第29話 “気持ちのメモ”の、その後

あの大講義室での研究発表から、数週間。

わたしの日常は、まるで、嵐の後の完璧な凪のように、穏やかだった。


『マルチスピーシーズ心理学の第一人者(実際には候補?)』なんて、大げさな評価をいただいてしまったけれど、わたしのやることは、変わらない。


大学に行って講義を受け、週に六日、愛おしい六人の誰かと担当日のデートを楽しむ。


わたしの心の匂いも、あの日を境に、一段と安定した気がする。

不安や焦りが、消えた。

ただ、そこにある「幸せ」を、素直に香らせることができるようになった。


そして、日曜日。みんなが合流する日。

春の日差しが暖かい、午後。

わたしの六畳間には、もちろん、全員が、集合していた。


「あー! イツキのクッキー最後の一枚! ウチが狙ってたのに!」

「小狐、昨日の担当日で、イツキを独占したのでしょ。そのくらい、我慢しなさいな。余裕のない女は嫌われますわよ」

「うぐぐ……!」


ローテーブル(こたつは、もう無い)を囲んで、コヨリちゃんがルージュさんに軽くいなされている。

ミラちゃんは、わたしの新しいレポートの誤字脱字チェックを、超高速でやってくれている。

ツバキちゃんは、部屋の隅で腕組みをして、警備……という名の、見守り。

リラさんとサラサちゃんは、窓際で、わたしの植えた、小さな鉢植え(リラさんの、分け株らしい)に、二人で、水やりをしていた。


(……平和だ)


その光景を見ているだけで、わたしの心の匂いが、甘いホットミルクみたいに、幸せの湯気を立てた。


「さて」


わたしは、頃あいを見て、本棚から、あの一冊の大学ノートを取り出した。

表紙には、もうすっかり見慣れた、わたしの丸い文字。

『きもちのメモ』。


「あ! メモの時間じゃん!」

コヨリちゃんが、ぱあっと、顔を輝かせた。

(……あれ? そういえば、コヨリちゃん、最初は、この時間、あんなに嫌がってたのに)


「ふふ。今週は、わたくし、書くことがたくさん、ありますわよ」

ルージュさんが、扇子で口元を優雅に隠す。

全員が、どこかそわそわと期待に満ちた顔で、わたしがノートを開くのを待っている。

あの最初の読み上げ会の気まずさは、もうどこにもなかった。


「えーっと。じゃあ、読むね」

わたしは、ページをめくった。

今週の最初の書き込み。

……ツバキちゃんの硬い筆圧の文字だ。


「読みます。

『火曜日。コヨリ。貴様が、イツキをグルーミングと称して、耳まで赤くさせていた件。……報告を受けた。……秩序を乱す行為だ』」

「げっ!?」

コヨリちゃんが、身を固くする。


わたしは、続けた。

「『……だが、その日のイツキの、心の匂いは非常に安定していた。……よって、当面のグルーミング行為は、イツキのメンタルヘルス維持のため、黙認する。……以上だ』」


「「…………」」

「あ、あははは! なんだよ、ツバキ! 結局、許すんじゃん!」

「う、うるさい! あくまで、秩序のためだ! 勘違いするな!」

ツバキちゃんが、顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。


(……あれ? 嫉妬、じゃない?)

わたしは、不思議な気持ちで、次のページを、めくった。

ルージュさんの、流麗な、筆記体の文字だ。


「『水曜日。ミラへ。貴女がイツキに新しいスケジュール管理アプリを導入した件。……おかげで、わたくしの月曜のお茶会の準備時間が可視化され、イツキがより上質なスコーンを用意できるようになりましたわ。……褒めてさしあげます』」


「……どうも。論理的な帰結です」

ミラちゃんが、無表情に頷く。

(……え? これ、嫉妬どころか、感謝だよね?)


わたしは混乱しながら、次のページを開いた。

コヨリちゃんの元気な丸文字だ。


「『木曜日! リラさん! イツキと中庭で一緒に光合成して、イツキの寝顔データ、ゲットしたの、知ってるんだから! ズルい! ……でも、そのおかげで、金曜日のサラサの、デート(ゼリー)の時、イツキの元気が満タンだった! ……まあ、今回は良し、としますか! 上からコヨリ様でした!』」


「ふふふ……。コヨリさんも、意外に素直じゃない、なの」

「う、うるさいっ!」

リラさんの、笑顔に、コヨリちゃんが、たじろぐ。


(……! そっか……!)


わたしは、その時ようやく、全てを理解した。

わたしは、ノートをぱらぱらと、最後まで、めくった。

そこには、もう、あの最初の頃のような。

「ズルい」「ムカつく」「許せない」「独占したい」

という、チクチクとした棘のある言葉は、一つも無かった。


そこにあったのは。

「(誰々が、イツキと、こんなにイチャイチャした! 羨ましい!)でも、そのおかげで、わたしの担当日のイツキはもっとご機嫌だった!」

「(誰々が、イツキに、こんなプレゼントをした! 悔しい!)だから、わたしは、次、もっと凄いのをあげる!」


(……これ、嫉妬じゃない)

(……『嫉妬メモ』というより『感謝メモ』で、……というか『ノロケ報告会』だ!)


わたしたちの、関係はもう、「嫉妬を、我慢して、共有する」という段階を飛び越えていた。

カレンダー制で、自分の番が必ず来る、という絶対的な安心感。

おそろいのリボンが繋ぐ、「わたしはイツキの共同体の一員だ」という所属意識。

それらが、彼女たちの心から焦りや不安を消し去ったんだ。


そして、残ったのは。

「自分以外の誰かが、イツキを幸せにしている」という事実に対する、ちょっぴりの悔しさと、それ以上の「イツキが幸せならまあいっか」という肯定と。

「次はわたしがもっと幸せにする」という前向きな競争心。


「……あ、あはは……」

わたしはノートを持ったまま、嬉しくて可笑しくて、涙が出てきた。


「イツキ? どうしたの、急に、泣き笑いして」

「イツキさん?」


「……ううん」

わたしは、涙を拭った。

わたしの心の匂いが、この最高の発見に歓喜して爆発した。

部屋中が、とろとろに煮詰まった蜂蜜みたいに甘く濃密な幸せの匂いで満たされていく。


「「「「「「――っ!!」」」」」」


六人が、同時に、息を、呑んだ。

「……い、イツキ……! 今の匂い、やば……!」

「……ふぁ……。これ、は……。理性的ではいられませんわ……」


「……みんな」

わたしは、ノートを高く掲げた。


「この、『きもちのメモ』……。もう、『嫉妬メモ』じゃないね」

「「「?」」」

「これ、『しあわせメモ』だ!」


わたしが、そう宣言した瞬間。


「「「「「「(……!!)」」」」」」

六人の顔が、同時にぽっと、赤く染まった。


「……ば、ばか……! イツキ……! そんな、恥ずかしい、こと、言うな……!」

「……っ! 貴様は、本当に、無防備すぎる……!」


コヨリちゃんとツバキちゃんが照れ隠しに叫ぶ。

でも、もう遅い。


「……イツキ」

「……イツキちゃん」

「……イツキさん」


誰からともなく、手が、伸びてくる。

「……ルール、です」

「……ハグ、なの」

「……充電じゃん!」


「わ、わわっ!」

わたしの、六畳間の、真ん中で。

わたしたち七人は、今日も恒例の、でも今までで一番甘い『集合ハグ』に、雪崩れ込んでいった。

もう、嫉妬の鎮静じゃない。

幸せの確認だ。増幅だ。

わたしの心の匂いが、七人の体温に包まれて、完璧な甘さに仕上がっていく。


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