第25話 辛い弱点と甘い看病


『公開討論会』という名の大立ち回りが終わり、わたしたちの日常は、驚くほど穏やかに戻ってきた。


学内で、わたしたち七人が揃って中庭のベンチでお弁当を広げていても、もう、遠巻きにヒソヒソと陰口を叩く者はいない。


わたしの心の匂いが完全に復活したことで、リラさんの回復は目覚ましく、今ではすっかり元の艶やかな若葉色の髪を取り戻し、温室で元気に光合成をしている。


(よかった、本当によかった……)


そして今日は、その「お疲れ様会」と「リラさん快気祝い」を兼ねて、わたしの六畳間に、全員が集合していた。

「よーし! イツキお手製のシチュー、完食!」

「うむ、美味だった」

コヨリちゃんとツバキちゃんが、空になったお皿を満足げに差し出す。


「ふふふ。わたくしの持ってきたキッシュも、瞬く間になくなりましたわね」

ルージュさんが、優雅に微笑む。

「イツキちゃん! おかわり! おかわり!」

サラサちゃんが、空のゼリーカップを振っている。

「イツキ、データ上、本日の摂取カロリーは適正値です。……ですが、この幸福感は、計測不能です」

ミラちゃんが、おそろいのリボンを触りながら、真顔で分析していた。


平和だ。

わたしの心の匂いも、この上なく安定して、温かいミルクティーみたいに、部屋中を甘く満たしている。


「さて、シメ、どうする?」

コヨリちゃんが、テーブルに乗り出すようにして言った。

「ウチ、なんか、スパイシーなものが食べたい気分!」

「あら、いいですわね。刺激的な味は、血液の巡りを良くしますわ」

ルージュさんも乗り気だ。


「スパイシー……。あ、そういえば、商店街の新しい中華料理屋さん、テイクアウトで『地獄谷の激辛麻婆豆腐』っていうの、始めたって、ポスター見たよ」

「地獄谷! いいじゃん、それ!」

コヨリちゃんが、尻尾をばたつかせた。


わたしが「じゃあ、わたし、買ってくるよ」と立ち上がろうとした時。

「待て。白羽」

それまで黙ってシチューの余韻に浸っていたツバキちゃんが、わたしを制した。

「そのような、危険物の運搬を、警備対象にさせるわけにはいかん。……私が行こう」

「え、ツバキちゃんが?」

「ああ。ついでに、商店街の夜間警備のルートも確認してくる」

(ツバキちゃん、辛いの、大丈夫なのかな? )


そうして、三十分後。

ツバキちゃんが買ってきた、真っ赤な、見るからに危険なオーラを放つ麻婆豆腐が、テーブルの中央に置かれた。

湯気と共に立ち上る、唐辛子と山椒の、強烈な香り。

(うわ……。これは、本当に、地獄谷かも……)


「うっはー! やばそう!」

コヨリちゃんが、レンゲを持って、目を輝かせる。

「わたくしも、いただきましょう」

ルージュさんも、平然とした顔だ。

ミラちゃんは「……味覚センサーの、ストレステストです」と、スプーンを構えた。

リラさんとサラサちゃんは「からいの、やだー」「ゼリーがいいー」と、最初から戦線離脱している。


問題は、ツバキちゃんだった。

彼女は、自分が買ってきたそれを、なぜか、じっと、睨みつけている。

(あれ? 食べないのかな?)


「ツバキちゃん、どうしたの? 食べないの?」

「……いや」

わたしに言われ、ツバキちゃんは、覚悟を決めたように、レンゲを手に取った。

「……食べる。当然だ。龍族の、誇りにかけて」

(誇り?)

「あの、ちょっと、待っ……」


ツバキちゃんは、私の言葉を待たずに、真っ赤な豆腐を、一口。

ぱくり、と口に含んだ。


「…………」


時が、止まった。

私たち全員が見守る中、ツバキちゃんの身体が、ぴしり、と硬直する。

さっきまで、平然としていた、その凛々しい顔が。

みるみるうちに、ゆでダコみたいに、真っ赤に染まっていく。

金色の瞳が、カッと見開かれ、じわり、と、涙の膜が張った。


「つ、ツバキちゃん!?」

「ぷっ……!」

コヨリちゃんが、噴き出すのを、必死でこらえている。

「あ、あはは! ツバキ、お前、もしかして……!」


「だ、だ、だ、黙れ……! こ、こんなもの……龍族の、敵では……!」

ツバキちゃんは、必死で、虚勢を張る。

だが、身体は正直だった。

プルプルと、小刻みに震え始めた、その、次の瞬間。


「ふしゅんっ!!」


(え)


