四章 西翼の鴉【2】
【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《アシェラ》
ベトラ・スーム選王候の妻で、美貌の女性
ミィラスが飛び起きたとき、まだ夜すら明けていなかった。気絶していたのは、ごく短時間のことらしい。
彼は枕元の水差しを手に取り、喉に水を流し込んだ。勢い余ってこぼれ、彼の夜着を濡らす。
水差しを置き、ミィラスは部屋の扉に近寄った。鍵はしっかり内側から閉められている。窓も確かめたが、こちらも施錠されていた。
誰もこの部屋に入れるはずがない。ならば、さきほどの出来事は夢――?
ミィラスはぶるりと震えた。不自然なほどこの部屋は寒い。それにめまいがするし、頭が痛い。
あれほど生々しい出来事が、夢だというのだろうか。あの質感、温度、感触。
アシェラがこの部屋に忍び込み、ミィラスを誘惑した――というのは、現実か否か? ミィラスはつとめて冷静に思考しようとしたが、到底無理であった。そして恐ろしいことに、ミィラスは神に仕える身でありながら、欲に抗うことができなかったのである。アシェラの魅惑的な身体、その体温、ほとばしる色香――彼女にもっと触れたいと、もっと濃密な繋がりを得たいと、思ってしまったのだ。
ミィラスは自らの頬を力一杯叩いた。ばちんと鋭い音が鳴る。その痛みによって、少しは頭がすっきりするかと思ったが、めまいを助長しただけだった。
ミィラスはため息をつき、寝台に腰掛けると、背筋を伸ばした。
そうして朝が来るまで、彼は瞑想していたのだった。
*
ミィラスは宿の者に頼んで、城に遣いを出してもらった。領主夫人に、本日の授業は休講とする旨を伝えるためだ。
彼は部屋でひとり沈思していた。
そのとき、扉が遠慮がちに叩かれた。
「お客様。聖典楽師様」
宿の従業員だった。さきほど白夜城まで伝言に行ってくれた者のようである。
「なにか」
ミィラスが返事をすると、扉の隙間からするりと紙片が差し入れられた。
「さきほどのお言付けのお返事をお預かりしております」
ミィラスは瞬きした。扉に挟まっている紙片を、なにか近づきがたいものを見るかのように凝視する。
「……お客様?」
ミィラスの無言を訝しんだ従業員が、再度扉を叩く。ミィラスは浅く息を吐いた。
「分かりました。お遣いのお礼はこちらで」
扉を細く開けて、従業員の手に硬貨を置く。ふとその額に目をやると、遣いの礼にしてはやや大仰なことに気づいた。が、もう遅い。
嬉々として硬貨を受け取った従業員が行ってしまってから、ミィラスはその紙片の封を切る。そこから綺麗にたたんである紙を開くのに、十呼吸ほど要した。
紙片には、休講を承知する言葉が、可愛らしい筆致で記されていた。さらに、昨夜は一晩中聖典を読んでいたので寝不足であり、本日の休講はこちらとしてもありがたいといった内容も書かれている。ミィラス先生もどうか夜更かしはなさいませんように、と。
ミィラスは紙片を机に置き、腕を組んだ。アシェラの言葉を信じるなら、彼女は昨晩ずっと聖典を読んでいた――ならば、この部屋には来ていない。だとすれば、あれはやはり夢なのか。ミィラスはほっと息をつき、そんな都合の良い自分に気がついて自嘲した。
夢だとしても、あれはたちの悪すぎる悪夢である。
そわそわと落ち着かない心を叱咤し、ミィラスは竪琴を手に取る。身体に染みついて一体となっている〝音楽〟と〝聖典の詩〟が、きっと精神を和らげてくれるだろう。ミィラスの指は滑らかに動き、弦をつま弾く。
彼は〝聖典の詩〟を紡ぎ出そうと口を開いた。
そして、ぴたりと硬直した。
ミィラスはもう一度〝音楽〟を奏でた。
しかし、やはり動きを止めた。
ミィラスの心臓が嫌な音をたてはじめた。額に脂汗が浮かぶ。彼は喉に詰まったものを吐き出すように咳をした。だが、結局のところ喉が詰まっているのではなく、そこにあるべきものがないといったほうが正しかった。
聖典楽師にとって魂そのものともいえる〝聖典の詩〟と〝力ある言葉〟――これらが、ミィラスの中から失われていたのである。
その事実に気づいたことで、言いようのない恐怖がミィラスを襲った。〝聖典の詩〟は精神の臓器。〝力ある言葉〟は精神を巡る血液だ。生ける聖典──聖典楽師は長い修行の末、〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟と一体化している。それらを失うということは、己の肉体を削がれるようなものだった。
しかも〝力ある言葉〟を失うと、カミル語で〝聖典の詩〟を唱えることすら叶わなくなった。会話などは可能であるのに、〝聖典の詩〟だけが、カミル語だろうと出てこない。
ミィラスは、失ったものを求めて虚空に視線をさまよわせた。あるいは、この窮地にドリード神がなにか示唆を与えてくれはしないかと、胸の内で祈ってみたりした。しかし、得られたのは重苦しい沈黙と、胸を突き刺す罪悪感だけだった。
今のミィラスはひれのない魚、または四肢をもがれた獣だった。己を救うすべを知らず、窮状を訴える相手もおらず、存在意義と呼べるものを失った。そして、この状況を作り出したのは、欲に負けた自分自身だということが分かっていた。
「このような機を図って、試されたとでも?」
だとしたら自分は負け、これがドリード神の与えたもうた罰なのだろうか?
