二章 父の墓【4】

【おもな登場人物】

《ミィラス》

聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年

《ケイラー》

ミィラスの父の友人で、商会顧問であり学者。ミィラスの師でもあった





 その屋敷の前でミィラスは、通りに面した二階の窓に、スミレの鉢が据えられているのを見つけた。スミレは、ミィラスの母が好んでいる花だった。

 扉を叩くと、使用人らしい男が出てくる。男は、聖典楽師が訪ねてきたことにやや驚いた様子で、名と用向きを尋ねた。


「ケイラー先生にお会いしたい。ミィラスと申します」


 ミィラスが言うと男ははっとして、「少々お待ちください」と一度奥へ引っ込む。

 扉が再び開いたとき、ミィラスは懐かしい顔と対面した。


「先生」

「ミィラス……」


 ケイラーは目を見開いて、かつての弟子を見つめていた。


「ああ、もうすっかり立派になったものだ……」


 そう言ってミィラスを屋敷の中に招き入れ、抱擁した。彼の肩越しに、屋敷の使用人たちの顔が見える。その中には見覚えのある者もいて、彼らはミィラスに驚いたような視線を向けていた。


「手紙をありがとうございます、先生」


 ミィラスの言葉に、ケイラーは「すまない」と言う。


「もっと早くに、君の父上が亡くなったことを知らせたかったのだが、なにしろ手紙を送れるのは年に一度と決まっていたからね」

「それに、母のことも」


 その言葉に、ケイラーは痛みをこらえるような表情になった。


「君の母上は……」

「先生が母の面倒を見てくださっているのでしょう。なんと感謝したらよいか」


 ミィラスの瞳がまっすぐにケイラーを見つめる。

 ケイラーは相変わらず苦しそうな表情を浮かべ、元弟子の肩に手を置いた。


「君の父上の事業に関するすべてのことは、母上が相続された。だが私と婚姻したことにより、私が事業を継ぐ格好になった。私は、君の父上が心血を注いで作り上げたものを、乗っ取ったようなものだ」


 ミィラスは眉をあげた。


「まさか、私がそのような考え方をするはずがないと、先生はご存知でしょう。それに、先生の尽力のおかげで、商会の者たちも路頭に迷わずに済んだのです」

「君は優しい。本来なら君が……」


 瞳を揺らすケイラーの手を取り、ミィラスは首を振る。


「先生。もう済んだことです」


 ミィラスの顔は穏やかで、その視線には微塵も非難の気持ちは浮かんでいなかった。だがケイラーはその深い孔雀色の双眸を恐れるように、目を伏せる。

 ミィラスの父は穀物商だった。農民から穀物を買い上げるだけでなく、自らも農園を経営し、収穫して得た作物を各地に卸していた。屋敷は大きく、沢山の使用人を抱え、一人息子だったミィラスは何不自由なく育てられた。

 いずれは父の商売を継ぐことになるミィラスを教育していたのが、商会の顧問であり学者でもあったケイラーだったのだ。ミィラスは彼に商学を学んでいた。

 その報せが飛び込んできたときも、ミィラスは彼の授業を受けていた。


「『呪い麦』……あの騒動さえなければ」


 ケイラーは柱に身をもたせかけ、床の絨毯をにらんだ。大きな絨毯は豪華な逸品だったが、色糸で描かれているものは少々異質である。黒く変色した麦、苦悶の表情を浮かべる人々……。これは、かつて起こった忌まわしい事件を忘れぬよう、戒めとして作ったものだった。


 その年、国のあらゆる場所で、とある病が報告された。人々が幻覚を見たり、ときには手足が痺れたりといった病だった。やがて死者も出始めた。はじめは原因が分からなかったが、患者に共通していたのが、商会から卸された麦を食していたということだった。

 商会の使用人にも病を発症する者が多かったため、ミィラスの父は独自に調査を行っていた。病の正体がドイロカ病――麦に寄生するカビが原因で中毒を起こす――だと分かったとき、役人が店に踏み込んできた。

