第一章
02:SPICEと嗅覚ジェネレーター
その夜、エリス・ハートフィールドは、桜華と二人で暮らすマンションの自室に戻り、ベッドに軽く腰掛けた。
手にしたタブレット端末には、昼間に行われた『スパイス』新製品発表会のニュースが早くも数多く掲載されている。
(オーカさん……すごかったな)
エリスは、今日の発表会での桜華の姿を思い出していた。
壇上に立った彼女は、普段の砕けた様子からは想像もつかないほど、知的で堂々としていた。
『シナモン社』の広報として、新型VRマシン『スパイス』の可能性をよどみなく説明する姿は、エリスの目にも眩しく映った。
「――従来の《触覚》に加え、この度リリース予定のVer.1.5では、さらに《嗅覚ジェネレーター》が追加されます!」
桜華がそう宣言すると、取材陣で埋まった会場が大きくどよめいた。
「嗅覚の実装により、仮想世界は今以上の没入感、ユーザー体験をもたらすことができるでしょう。では、この革新的なマシン『スパイス』が何の略称なのか、そして、なぜこれほど高度な感覚再現が可能になったのか、その技術的背景につきまして、開発に多大なご協力をいただきました、帝王大学の篠上教授からご解説いただけますでしょうか」
桜華に促され、エリスの隣に座っていた老紳士――篠上教授が、穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がり、マイクの前に立った。
「ご紹介にあずかりました篠上です」
優しい、落ち着いた声が会場に響く。
「まず『スパイス』とは、Sensuos Pulse Image Creative Extension……日本語に訳しますと『感覚パルスイメージ拡張機』となります。その頭文字をとって、皆さまの体験をより豊かにする『スパイス』と名付けられました」
会場から、なるほど、という感心の声が漏れる。
「そして、なぜこれほど高度な感覚再現が可能になったのか。それは、私の親友でもあるマクミラン博士が開発した医療用機器、《ドリームキャッチャー》の根幹技術である《神経パルスジェネレーター》、そのダウングレード版を搭載している点にあります。これは映像や音声だけでなく、触覚、そして今回の嗅覚といった感覚情報を、神経パルスに変換して脳に直接『感じさせる』技術なのです」
(ボクも開発に加わったけど、先生の説明は本当にわかりやすい…)
エリスは、恩師の明快な解説に、改めて尊敬の念を抱いていた。
発表会が無事に終わり、控室に戻ると、エリスはようやく緊張から解放され、大きく息をついた。
「篠上先生。本日はお忙しい所ご登壇いただきありがとうございました。先生の解説、とても分かりやすかったです。」
先に控室に戻っていた桜華が、深々と頭を下げて礼を述べる。
「いやなに、ある意味スパイスは私にとっても子どもみたいなもの。いつでも呼んでもらって構わないよ」
篠上教授は、いつもの優しい笑みでそう答えると、
「では私は大学に戻るよ。エリス君も無理しないように」
とエリスの頭を優しく撫で、部屋を後にした。
(本当に、穏やかで優しい先生だな…)
エリスはその温かい手の感触に、心が安らぐのを感じていた。
篠上教授と入れ替わるように、エリスは桜華に駆け寄る。
「オーカさんお疲れ様!すごくカッコよかったよ!」
「ふふ、ありがと。エリちゃんもお疲れ様。今晩は何か美味しいもの食べたいわね……あっ」
桜華は、何かを思い出したように声を上げた。
「どうしたの?」
「いやね、Ver.2.0の調整が難航しているっていうんで、私も駆り出されているのよねー」
「あー、『味覚ジェネレーター』実装の件ね」
嗅覚の先、五感の最後を担う『味覚』の実装。
それはまだ公にされていない、最高機密のプロジェクトだった。
桜華は、これから『知覚反応研究所』で、その機密テストに向かうのだと話していた。
「だからごめんね~今日は私がお食事当番の日だったのに!」
「いえいえ、お仕事なら仕方ないでしょ」
日本に留学することになったエリスの両親は不安を抱えていたが、桜華がルームシェアを提案したことでその心配は解消された。今では二人は、周りから実の姉妹のように親しい関係だと思われている。
「あ、でも『EIO』にはログインするから〜!」
「エ?今晩はお仕事じゃないの?」
「うん、お仕事なんだけど、ロードテストを兼ねてるので、『スパイス』が利用可能な状態であればなんでも良いのよ。それに今日は特訓に行くって話だったでしょ」
