第1話

 朝、目が覚める。時刻は6時半、予定通りの目覚めだ。ベッドから降りて軽く伸びをする。4月もまだ中旬、春の陽気の中に少し冬の寒さを感じてしまう。少し震えながら部屋を出て洗面所へ向かう。顔を洗い、まだ少し眠気の残っていた眼をサッパリさせる。部屋に戻り、パジャマを脱ぎ捨てタンスを開ける。メイド服を取り出しほつれや汚れを軽くチェックする。これを着るのももう5年目だ。おかしなところがないことを確認し着替えていく。

 着替え終わって時計を見れば6時45分、朝食の用意に取り掛かる。卵とベーコンを焼きあげ、トースターからこんがりと焼けた食パンを出す。皿に盛り付けテーブルに並べる。

 起こすには5分ほど早いけれど、やるべきことは特に無いし、早くお顔が見たくて急ぎ足で、しかしうるさくならないように階段を登り、寝室の前に立つ。少し服を払い、扉を叩く。

「お嬢様、朝でございます。起きてらっしゃいますか?」

 返事がない。気にせず扉を開け、ベッドのそばに歩み寄る。目に映るのは天使のように愛らしい寝顔。この寝顔をもっと見ていたいという気持ちを抑えて、お嬢様の肩を揺する。

「お嬢様、もう起きる時間ですよ。お目覚めになってください」

「あがさぁ……?もうあさなの……?」

 お嬢様の瞼が開く。宝石のような瞳があらわになり、まるで吸い込まれるように見惚れてしまう。

「もう朝ごはんもできていますよ。早く起きてください」

「阿笠……起こして……?」

 白磁のような華奢な両手が私に向かって伸ばされる。こういう時、きっと自分で起きなさい、なんて言うべきなんだろうけれど、

「もう、しょうがないですね……」

 お嬢様に触れたくて受け入れてしまう。脇の下に手を通して抱き上げる。そのどさくさに紛れて首筋に顔を埋める。同じシャンプーの匂い、同じ洗剤の匂い、お嬢様の甘い脳を溶かすような匂いとかすかな寝汗の匂いが鼻腔を満たし幸福を感じさせる。お嬢様の体重を感じながらベッドから下ろす。

「お嬢様、目は覚めましたか?」

「バッチリよ。阿笠、いつもありがとうね」

 当たり前のことにもお礼が言えるお嬢様の優しさが、私欲で匂いを嗅いでいた自分の行いを際立たせて心を責め立ててくる。

「これが私の仕事ですから、お気になさらないでください」

 際立っているところを見ないふりをした。

「阿笠、朝ごはんはなあに?」

「目玉焼きとベーコンとトーストですよ。ジャムとピーナッツバターもあります」

「とってもおいしそう!阿笠、早く食べましょう!」

 お嬢様が私の手を取って歩き出す。寝室からリビングまで1分もしないのに、ずっとそばにいてほしいと言われているようで浮かれてしまう。

 席につき、手を合わせる。

「「いただきます」」

 何も言わずとも声が揃う。これまで過ごした日々の積み重ねに幸福を感じながらトーストにピーナッツバターを塗る。お嬢様の方を見れば、左側にジャム、右側にピーナッツバターを塗っていてその自由さに頬を緩めていると、お嬢様と目が合う。白桃のように可愛らしい頬がみるみると林檎のように赤くなっていく。

「阿笠……笑わないでちょうだい……はしたないのは分かってるから……」

「家の中なんですからはしたなくてもいいと思いますよ。笑っているのはお嬢様が可愛らしいからです。」

 林檎がより熟れる。

「もう!からかわないでちょうだい!」

 拗ねてそっぽを向いてしまう。そんな仕草も可愛くてじっと見つめ続ける。そのうちお互いに笑いが込み上げてくる。

「お嬢様、早く食べないと学校に遅れてしまいますよ?」

「阿笠がからかうからじゃない……」

 笑いながら二人して朝ごはんを食べ終わる。

「「ごちそうさまでした」」

 また声が揃う。

「阿笠の作るご飯はいつでもとってもおいしいわね!」

「ありがとうございます。晩御飯は何がいいですか?」

「阿笠の作ってくれる物ならなんでもいいのだけど……」

「それでは私が困ってしまいます……」

 たわいもない会話をしながら食器を下げる。お嬢様も自分から手伝ってくれる。

「じゃあ、そうね……ハンバーグがいいわ」

「お任せください」

 お嬢様が上機嫌に洗面所に向かう。晩御飯が好物なのがそんなに嬉しいのかと思い、今からやる気が湧いてくる。

「お嬢様、そろそろ着替えないと学校に遅刻してしまいますよ」

歯を磨いているお嬢様に声をかける。

「お着替え、手伝って?」

 ?

