ゼロの巫女 ―記憶を売った私が、世界を終わらせる鍵だった―
ソコニ
第1話 空白の少女
### **1.**
目を開けると、白い天井があった。
見覚えがない。
いや、見覚えがあるのかどうかもわからない。
少女は体を起こした。ベッドは硬く、シーツは薄い。部屋は狭い。窓はない。
彼女は自分の手を見た。小さな手。傷はない。爪は短い。
「……私は」
名前が出てこない。
年齢もわからない。どこから来たのかもわからない。
胸が苦しい。息ができない。
パニックが襲ってくる。彼女は壁に手をついた。冷たいコンクリート。
「落ち着け」
自分に言い聞かせる。声が震えている。
深呼吸。一回。二回。三回。
少しずつ、心臓の音が静まっていく。
彼女は部屋を見回した。
ベッド。小さなテーブル。椅子が一つ。ドアが一つ。
それだけだ。
テーブルの上に端末が置いてある。黒い長方形。画面は消えている。
彼女はそれを手に取った。
電源を入れる。画面が光る。
**「所有者を確認してください」**
音声が流れた。機械的で、感情がない。
「……私は」
また言葉が出ない。
**「顔認証を開始します」**
画面が彼女の顔をスキャンした。青い光が目を刺す。
**「認証完了。ようこそ、ゼロ」**
「……ゼロ?」
**「あなたの登録名です」**
「私の名前は?」
**「記録にありません」**
「なぜ」
**「あなたの記憶は売却されました」**
彼女は端末を落としそうになった。
「売却?」
**「はい。14日前、あなたは自身の記憶を公開オークションに出品しました。落札価格は8億2千万円です」**
8億。
彼女はその数字の意味がわからなかった。大きいのか。小さいのか。
「誰が買った」
**「匿名購入者です。情報は開示されていません」**
「なぜ売った」
**「理由は記録されていません」**
彼女は床に座り込んだ。
なぜ。
なぜ自分は記憶を売ったのか。
お金が必要だったのか。
それとも、忘れたかったのか。
何を。
**「メッセージが残されています」**
「メッセージ?」
**「あなた自身からです。再生しますか?」**
彼女は頷いた。
画面が切り替わる。
そこに映ったのは、彼女だった。
同じ顔。同じ目。
でも、違う。
映像の中の彼女は笑っていた。
---
### **2.**
**『もし、これを見ているなら』**
映像の中の少女が話し始めた。
**『私はもういない。記憶を売ったから』**
彼女は画面を凝視した。
**『理由は言わない。知る必要がないから』**
映像の彼女は窓の外を見ている。何かを思い出しているようだ。
**『ただ、一つだけ覚えておいて』**
少女の表情が変わる。真剣になる。
**『あなたは、何も知らない方がいい』**
「……何を」
**『探さないで。思い出そうとしないで』**
映像の彼女が画面に近づく。
**『生きて。それだけでいい』**
画面が消えた。
部屋に静寂が戻る。
彼女は端末を握りしめた。
「生きて、それだけでいい?」
笑えない。
何も知らずに生きろ、と?
自分が誰かも知らずに?
