一章 聖典楽師【3】
【おもな登場人物】
《ミィラス》
聖ドリード教団で若くして聖典楽師となった、孔雀色の瞳が印象的な青年
《カトゥス塔長》
聖ドリード教団の「竪琴の塔」の監督者
《パルラ》
聖ドリード教団に所属する踊り子で、快活で強気な女性
《サムシィ》
ミィラスの年上の友人で、聖典楽師
《エヌス司祭長》
聖ドリード教団の最高指導者
ミィラスは大聖堂に戻り、〝踊り子の塔〟のファリナ塔長に会ったあと、〝竪琴の塔〟の最上階までのぼった。天井には大きな滑車が取り付けられている。そこからぶらさがる縄を引くと、ガラガラと音をたてて、屋根の上から〝リィンの竪琴〟が降りてきた。
たしかに、弦が三本切れていた。
ミィラスはそれらを、工房で手に入れた新しい弦に張り替える。ネジを巻く微妙な力加減によって全く音は変わってしまうので、音への理解が深くなければならず、また通常とは異なる大きさの竪琴を扱う難しさもあった。
しかも弦と弦の隙間に風が通るとき、〝リィンの竪琴〟は清らかな音をたてる。もし調弦を誤れば、風が吹くたびに狂った音律が聖堂中に響き、〝竪琴の塔〟の者は大恥をかくというわけだ。たしかに見習いの者には難しかろう。
ミィラスは正確に調弦を済ませた。滑車を回し、〝リィンの竪琴〟を再び屋根の上に掲げる。これで元通りだ。
耳を澄ますと、そよ風に弦が震えるかすかな音が聞こえてきた。ミィラスは自らの調弦に納得し、階段を降りる。
地上に降りたところで、「よっ」と声を掛けられた。振り返ったミィラスは顔をほころばせる。
「サムシィ」
手を振りながら近づいてくるのは、〝太鼓の塔〟に属する聖典楽師だった。ミィラスにとっては、同じ年に聖典楽師になった同期である。見習いになったのはサムシィのほうが五年早くしかも八歳年上で、後輩で年下のミィラスが追いついてしまったことになるのだが、そのことで気を悪くしたりしない、朗らかで気の良い友人だ。
彼は、ここ半年ほど地方の小聖堂に派遣されており、会うのは久しぶりだった。
「いつ戻ったんだ? ……少し肥えたんじゃないか」
ミィラスは、やや横幅の増した友を見ながら言った。
サムシィは「昨日帰ってきた」と腹をさすりながら答える。
「向こうは飯が旨くてな。聞けよ、新鮮なユン魚が食えるんだぞ。それだけじゃない……」
サムシィは、派遣先で受けた接待で、出されたご馳走がどんなものか、指折り数え話して聞かせた。清流でとれた魚の刺身に、甘酸っぱい果物のジャム、乳酪をたっぷり塗った肉……。
「良かったじゃないか」
ミィラスは微笑んだ。
「だけど、贅沢してきたと知れたら、そっちの塔長にしぼられるぞ。その腹をひっこめないとな」
「そうなんだよ」
サムシィはしゅんとうつむいてみせた。だがすぐに笑顔になり、「お前に土産だ」と言って、懐から紙包みを出した。
「これは?」
「ふっふ、まあ開けてみろって」
受け取ったミィラスは、包みをそっと開く。すると、香ばしく甘い匂いがふわりと広がった。中に入っていたのは、小麦の粉を練って焼いた菓子である。砂糖――しかも高級な白い砂糖だ――がまぶしてあって、それが五個ほど。
「ご馳走の思い出話、その口止め料さ」
サムシィは片目をつぶる。ミィラスは呆れた。
「賄賂は受け取らないぞ。それにこんなに高そうな……」
「土産だって言ってるだろ。お前は堅いな。質素倹約に努めすぎて甘味の味を忘れるなんざ、つまんないぜ。これは年上としての、人生の助言だ」
サムシィは掌で包みをぐっとミィラスに押しつける。ミィラスは苦笑しながらありがたく受け取り、服の中に隠した。大聖堂ではみな慎ましく質素に暮らしているため、菓子を隠し持っていると知れたら面倒だ。匂いが漏れても厄介なため、ミィラスは法衣の襟元をいつもより深く重ねる。
そのとき、昼の礼拝の時間を知らせる鐘の音が鳴り響いた。
* * *
本堂に入るとまず目に飛び込んでくるのは、細かい陶片を並べて作った色とりどりのモザイクである。床に描かれたそれは二面に分かれていて、片方には花や樹木のような植物、鳥や猪、鹿などの獣、魚、虫、人間、この世のあらゆる生き物たちが描かれている。これはつまり『此岸』、命の世界を表現していた。
もう片面はどこか穏やかに、安らかな人間たちが描かれ、祈るように上を見上げている。これが死後の世界である『彼岸』を表す。
そのまま上に視線をやると、今度は硝子と金細工と七宝の天窓がある。ドリード神の住まう世界、命を終えた者が彼岸でしばらく過ごしたのちに迎えられるその場所は、『天上界』と呼ばれ、常にまばゆく輝いているという。本堂の建築は、そういった信仰の教えを表していた。
ミィラスは他の神職たちと同じく静かに整列していた。
「なんか甘い匂いがしないか?」
背後で囁かれる声に、ミィラスは素知らぬ顔をするしかない。
礼拝が始まる。
祭壇の前には司祭長と四人の塔長が立っている。彼らはめいめい手に持った香炉の中から灰をひとつまみ取り出し、祭壇の上のドリード神像にふりかけた。
「この世を創造したまいし我らが父、天上地上の主、尊くかぐわしき御身……」
エヌス司祭長の声が低く鳴響する。
ミィラスは、聖典の文言が我が身の内から、泉のように湧き出でるのを感じた。
