記憶の旅(5)終焉の神 ※
「リア!」
ソルド・マーチの視線に気付いたヴァニル・エルシュナは、悲鳴のように娘の名を叫ぶと、ありったけの氷の塊をソルド・マーチの頭上から落とした。
ソルド・マーチの視線が遮られた隙に娘に駆け寄り、その体を庇うように胸の中に抱きしめる。
〔愛! 愛とな、ヴァニル・エルシュナ。はは、滑稽なことよの〕
抱きしめられたリアは、母の肩越しに、氷塊を払い除けながら愉快そうに笑うソルド・マーチの姿を見つめていた。
ソルド・マーチは右手を高らかと持ち上げた。
すると、先刻ソルド・マーチを象ったのと同じ何本もの青暗い光の帯が再び現れ、その手を中心に、グルグルと円を描きはじめた。
〔愛。それがいかほどのものか、吾が見定めてやろうぞ〕
ソルド・マーチは、娘を抱くヴァニル・エルシュナの背中を目掛けて一斉に帯を放った。
まるで剣のように鋭い切っ先が、ヴァニル・エルシュナの背中に次々と突き刺さる。
「ああっ!」
「母者!」
背中から血が吹き出した。しかし、刺さった深さはさしたる問題ではなかった。
帯は、その触れた部分から脈打つように、ヴァニル・エルシュナの肌を青黒く汚していったのだ。
〔其れが汝の全身を満たししとき、汝は星にも還れず塵と化すであろう。
だが、吾は寛大である。汝が、そこな穢れどもを星に還すというのなら、汝を許そうぞ〕
「貴様……母者になんてことを!」
〔はしゃぐな、穢れの娘。
ほれ、疾く選べ、ヴァニル・エルシュナ。
汝が知ったという愛とやらゆえに塵となるか? さりとて、汝が去ればこの地上は、再び愚かな愛で満ちるだろうよ。次に手足を捥がれるのは、そこな娘やもしれんぞ〕
「──ッ!」
ドクリ……と脈打つように青黒いものが体に広がり、ヴァニル・エルシュナは声にならない叫びをあげた。
「ヴァニル!」
穴の開いた腹を抑え立ち上がったノルダンだったが、
〔貴様は呼んでおらん。煩いのお、沈んでおれ〕
再びソルド・マーチが放った槍に、今度は右の胸を貫かれ、白目を剥いて倒れた。
〔しかしその傷で星に還らんとは──トグルマルの血が濃いのかの。どこまでも忌々しいことよ〕
「父者! 父者──!」
取り乱す娘を、ヴァニル・エルシュナは再びギュッとその胸に強く抱きしめた。
そして、夫によく似た形の娘の耳にそっと唇を寄せると
「リア、お願い、リア。落ち着いて」
と囁いた。
「母者?」
「聞いて、リア。これから何があっても、どんな時も母者はいつも貴女の傍にいるわ」
「母者、何を──」
左手でリアを胸に抱きなおすと、ヴァニル・エルシュナは痛みに顔を歪めながら右手を高らかと持ち上げた。
〔決めたか?〕
「ええ」
背後からのソルド・マーチの問いに応えるように、ゆっくりと顔を上げ天を仰ぐ。
「この地の最後の神として、すべきことをするわ」
ヴァニル・エルシュナの見上げる先から、ヒラヒラと雪が舞い落ちてきた。
〔ほらの。所詮、愛とはそのようなものよ。
さあ、我が娘よ。地の全てを星に還せ。あやつの──あの出来損ないのトグルマルの残滓など、一滴たりとも残すでないぞ!〕
セリネリーヴェが身を寄せる現在のリアは、そんな神々のやり取りを、どこか淡々とした瞳で見つめていた。
セリネリーヴェには、そんなリアが返って痛々しく見えた。
固唾を飲んで目の前の光景を見ていたが、ふと、崩れた壁の外の景色が目に入った。
屋敷の周りには、騒ぎを聞きつけた集落の者たちが集まってきていた。
一様に不安げな面持ちの彼らの上にも、部屋の中と同じように雪が舞い落ちてくる。
その額に、鼻先に、手のひらに触れた途端、雪はジワリとほどけるように溶け、彼らの体から、白い煙のようなものが立ち昇っては消えた。
「リア、あれって……」
セリネリーヴェがそう口にしたのと、ヴァニル・エルシュナの胸の中にいる、記憶のリアが戸惑いの声を上げたのとは、ほとんど同時だった。
「母者……これはいったい」
リアや、倒れたままのノルダンも、雪の一片がその体に触れるたび、外の皆と同じように白い煙が立ち昇っては消えた。
〔汝、何をした〕
「子らの体から神の血を拭いました。