想像していた、「ハクション!」という、豪快なくしゃみではなかった。

龍が、火を噴く寸前に、鼻がむず痒くなったみたいな。

猫が、威嚇に失敗したみたいな。

「ふしゅんっ」という、あまりにも可愛すぎる、くしゃみが彼女の口から漏れた。


「「「「…………」」」」

(リラさんとサラサちゃんを除く)全員が、固まった。


「……あ」

ツバキちゃんは、自分が今、どんな音を出したのか、理解したのだろう。

顔を、真っ赤(さっきの唐辛子とは違う、羞恥の色)にして、固まった。


「あ、あはは! あはははは! なにそれ! ツバキ! 『ふしゅん』だって! 龍族のくしゃみ、可愛すぎじゃん!」

コヨリちゃんが、腹を抱えて、床を転げ回っている。

「ふふ……! あらあら。これは、いいものを、聞きましたわ」

ルージュさんが、扇子で口元を隠しているが、肩が震えている。

「……記録、完了。音声データ、保存。くしゃみ音の、希少サンプルです」

ミラちゃんが、真顔でスマホ(録音していたらしい)をしまった。


「き、き、貴様らーーーっ!!!」

ツバキちゃんは、羞恥と、辛さの、ダブルパンチで、完全にキャパオーバーだった。

金色の瞳から、涙が、ぽろぽろと、溢れ出している。

「か、辛い……! む、無理だ……! 水……!」


(わわわ!)

わたしは、真っ先に、我に返った。

「ツバキちゃん、大丈夫!? 水! ううん、牛乳だ!」

わたしは、冷蔵庫にダッシュし、牛乳をコップに注ぐと、ツバキちゃんの前に差し出した。

「は、早く飲んで!」


「んぐ、んぐ……。ぷはぁ……!」

ツバキちゃんは、牛乳を一気に飲み干し、ぜぇぜぇ、と、荒い息をついている。

舌は真っ赤、目も真っ赤。

いつもの、堅物の威厳は、どこにもない。


「も、もう……。大丈夫? ほら、タオル」

わたしが、タオルで、彼女の涙と口元を拭いてあげると。

ツバキちゃんは、はぁ……と、息をついた後、わたしを、潤んだ金色の瞳で、じろり、と睨み上げた。


「……貴様は……」

「え?」

「……甘すぎる」

「ええっ!?」

(こ、こんな時まで、怒られるの!?)


「……私が、こんな、無様な姿を、晒したというのに……」

ツバキちゃんは、タオルを受け取らず、わたしの手ごと、自分の頬を押さえたまま、続けた。

「……すぐに、介抱するなど……。……もっと、笑うなり、なんなり、あるだろう……」


その声は、怒っているというより、拗ねているみたいだった。

わたしは、彼女のその、意外すぎる反応に、思わず、ふふっ、と笑ってしまった。


「だって」

わたしは、ツバキちゃんの、熱を持った頬を、タオル越しに、優しく、ぽんぽん、と叩いた。


「ツバキちゃんは、いつも、わたしを、守ってくれるから」


「……!」


「公開討論会の時も、リラちゃんが倒れた時も。わたしを、わたし達を、守るために、動いてくれた。……だから、今度は、わたしが、ツバキちゃんを守る番。……辛いものから、だけどね」


わたしの、心の匂いが、彼女への「感謝」と「愛しさ」で、いっぱいに満ちて。

牛乳みたいに、まろやかで、甘い香りが、ツバキちゃんを、包み込んだ。


「…………」

ツバキちゃんは、何も言えなくなってしまった。

彼女は、わたしの手から、タオルを、ひったくるように奪うと。

うつむいて、顔を隠してしまった。


「……馬鹿者め」

「え?」

「……そんな、匂いを、出すな……。……また、変な、くしゃみが、出そうになる……」


(あ)

わたしの心の匂いが、辛さとは別の意味で、彼女の理性に、効いてしまったらしい。

ツバキちゃんの、耳まで、真っ赤に染まっているのが、隠しきれていなかった。


(……ツバキちゃんの、弱点、みーつけた)


わたしは、隣で、まだ笑い転げているコヨリちゃんと、それを楽しそうに眺めているルージュさんを見ながら、小さく、勝利のガッツポーズをした。

わたしたちの「日常」は、こうして、甘く(そして、激辛に)、戻ってきたのだ。


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