ミィラスは、アシェラが現れた夜のことを思い出して、ぞっとした。しかし同時に、あのときの甘い官能がよみがえり、彼の脳をしびれさせる。それはもはや呪いのようなものだった。ミィラスはぎゅっと目をつぶってやりすごす。

 そんな彼を見て、パルラは目を細めた。


「領主夫人はよほどの美人だったのかしら」


 女の勘ほど怖いものはない。ミィラスは素直に、「美しい人ではあった」と認めた。


「ふうん」


 パルラはそれ以上は何も言わない。それがありがたくもあり、情けなくもあった。ミィラスは悄然としながら「上に戻ろう」と言った。

 次の日の朝、宿をひきはらおうとしたミィラスに、従業員がおずおずと近づいてきた。


「お客様、ご宿泊の料金についてなのですが」


 ミィラスの宿泊費用は選王侯が支出していた。彼が亡き今、宿は請求先に困っているのだろう。てっきりミィラスはそう考えたが、従業員は首を振った。


「選王侯閣下は、宿泊費を前払いされました。きっかりひと月分です。お客様は今日で二十日間、お泊まりになりましたので……」


 つまり、残り十日分の宿泊代をどうすればよいかという相談であった。選王侯に返金する手続きもできず、遺族であるはずの領主夫人は行方不明である。

 ミィラスが「施療院と救民院に寄付をしてください」と言いかけたところで、背後から声がした。


「そんなの、もらっちゃえばいいのよ」


 振り返ると、パルラであった。彼女はミィラスが口を開く前に、言葉を続ける。


「今日、あなたがこの街を出て行くんじゃないかって思ったから、来てみたけど、やっぱりね」


 パルラはミィラスをじっと見つめると、すうっと息を吸った。


「魔物を追いかけるのでしょ。私も行く」

「なんだって?」


 ミィラスは眉を上げた。魔物を追って旅立つ――たしかにパルラの言う通りであったが、彼はひとりで行くつもりだった。


「あなたひとりじゃ無理だっていうことよ」


 パルラは言う。


「その怪我した腕じゃ、何をするにも苦労するでしょうし、なにより孤独が一番の毒なのよ。今だって、あなたひどい顔色だわ」


 指摘され、ミィラスは自らの顔に触れた。頬はひんやりとし、血が巡っていないのが分かる。

 しかし、ミィラスは「だめだ」と首を振った。


「君は教団に帰りなさい。そこで修行を重ねて、立派な踊り子になるんだ。マクール殿もきっと――」

「無駄よ」


 パルラがさえぎる。彼女は腰に手をあてて、胸を張った。


「だって、無断で教団を抜け出して来ちゃったのだもの。重大な規律違反だわ。もう私の居場所はないはずよ」

「君は……」


 ミィラスは言葉を失った。


「あのう、それで料金はどうしたら」


 従業員が二人を交互に見比べながら言う。


「施療院と救民院へ寄付を」


 ミィラスの言葉に、パルラが呆れたように苦笑する。


「やっぱり、聖典楽師って融通が利かないわね」


 二人は宿屋を出た。

 ミィラスはパルラに言う。


「私は、君がついてくることには反対だ。何が起こるか分からないし、君に何かあったら、今度こそマクール殿に顔向けができない」


 魔物を追う旅は、いつ終わるとも知れない。よしんば無事に追いつけたとしても、魔物と対面し、真に危険になるのはそこからである。これは身の破滅を覚悟で行く旅なのだ。

 だが、パルラは言いつのった。


「本当は私のこと、足手まといだと思っているんでしょう。でも私はあなたのことを助けられるわ。私、取り柄は踊りだけじゃないんだから」


 パルラは懐から一枚の紙を取り出した。


「これを見て」


 その紙は表面が真っ黒に塗りつぶされていた。だがよく見ると、白く線が浮き上がっている。


「昨日見つけた石碑に刻まれていた模様よ。今朝、写し取ってきたの。石墨を使ってね」


 ミィラスは驚いて、まじまじと紙とパルラを見比べた。


「君ひとりで、氷室へ行ってきたのかい?」

「そうよ。どう? 模様を写し取るなんて、あなたには思いつかなかったでしょう。ひとりじゃなにをするにも限界があるわ。でも、二人なら知恵だって二倍よ」


 パルラの言うことは正しかった。それに、彼女の気丈な明るさに救われている自分がいることを、ミィラスは自覚せざるを得なかった。


「だけど……本当に危険なんだ。君は魔物を見ていない。あれは、いとも簡単に人間の命を奪う……」

「でも、あなたは生き残った。魔物にも奪えない命があるということよ」


 パルラは胸を張り、まっすぐにミィラスを見つめた。


「私はあなたを助ける。ドリード神だって、魔物がこのまま野放しになるのをお望みでないと思うし、立ち向かうのが一人より二人のほうがずっと良いでしょう。私だって神の信徒だもの。これは私に課せられた運命とも言えるわ。だから、私はあなたとともに行く」

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