であるならば、ひたすら神に仕え、その結果として身につけた〝聖典の詩〟や〝力ある言葉〟を失うということは、たしかに相応の罰かもしれない。
ミィラスは己の信仰心を疑ったことはなかったが、ゆえに、いまこのとき、神に拒絶されたのだということを突きつけられた気がした。
懺悔の言葉を唱えようにも、ミィラスはそれすらも失っていた。
なすすべがないとは、まさにこのことだった。
発作的に卓上の文鎮を手にして己が身に対して振り上げたところで、ぐっと手を止めた。この硬くて小さい金属が、己の何を罰し、何を救うだろうか。無駄なことだ。
ミィラスはしばらくの間、頭の中に吹き荒れる嵐を鎮めようとした。
不安、自責、焦燥。ああ、嘲笑すらそこにある。私は恥じている。これまで当たり前に遠ざけていた肉欲に、呆気なく揺らいだ私を。落ちぶれるのがこうも一瞬だとは知らなかった。教団で罰を受けるのは当然として、聖典楽師の栄誉を汚すのがまさか自分だとは。
だがいま一度、神が私を用いて何かをなされるのならば、信仰の道へ、衆生の救済へ、私を遣わし給うならば、私は誰に誹られようとも構わない。それだけは本当だ。
培った信心までは侵されていない──ミィラスは脱力して膝をついた。
幾分か落ち着きを取り戻し、ミィラスは外に出ることにした。目的は無く、気力も無かった。部屋の中に閉じ籠もるよりはましであろうと思っただけだった。
扉を開けようとして、はたと立ち止まる。扉に手を掛けた自分の服の袖が目に入ったのだ。
聖典楽師は、ひと目でそれと分かる法衣を着ている。ゆったりした袖に、長い裾。加えて彼は竪琴も携えていた。どこからどう見ても、申し分の無い聖典楽師の姿である。
だが、今はもうただの案山子だ。〝聖典の詩〟〝力ある言葉〟を失った自分は、もはや聖典楽師とは言えないし、禁も犯したことだ。
ミィラスは法衣を脱ぎ、竪琴も置いた。そうして彼はただの若者の姿で、部屋を出たのだった。
何者でもない自分、というものが、いかに頼りないものであるか。
雑踏に踏み込んだミィラスは思い知った。人とすれ違うたびに肩をぶつけ、足を踏まれ、悪態をつかれたからだ。法衣を着ていないだけでこんなに違うのかと、彼は目を丸くした。
ミィラスはふらふらと街外れに辿り着いた。せせらぎが聞こえる。そちらへ目を向けると、橋があった。藁束を積んだ荷車や、洗濯かごを持った女たちがゆっくりと渡っていく。ミィラスはなんとはなしに足を向け、橋のたもとに立つ。
川の音が、ささくれた心に幾ばくかの安らぎを与えるだろうか。水面のゆらめきや、流れていく木の葉の舞が、己の心の澱を少しでも洗い流すだろうか。
ふと、すぐ下の川底で、なにかがきらりと光った。魚でもいたのだろうと、ミィラスはそれを無視した。だが光は動かず、彼の目をチカチカと刺し続ける。
ミィラスはまばたきしながら、そちらへ視線を向けた。揺れる水面の下。そこに光を反射するなにかが沈んでいる。
川辺まで降りていき、ミィラスは水の下に目を凝らした。
砂の中から、金属質のなにかが覗いている。ミィラスは水の中に手を入れ、砂利と水草をかき分けた。
姿を現わしたのは、黄金製のロケットだった。彼はそれを拾い上げ、しげしげと眺める。
二枚貝の形を模された小さな器だ。施された繊細な彫金。蓋の部分には一粒の真珠がはめ込まれている。ミィラスはロケットの継ぎ目に爪をかけ、そっと開いた。
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