「ふざけるな」
彼女は立ち上がった。
ドアに向かう。鍵はかかっていない。
廊下に出る。
白い壁。白い床。白い天井。
病院のようだ。いや、違う。もっと無機質だ。
人の気配はない。
彼女は歩き出した。
廊下の先にエレベーターがある。ボタンを押す。
扉が開く。
中に入る。ボタンが一つだけ光っている。「1F」
押す。
エレベーターが動き出す。
---
### **3.**
1階に着いた。
扉が開く。
目の前に広がったのは、巨大なホールだった。
天井は高く、ガラス張りで、外の光が差し込んでいる。
そして、人がいた。
何百人も。
いや、何千人も。
全員が端末を持ち、画面を見つめている。
誰も話していない。誰も笑っていない。
ただ、黙々と画面を操作している。
彼女は人混みに入った。
誰も彼女を見ない。
「すみません」
声をかける。近くにいた男が振り向いた。
「ここは何ですか」
男は無表情で答えた。
「記憶取引所」
「記憶取引所?」
「知らないのか。記憶を売買する場所だ」
男はそれだけ言うと、また画面に戻った。
彼女は周囲を見回した。
壁一面に巨大なスクリーンがある。
そこには、無数の記憶が表示されていた。
**『初恋の記憶 - 17歳女性 - 入札開始価格: 50万円』**
**『母との最後の会話 - 42歳男性 - 入札開始価格: 200万円』**
**『プロポーズの瞬間 - 29歳男性 - 入札開始価格: 150万円』**
記憶が、商品として売られている。
彼女は吐き気を覚えた。
「初めてか」
声がした。
振り向くと、若い男が立っていた。
黒いコートを着て、端末を片手に持っている。
「初めて、というのは?」
「ここに来るのが」
「……ええ」
男は彼女を見た。鋭い目だ。
「記憶を売りに来たのか」
「いいえ」
「買いに?」
「……わかりません」
男は興味深そうに彼女を見た。
「名前は?」
「ゼロ」
「本名は?」
「わかりません」
男は笑った。
「面白い。記憶を売ったのか」
「そうらしいです」
「後悔してるのか」
彼女は答えなかった。
後悔しているのか。
わからない。
何も覚えていないのに、どうやって後悔すればいい。
男は端末を操作した。
「ゼロ、だったな。検索してみる」
「何を」
「お前の記憶が誰に買われたか」
画面に情報が表示される。
男の表情が変わった。
「……おい」
「何ですか」
「お前の記憶、買ったのは」
男が画面を見せた。
そこには一行だけ表示されていた。
**『購入者: メモリア・コーポレーション』**
「メモリア……」
「世界最大の記憶管理企業だ」
男の声が低くなる。
「なぜ、そんな企業がお前の記憶を」
彼女は男を見た。
「何か問題が?」
「問題だらけだ」
男は端末をしまった。
「メモリアは個人の記憶なんて買わない。企業向けの大規模データしか扱わない」
「では、なぜ」
「それを知りたいなら」
男は彼女の目を見た。
「俺についてこい」
---
### **4.**
男の名前はレンだった。
彼は記憶ブローカーだという。
「ブローカー?」
「記憶を仲介する仕事だ。高く売れる記憶を探して、買い手を見つける」
「……汚い仕事ですね」
レンは笑った。
「その通り」
二人は地下鉄に乗った。
車内は静かだ。乗客は全員、端末を見ている。
誰も話していない。
「この街は、いつもこうなんですか」
「ああ。みんな記憶を売って、買って、生きている」
「なぜ」
「金のためだ」
「それだけ?」
レンは窓の外を見た。
「忘れたいからだ」
彼の声は静かだった。
「辛い記憶は売れる。高く売れる」
「なぜ」
「誰かが欲しがるからだ」
「誰が」
「痛みを知りたい人間だ」
電車が止まった。
「降りるぞ」
---
### **5.**
レンが連れてきたのは、古いビルの地下だった。
階段を降りると、狭い部屋がある。
机と椅子。モニターが何台も並んでいる。
「ここは?」
「俺の仕事場だ」
レンは椅子に座り、端末を接続した。
「お前の記憶について、もっと調べる」
「何がわかるんですか」
「売却の詳細。購入者の意図。そして」
レンは画面を凝視した。
「お前が何者だったのか」
