僕と童話の彼女たちの契約関係

@novelkuma

プロローグ — 雨の夜、水の階段

水族館の夜勤アルバイトのタイムカードを押し、壁に貼ってあった**〈アンデルセン × 海〉のミニ展示ポスターをはがした。*「海は多くを覚えているが、言葉にはしない」*という一文が目に残る。人魚のシルエットの下で泡**が白くにじみ、丸くほどけた。筒状に丸めて棚に置くと、頭の中でも絵がもう一度巻かれてほどけた。


従業員口を出ると、雨が看板の灯りを細かく砕いていた。駐車場裏の路面には薄い水膜がきらめいている。管理人に「明日も十時からでいいですか?」と聞くと、彼はレインコートのフードを深くかぶり、片手を振った。


「うん。ペンギンの餌やり、忘れないで。……それと今日はまっすぐ帰りな。」


その言葉が後頭部に残ったまま、私は歩道ブロックを選びながら横断歩道へ向かった。濡れた空気が塩のように口の中で渋く溶ける。海の匂いが、街の奥までせり上がってきていた。


信号が赤に変わると、人々は丸い傘を帽子みたいに深くかぶって一斉に止まった。そのときだった。つま先の前、白いタイルとアスファルトの境目にあるひとつの水たまりが、どうにも目に引っかかった。他の水たまりと違って、内側が層になって深く見える。ネオンが幾重にも折り畳まれ、薄い階段を光で敷いたみたいだ。


「……深さがある。」思わずつぶやいた。


耳の内側が一瞬空洞になった。世界の音はあるのに、その音だけが抜け落ちたみたいな奇妙な静けさ。信号と足音のあいだを無音の鼻歌が、極薄くすべっていく。


信号が三回短く点滅した。なぜか二歩だけ前に出ればいいと感じた。私は傘を肩に引っかけ、靴先を水たまりのいちばん浅い層にそっとのせた。


足首をかすめる冷たい水。そして、空気が裏返る。


世界が青く傾き、雨はゆっくり落ちはじめた。雨粒が肩や傘を叩いているのに、音がない。白線は魚の腹びれみたいに長く伸び、横断歩道の先は別の通りへ続いていた。海の匂いはすぐに海そのものになった。


私は水たまりの二層目に足を移した。目の前に港町の市場のような通りが開ける。ネオンには日本語と見知らぬ文字が混じり、手すりにはガラス瓶がずらりと並び、瓶の中で鼻歌の影のようなものが静かに揺れた。


近くの店先にPRINCE SARDINESと書かれた箱の山があり、王冠ロゴが光った。その前に立つ少年のコートには金縁のボタンがついていて、ネオンを受けてきらりとした。私は思わず口が先に動いた。


「すみません、王—」


「王子じゃない。」少年がすぐに切った。「灯台守の見習いだ。」


「……すみません。」舌先が乾いて貼りつく。*どうしてそんな言葉が出たんだろう。*視界の端でPRINCEのロゴがちかちかした。


言葉を探しかけたとき、頭の中に子どもの頃に見た絵がぱっとよみがえった。海、泡、灯台。知っているあの話……なのか?—声には出していないのに、手すりのガラス瓶たちがカチリとこちらを振り向いた。言ってないのに、世界が**「レシピの匂い」**を嗅ぎ取ったみたいだった。


そのとき、路地の奥の扉の前に誰かが立っていた。頭のてっぺんから足の先まで塩気の絹のような服、胸には帳簿。男は丁寧な笑みを浮かべ、薄い紙を差し出した。


「道に迷われましたね。こちらの世界は、結末が保証されると安心できます。とびきり甘い保証です。署名は簡単。声を少し預けていただくだけで——」


言い終える前に、私の息がふっと詰まった。喉に砂が詰まったみたいに乾く。飴を塩水で洗ったような、胸が悪くなる匂いが鼻を刺した。紙は紙らしくない。濡れないゼリーみたいに弾力があり、近づくほど甘さが強まった。


男の手が私の手の甲に重なった瞬間、頭上の灯りが消えたり点いたりした。灯台だ。海の縁で小さな灯台が震えている。少年が私の背をぱんと押した。


「戻れ!」


空気が逆流した。灯りが水中へすっと吸い込まれ、匂いが息を喰うみたいに濃くなる。私は水たまりの一層目へ引き戻される感覚に攫われた。足首を掴んだ波がぷつりと切れた。


目を開けると、また横断歩道だった。通りすがりの人が転がった傘を拾ってくれた。「ありがとうございます」と言おうとしたが、私の声は一拍遅れて出た。代わりに、地面が音を立てた。


つま先の前、さっきの水たまり。同じ場所。だが、路面に水の跡が残っていた。きらりと光るのに、指で触れても濡れない。滑りもしない。ただ艶がある。—濡れない水跡。私は二歩下がった。跡は薄れた。もう一度近づくと、輪郭は濃くなる。正面からのぞくと消え、視界の端で見ると現れた。


向かいのアーケードのシャッターには、雨に半ば消されながらも読める落書き。


> 守ることと閉じ込めることは違う。

結末は強制しない。




その文字を読むと、胸のどこかに貼りついていたねっとりした飴の匂いがすうっとはがれた。耳の奥で無音の鼻歌が一筋流れる。とても小さく——…あ。


驚かないように息を整え、傘を持ち直した。今は——聞こう。そして最後まで言おう。


雨は相変わらず、看板の灯りを細かく砕いていた。



---



家に入るなり、シンクの角をぎゅっと押した。心臓の鼓動が金属を通って指先に伝わる。口の中は甘くてしょっぱい。飴を海水ですすいだ味。シャワーの途中で壁に手のひらを当て、四拍吸って、四拍止めて、六拍吐く。


ベッドの上の**〈アンデルセン × 海〉**のポスターが見下ろしていた。*泡になる。*その言葉が頭に貼りついたまま離れない。*王子だなんて、どうして……。*スマホのメモに書いては消す。


「いまの言葉だけが有効。」少年の言葉。メモのタイトルを**『いま』**に変えた。


今日見たもの:泡/真珠色/灯台


言ってないのに嗅ぎ取られた思考:レシピ(“元どおり”)


自分の状態:めまい/手の震え/皮膚が船酔いみたいにむずむず


明日やること:排水口のヘアピン回収(現実的理由)/最後まで話す。ただし“元は”禁止



保存した瞬間、画面の中央を細い赤い線がかすめた。バグのようだ。スマホを伏せ、もう一度四–四–六を数える。眠りにつく直前、遠くで**…あがもう一度聞こえた。私はその母音をつかまえた**。

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