これが私の──この地で生きた最後の神としての答えです」
〔愚かな……汝は何故、私の思うとおりに動かぬ! 塵になると言ったであろう!!〕
青黒いアザはいまやヴァニル・エルシュナの全身に広がり、ソルド・マーチの言葉のとおり、その指先からホロホロと崩れ始めた。
「母者!」
「ああ、リア。そんな顔をしないで。
貴女は……貴女たちは、この“地”で、新しい
獣や虫、木や花と同じ──慈しみ深い、美しい命を──」
「母者……いやだ、ああ、母者!」
僅かに形の残る左手で娘の涙を拭いながら、ヴァニル・エルシュナは気を失ったままのノルダンに、その悲しげな、しかし慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「ごめんなさい、ノルダン。きっと貴方を最初の死者にしてしまう私を、どうか許して」
そう告げるヴァニル・エルシュナの姿は、セリネリーヴェの目には、あの夜のエルネの姿に重なって見えた。
皇都の役人たちに、たった一人でセリネリーヴェを守ろうと対峙したエルネの姿に──
〔愚か者めが!〕
ソルド・マーチはそう叫ぶと、ヴァニル・エルシュナの背から帯の切っ先を引き上げると、間髪入れず再び放ち、今度はその体を何重にも包み込んだ。
「母者、母者!」
銀色の瞳が、帯の隙間でフワリと笑った。
「母者──!」
リアの叫びもむなしく、光の帯はヴァニル・エルシュナを包み込むと、徐々に徐々に形を変えながら、小さな球となってソルド・マーチの掌に収まった。
〔愚かな娘よ、ヴァニル・エルシュナ。吾を再びひとりきりにすると申すか〕
そうポツリと溢したソルド・マーチの背中は、それまでよりもひどく寒々しく見えた。しかし、
「嫌だ……嫌だ、母者……母者……」
混乱のなか咽び泣くリア──記憶の方のリアを忌々しげに見下ろすと、
〔耳障りよの〕
ヴァニル・エルシュナにしたのと同じように蹴り飛ばし、その体を組み敷いた。
〔母が恋しいか? 穢れた娘よ〕
青黒い球を載せているのとは反対の手をリアの胸の上に載せ、強く押す。
ミシ……と、骨の軋む音がした。
「は……母者を返せ!」
涙を浮かべ睨みつけるリアの瞳を見下ろしながら、ソルド・マーチは満足気な笑みを浮かべた。
〔案ずるな、まだ塵にはなっておらぬ。この中に封じてやったのだ。
吾は寛大である。穢れた娘、汝が望むなら、封を解く鍵をくれてやらんこともない〕
リアの胸に当てたソルド・マーチの手から、眩いばかりの白い光が漏れだしたその刹那、リアが叫び声をあげた。
まるで体を内側から燃やされているかのような、尋常ではない苦しみ様だ。
「な、何? どうしたの? 何をされてるの?」
セリネリーヴェは、傍にいる現在のリアの腕を不安げにギュッと抱きしめた。
「大丈夫だ、すぐ終わる」
彼女が言ったとおり、ほどなくして光が消えるとともにリアの叫びもおさまった。
「……アタシに……何をした!?」
胸を抑えるリア──記憶の方のリアに、ソルド・マーチは底意地悪く口の端を歪めた。
〔言うたであろ、鍵をくれてやったのだ。
汝が母のいう愚かな「愛」とやらは、汝が身の内にもあるのであろ? それが潰えたその時こそ、その鍵は汝が手の内に宿り、汝が母は汝ら穢れどもを一掃するであろう。
それまで汝が母は──そうよの、あの山にでも屠っておこうぞ〕
ソルド・マーチは、崩れた壁からはるか遠くに見える山を指さすと、再び青暗い光の槍を創り出し、ヴァニル・エルシュナを封じた球を乗せて放った。
〔それにしても“愛”とはの──我が子の戯言にこうして付き合うのだ、吾もたいがい愛情の深いことよの。
近い再会になると思うが、吾に詫びる準備はしておくのだな、ヴァニル・エルシュナ。その時こそ、汝がこの“地”の全てを星に帰すのを、吾は楽しみに待っておる〕
そう言い残すと、ソルド・マーチは再び青暗い光の帯を創り出し、現れたときとは逆に、その中に消えていった。
バチン……と記憶のはじける音がした。
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