キーボードを叩く音が響く。
彼女は部屋の隅に座った。
何も覚えていない。
でも、不安はある。
映像の中の自分が言った。
『探さないで。思い出そうとしないで』
なぜ。
何を隠したかったのか。
「……おい」
レンの声が震えていた。
「どうしました」
「お前の記憶、ただの記憶じゃない」
「どういう意味ですか」
レンは振り向いた。
顔が青ざめている。
「お前の記憶には、コードが埋め込まれている」
「コード?」
「プログラムだ。人工的に作られた記憶だ」
彼女は立ち上がった。
「何を言ってるんですか」
「お前の記憶は、誰かが意図的に作り、売却させた」
「なぜ」
「それはわからない。だが」
レンは画面を指差した。
「お前の記憶が解放されれば、世界中の記憶管理システムがクラッシュする」
「……何ですって」
「お前は爆弾だ」
レンは静かに言った。
「そして、誰かがその爆弾を起動しようとしている」
---
### **6.**
部屋に警報が鳴り響いた。
「まずい」
レンが立ち上がる。
「何ですか」
「追跡されてる。メモリアの部隊だ」
「私を?」
「ああ。お前の記憶を回収するために」
ドアが激しく叩かれた。
**「開けろ! メモリア保安部だ!」**
レンは彼女の腕を掴んだ。
「逃げるぞ」
「どこに」
「わからない。だが、ここにいたら殺される」
部屋の奥に小さな扉がある。
レンがそれを開けた。
「非常口だ。行くぞ」
二人は階段を駆け上がった。
後ろから足音が聞こえる。
「止まれ!」
銃声。
壁に弾が当たる。
「伏せろ!」
レンが彼女を押し倒した。
二人は床を転がり、別の廊下に入った。
「こっちだ」
走る。
息が切れる。
でも、止まれない。
廊下の先に光が見える。
出口だ。
レンが扉を蹴破った。
外に出る。
雨が降っていた。
冷たい。
でも、生きている。
「どこに行くんですか」
彼女が叫んだ。
レンは振り返らなかった。
「お前の記憶を取り戻す」
「なぜ」
「お前が何なのか、知りたいからだ」
二人は雨の中を走り続けた。
---
### **7. エンディング**
夜。
二人は廃ビルの屋上にいた。
街が遠くに光っている。
記憶取引所の巨大なスクリーンが、闇の中で輝いている。
レンは端末を操作していた。
「お前の記憶の一部、復元できるかもしれない」
「本当ですか」
「ただし、リスクがある」
「どんな」
「記憶を見た瞬間、お前の脳が焼かれるかもしれない」
彼女は黙った。
「それでも見たいか」
「……はい」
レンは端末を彼女に渡した。
「再生ボタンを押せ」
彼女は画面を見た。
指が震える。
でも、押した。
画面が光る。
---
**記憶の断片が流れる。**
**少女が研究室にいる。**
**白衣の男たちが彼女を囲んでいる。**
**「被験体ゼロ、記憶移植実験を開始する」**
**彼女は叫んでいる。**
**「やめて! やめて!」**
**誰も止めない。**
**機械が彼女の頭に接続される。**
**痛い。**
**痛い。**
**痛い。**
**そして、全てが消える。**
---
画面が消えた。
彼女は倒れ込んだ。
「おい! 大丈夫か!」
レンが駆け寄る。
彼女は震えていた。
「……私は」
「何を見た」
「私は……実験体だった」
彼女は空を見上げた。
雨が顔に当たる。
「私の記憶は、全て作られたものだった」
「そんな」
「でも、一つだけわかった」
彼女はレンを見た。
「私には、守るべきものがあった」
「何を」
「まだわからない」
彼女は立ち上がった。
「でも、取り戻す」
レンは彼女を見た。
「手伝うぞ」
「なぜ」
「……面白いからだ」
レンは笑った。
彼女も、初めて笑った。
「ありがとう、レン」
「礼はいらない。報酬をもらう」
二人は街を見下ろした。
記憶が売買される街。
真実が隠される街。
「行くぞ、ゼロ」
「どこに」
「お前の記憶を買った奴のところだ」
「メモリア・コーポレーション」
「ああ。そこに全ての答えがある」
雨が止んだ。
---
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