 引っ立てられていく父の背を、ミィラスは師の後ろから震えながら見つめていた。父はその日帰ってこなかった。

 翌日の夕方、父は憔悴しきって戻ってきた。


「畑を焼き払う。蔵の麦も、すべてだ」


 父は言った。


「世間では、我々の麦が『呪い麦』だと言われている。だから焼き払い、聖ドリード教団に清めの儀式をしてもらうことにした。そしてしばらくは他から麦を仕入れ、それを卸すことになる。すでに教団には〝清めの護符〟を発注してきた」


 商会が麦を売る際には、呪いを浄化する護符を貼らねばならない。そこまでしなければ、〝呪い〟を恐れた人々が麦を買わなくなるからだ。


「他の商会が、我々の取引先を奪いにかかってくるだろう。この苦境をみなで乗り越えるのだ」


 父の言葉に、その場にいた者はみな力強くうなずいた。ミィラスも例外ではなかった。

 だが、父は言った。


「ミィラス、お前を教団へやることにした」


 突然の宣言に、ミィラスは固まった。周りの者たちもざわめいた。坊ちゃんを教団へ? いったいなぜです旦那様?


「何を考えている」


 商会の顧問であるケイラーが、額に青筋を立てながら言った。


「この子を教団になどと。ミィラスはお前の跡を継ぐのだぞ。才覚もある。今この苦難を乗り越える経験をさせることで、将来は商会をもっと大きくするだろう。それだけの才能があるものを、わざわざ芽を摘むというのか」

「今は商会の存亡がかかっている。畑が死ねば芽も出ないのと同じだ」


 父は奇妙な目でじっとミィラスを見つめた。


「多くの無知な者たちは、麦の病を呪いだなどと言って恐れている。そしてそれは、我々が神の教えに背く行いをしたがゆえの天罰だと。我々が? 何をどうしてドリード神に背いただと? 馬鹿馬鹿しいにもほどがあるが、我々がドリード神の敬虔な信徒であると示すためには致し方ないのだ」


「だからといって、この子を生け贄にするのか! それに、ドイロカ病に気づかなかったのは、確かに我々の落ち度だ。失った信頼はすぐには戻らない。だからこそ、そのように短絡的な方法では、根本的な解決には至らないではないか」


「麦の病そのものへの対策など、いかようにも考えようはある。問題は人々の間で流布する風評なのだ。あくまでも心情だよ。そこに道理など存在しない!」


 二人の口論はしばらく続いた。ミィラスは母のほうを見た。彼女は夫の考えに、賛成も反対も表明しなかった。ミィラスはそのことに失望を覚えた。母なら、息子が教団に行くことに反対してくれるのではないかと、期待していたからだ。

 ミィラスにとって、作物のことや商売を学ぶのは面白いことだった。いつか自分も父のように、立派な商人になりたいと思っていた。父も本当はそれを望んでくれているはずだったし、師ケイラーは弟子に一番の期待をかけていた。店で働いている者たちだってそうだ。……そのはずだ。

 しかし、いま自分に求められているのは、もはやそういうことではないのだ。

 ミィラスは一歩前に進み出て、父と師に告げる。


「僕、聖ドリード教団に行きます」

「ミィラス……」


 ケイラーが少年の肩に手を置いた。


「分かっているのか? 教団の神職になるというのがどういうことか」


 正直なところミィラスにはよく分かっていなかった。だが、街でたまに見かける教団所属の神職たちが、人々に敬われていることは知っていた。

 つまり、〝呪われた〟一家から、そういった立場の者が出るということが、きっと重要なのだろう、とミィラスは理解していた。

 少年は心の中で、それまで思い描いていた将来に別れを告げる。もう農園で麦や作物の成長を見守ることも、市場で商人たちのやりとりを見ることも、商会で働く者たちと語らうこともなくなる。

 ミィラスは、これから瑞々しく枝葉を伸ばすはずだった芽を、自身の手で摘み取ったのだった。


「僕は教団に行きます」


 少年は再び言った。

 そのとき父はどんな表情をしていただろうか――

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