桜華は悪戯っぽく笑い、
「次のレイドボス『マスカレネウス将軍』も手強いみたいよ!エリちゃんにメインヒーラーやってもらうからね!」
と、プレッシャーをかけてきた。
(お師匠様モードは厳しいんだから……)
エリスは小さくため息をついた。
❖ ❖ ❖
そして、夜。
『EIO』エターナル・イマジン・オンラインにログインしたエリス――治癒術師『エリス』は、恋人である瀬島悠斗――神聖騎士『ユート』と共に、クランハウス『紅蓮の獅子亭』のラウンジで待機していた。
約束の桜華との『特訓』の時間である。
「……遅いな、桜華姉」
ユートが、ハウスの壁に表示された時計を見やり、呟いた。
すでに、約束の時間は30分も過ぎている。
「うん…。時間、もう過ぎちゃったね」
エリスも不安げに頷く。
彼女は空中にウィンドウを呼び出し、桜華のアバター『サクラ』宛にLINKメッセージを送るが、一向に既読のマークがつかない。
「……だめ。やっぱり既読にならない。スマホにもかけてみたけど留守電にすらならなくて……」
「そっか……。ちょっと俺もスマホにかけてみよう……」
ユートもゲーム内のメニューを操作し、現実世界の桜華のスマートフォンへの発信を試みる。
しかし、呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけだった。
「……だめだ、やっぱり繋がらない」
ユートは眉をひそめる。
ただのゲームの約束ならまだしも、現実世界でも連絡が取れないとなると話は別だ。
「仕事で外泊するのは聞いてたけど、それにしても連絡ひとつ寄越さないなんて、桜華姉らしくないな。」
「テストで何かトラブルがあったのかな…?」
エリスが不安げに呟く。
「考えたくないけど…。それか、あの新しい『スパイス』自体に何か…?」
「まさか…そんな…ボクも設計に加わってるし…」
二人の間に重い沈黙が流れる。
この時、二人はまだ知る由もなかった。
桜華が研究所のVRカプセルの中ですでに意識を失い、その精神が深い闇に囚われ始めていることなど――。
「…どうする?もう少し待ってみるか?」
「…そうね。もう少しだけ待って、来なかったら今日は解散にしよっか」
結局、その夜、桜華がEIOにログインすることはなかった。
悠斗とエリスは、拭いきれない不安を胸に抱えたまま、重苦しい気持ちでログアウトするしかなかった。
❖ ❖ ❖
翌朝。
マンションの自室で浅い眠りについていたエリスの意識を、現実へと乱暴に引き戻したのは、けたたましいスマートフォンの着信音だった。
(……うるさい。オーカさん…?ううん、彼女は昨夜、研究所に…)
寝ぼけ眼でスマートフォンを手に取ったエリスは、その液晶に表示された発信者名に、一瞬で凍りついた。
『シナモン社-保安管理部』
(シナモンの…保安管理部から?どうしてボクに…?)
昨夜からの不安が黒い煙のように形を成していく。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「…ハイ、ハートフィールドでス」
震える指で通話アイコンをタップする。声が掠れていた。
『早朝に失礼いたします。エリス・ハートフィールド様でいらっしゃいますね? 『シナモン社』保安管理部の田中と申します。緊急のご連絡があり、お電話いたしました』
「緊急……ですか?」
『はい。昨日より弊社施設にて、スパイスの味覚フィードバックに関する社内機密テストに参加しておりました、瀬島桜華さんの件なのですが…』
やはり、桜華のことだった。エリスは息を呑んだ。
『本日、予定されていたテスト終了時刻を過ぎてもテストが終了せず、担当者が確認に向かいまいたところ、テストルームから瀬島さんの姿がなく、また、テストに使用していた最新型の未公開VRカプセルも共に所在不明となっていることが判明いたしました。これは極めて異例の事態です』
「エ…?」
エリスは、その言葉の意味を瞬時に理解できなかった。
「オーカさんがいない…の? カプセルごと…?」
頭が真っ白になる。
昨夜のEIOでのすれ違い。繋がらなかった電話。
最悪の事態が、現実のものとなって彼女に突きつけられた。
全身の血の気が、急速に引いていくのがわかった。
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