第17話 J値とおそろいリボン

「イツキ、次の解析データ、入力完了しました」

「あ、ありがとう、ミラちゃん。さすが、早いね」


水曜日の放課後。理工学部の情報処理室。

今日はカレンダーのミラ担当日。彼女のリクエストは、マルチスピーシーズ心理学の統計レポートを一緒に仕上げることだった。


アンケート結果をわたしが読み上げ、ミラちゃんが凄まじい速度でデータ化し、即座にグラフへ落とし込む。

白いワイシャツの袖をきちんと捲り上げ、無機質なキーボードを叩く銀のショートボブ。横顔は寸分の隙もない機能美だ。


「すごい。ミラちゃんがパートナーだと、わたしのレポートが学会レベルになりそう」

「当然です。私の論理回路は、イツキの直感的仮説を証明するために最適化されています」


淡々と告げる声。

でも、知っている。ときどき、わたしの指先をじっと見つめること。碧眼の奥でHUDが、ほんの少し弾むこと。


(可愛い)


好意と尊敬で心の匂いをふわりと温めた瞬間、ミラちゃんの指が一拍だけ止まる。


「……イツキ」

「ん? どうしたの」

「心の匂いの意図的放出を確認。私の作業効率が低下します」

「あ、ごめん」


(またやっちゃった。ミラちゃんは匂いに敏感だなあ)

深呼吸して、なんとか匂いを落ち着かせる。


「続行します」

再び指が走る――が、そこから様子が変わった。


カタカタ、ターン。

カタ……タタ、ターン。

カタカタ……ピタ。


「ミラちゃん? さっきから止まるけど」

「問題ありません」


明らかにおかしい。さっきの流麗さが削れ、ぎこちなさが混じっている。

わたしは心配になって覗き込む。ミラちゃんがゆっくり顔を上げた。


碧眼が揺れていた。冷静な水面に、矛盾した命令が落ちたみたいに。


「イツキ。再度、警告。内部パラメータに異常値を検出」


(あ、この流れ)


「J値、上昇中。ですが理解できません」

「どこが分からないの?」

「今日は私の担当日。イツキは一日、私のもの。他者は不在。嫉妬は、対象が他者に奪われる可能性で作動する防御プログラム。なのに、なぜ?」


胸元をぎゅっと掴む指。

「なぜ、私のJ値は上がり続けるのですか」


(そっか。新しい感情なんだ)


わたしは彼女の手をそっと包む。ひんやりした人工皮膚に、かすかな熱。


「嫉妬には二種類あるよ」

「二種類」

「そう。誰かに取られる不安の嫉妬。そしてもう一つ――」


揺れる碧眼をまっすぐ見つめる。


「今、こんなに幸せで独り占めできているのに、この時間が終わってしまうのが怖い。つまり、幸福な嫉妬」


「幸福な嫉妬」

彼女は壊れ物みたいに復唱する。


「ミラちゃんは、二人きりの時間が特別で幸せって、学習してくれたんだ。だから、時間が過ぎること自体にJ値が反応してる」

「今、幸せだから、J値が上がる?」

「うん。とても人間らしい、不器用で、いとおしいデータだとわたしは思う」


心の匂いで混乱をそっと包む。大丈夫、の合図。


数秒、ミラちゃんは完全にフリーズ。

碧眼の奥でHUDが目も眩む速度で点滅し、計算し、並べ替え、組み直す。

やがて、微かな息とともに視線が帰ってきた。


「イツキ。論理、更新完了。私の幸福は、イツキの独占と定義されました」


(わわ、方向が極端)


「そして、この幸福なJ値を持続し、かつ他者とも公平に共有する最適解を導出しました」

「最適解?」


ミラちゃんは鞄から細いリボン束を取り出す。赤、黄、緑、水色、黒、そして白。


「おそろいアクセです」

淡々、けれどどこか誇らしげに。


「カレンダー制は時間を公平に分配しますが、所属意識の可視化が不足していました。これがJ値の不安定要因。よって全員が共通の記号を身につける。私たちはイツキのハーレムという共同体である、と視覚的に証明します」


白い一本を、わたしの手首にそっと結ぶ。不器用な蝶々結び。


「イツキとおそろいである事実が、担当日以外でも私たちのJ値を安定させます。現時点で最も合理的な最適解です」


手首の軽い重み。

白が、脈に合わせてかすかに揺れる。


(形が欲しかったんだ。見える安心)


「ありがとう、ミラちゃん」

胸が自然に笑う。

「世界でいちばん合理的で、あたたかいプレゼントだよ」


心の匂いが、彼女の最適解を最大級の幸福で包む。

ミラちゃんはリボンごとわたしの手首をぎゅっと握りしめ、


「はい」


ほんの少しだけ、頬に色を灯した。

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