塔長たちがさっと、楽器や己が身体を構えた。
竪琴。十本の弦があり、扱いは繊細である。
笛。口で吹くのではなく、蛇腹状のふいごで空気を押し出す。
太鼓。叩きようによって、多彩な音が出る。
舞。踊り子は肉体でもって神の教えを表現する。
大聖堂におけるドリード神への礼拝は音に満ち、舞踊で彩られている。他の小聖堂ではこうもいかないので、時折サムシィのように派遣される者がいるというわけだ。
列の後方では、見習い少年たちが必死に聖典と楽譜の頁をめくっていた。彼らにとって、複雑で難解な書物を頭に叩き込むのが、一番重要な修行なのだ。
一方で、ミィラスたち聖典楽師は全て正確に暗記している。
つまり「生ける聖典」である。
精神に〝聖典の詩〟、肉体には〝音楽〟を刻み込む。そしてそれは完全でなくてはならない。その域に達するには、膨大な年月の努力か、限りなく恵まれた素養か、あるいはそのどちらもが必要である。なぜなら〝聖典の詩〟は〝力ある言葉〟によって成り立っているからだ。
〝力ある言葉〟はかつて、ドリード神が人間に与えたという特別な言葉であり、不思議な魔力を持っているという。
見習い少年たちは聖典を学ぶことで一人前の神職となるが、聖典楽師まで至るとなると話は別だった。ほとんどの者が〝力ある言葉〟の習得に挫折してしまうからだ。そうして彼らは一般的なそれ以外の神職に収まるか、還俗して市井の楽士に転身していくのである。
礼拝は厳かに、滞りなく終了した。このあとは慎ましやかな食事の時間である。
ミィラスは廊下の隅に、パルラの姿をみとめた。彼女は食堂へ向かう列には加わらず、他の踊り子たちと別れて反対の方向へ歩いていく。
風がふき、パルラの肩から、踊り子が身につける紗が滑り落ちた。彼女は気づかずそのまま歩き去って行く。ミィラスは吹き流されてきた紗を拾い上げ、彼女の後を追いかけた。
「パルラ」
声を掛けると、彼女はぱっと振り返った。ミィラスと、その手にある紗を交互に見つめ、己の肩にあるべきものがないことに気がつく。
「ありがとう」
パルラは紗を受け取り、礼を言うが、その声はそっけなかった。
「食堂に行かないのか?」
ミィラスが尋ねると、彼女は肩をすくめる。
「誰かさんが、ファリナ塔長に報告をしたおかげで、お昼ご飯抜きなのよ。でもいいの。私は空きっ腹を抱えて、お散歩でもして時間をつぶすから。それとも、そのへんの鳥でも捕まえて焼き鳥にしちゃおうかしら」
「ここでは無闇な殺生は禁止だよ」
ミィラスが言うと、パルラは「分かってるわよ」と彼を睨んだ。
「私、小さな羽虫だって殺さないわ」
ミィラスは微笑み、懐から紙包みを取り出した。
「お腹が空いているなら、これをどうぞ」
「なに?」
差し出された包みの中を見たパルラは、「まあ」と声を上げた。
「お菓子だわ。どうしてあなたがこれを持っているの?」
ミィラスは言葉に詰まり、「……友人がくれたんだ」とだけ言った。
パルラはにやりとした。
「このこと、〝竪琴の塔〟のカトゥス塔長に報告してもいいかしら」
ミィラスは苦笑した。
「罰則は見習い時代に散々受けたからね。慣れているよ」
パルラは「冗談よ」と言った。
「私はあなたと違って融通が利くの。お菓子、ありがたくもらうわ」
パルラは手を振り、軽い足取りで去って行った。ミィラスは、せっかくのサムシィの厚意には悪いと──ひとつくらい食べておけば良かったなと──思いながら食堂へ向かった。
* * *
他の神職がそうであるように、ミィラスもまた日々の糧とドリード神に感謝の祈りを捧げてから、食事に手をつける。ほどなくして、カトゥス塔長がミィラスのもとへやってきた。
「食事を終えたら、司祭長室へ行くように。いいかね」
ミィラスはきょとんとした。
「それは……いったいどういうご用なのでしょうか」
「行けば分かる」
カトゥス塔長はそれだけ言うと、去って行った。彼にしてはずいぶんと端的である。
突然のことに、ミィラスはやや動揺していた。
まさか菓子のことが耳に入ったのか? いや、それしきのことで司祭長室に呼び出されるわけがないし、なおさらカトゥス塔長の指示が短く収まるわけもない。もっと別の理由があるはずだ。
彼はスープを口に運んだが、味はしなかった。できればゆっくり食事をしたかったものだが、くつろげる心持ちでもなくなっていた。仕方なくスープを飲み干し、席を立つ。
司祭長室に向かう廊下を歩いていると、どうにも靴音がやけに大きく響く気がする。
教団の最高指導者である司祭長は、普段から多忙の身だ。だから滅多に話すことはない。
隅々まで拭き清められた大理石の床に、ミィラスの姿が逆さまにうつりこんでいた。彼は足許を見下ろしながら、己の固く緊張した顔と向かい合う。
いったい何の用だろう。
司祭長室の前に着き、ミィラスは息を吸って扉をトントンと叩いた。
「入りたまえ」
司祭長の声がする。ミィラスは扉を開け、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。
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