 今私はなんと言われたのだろうか?いや、私がお嬢様の言葉を聞き逃すことは無いから分かってはいるのだが。普段より甘えられていてとても嬉しいが、流石に甘えすぎだと叱るべき、と理性が語りかけてくる。

「甘えん坊なお嬢様ですね……今日だけですよ?」

 本能は全く聞く耳を持たなかった。私はこんなに堪え性がなかったのかと結構頻繁に驚いている気がする。私の答えを聞いたお嬢様が、スキップを踏むかのようにるんるんで部屋に戻っていくのを、内心とても緊張しながら追いかける。先に部屋にいたお嬢様がベッドに座りながらボタンを外している。

「阿笠、パジャマ脱がしてちょうだい?」

 蜜に誘われる蜂のようにふらふらと歩き出してしまいそうになるのを堪える。このまま脱衣を手伝ってしまうと、脱がすのがパジャマだけでは済みそうにないし、私が犯罪者の汚名を被りそうで踏みとどまる。

「そこまでできたのなら自分でできますよね?制服は着せてあげますから、ご自身でなさってください」

「はーい……」

 お嬢様の方を見ないようにしながらクローゼットからブラウス、スカート、ブレザーを出す。ブラウスを着やすいように持ちながら、下着姿を見ないように床を注視する。

「別に阿笠なら見てもいいのよ?お風呂だって一緒に入ったことあるじゃない」

「そういう問題では無いのです。早くブラウスを着てください」

「はーい」

 床に向けていた視線が、お嬢様の細いが柔らかさを感じさせる白い太ももに吸い寄せられる。視線が触りたいという不埒な気持ちと、ご飯の量を増やすべきかと心配な気持ちでないまぜになる。

「阿笠、スカートちょうだい?」

「こちらです」

 スカートのチャックを閉め、ホックをとめたのを確認し、お嬢様の前に屈む。リボンを結んでいると、お嬢様が私の頭に手を乗せてきた。

「お嬢様?どうかされましたか?」

「えっとね、阿笠は背が高いじゃない?だから頭のてっぺんって、普段は触れないから、触ってみたくて……イヤだったかしら……?」

 きっと嫌われるんじゃないかと考えているのだろう。しょんぼりとした顔でこちらを見つめている。落ち込んでいても可愛いと思ってしまう。

「いつでもかがみますから、また触りたくなったら教えてくださいね」

 お嬢様の顔がパアっと明るくなる。落ち込んでいてもかわいいけれど、やはりいつもの明るいお嬢様が一番可愛い。

「リボン、できましたよ」

「どうかしら?似合ってるかしら?」

 まだ少し大きいブレザーに身を包んだお嬢様を上から下まで眺める。答えは一つだ。

「とっても可愛らしいですよ」

「ふふ、ありがとう」

 今度は少し恥ずかしそうにはにかむ。どんな笑顔でもお嬢様はかわいい。

「阿笠、髪もお願いしてもいい?」

「もちろんです。何か希望の髪型はありますか?」

「阿笠の一番可愛いと思う髪型でお願い!」

「お任せください」

 いつもの会話に心地よさを覚えながら、ドレッサーの引き出しから櫛を取り出す。

「頭、揺らさないでくださいね」

「はーい」

 お嬢様の長くてふわふわの癖毛に櫛を通していく。鼻歌を歌っているお嬢様に目を細めながら、髪の毛の間から覗くうなじに視線を注ぐ。少しくらいの触れ合いなら許されるんじゃないかと言い訳して、指で撫でる。

「ひぁ……」

 許されないであろう艶やかな声がお嬢様の口から漏れる。

「あ、阿笠……?なんで撫でたの……?」

「その、滑らかなうなじだなと思って……申し訳ないです……」

 本心とは違う言い訳が口をついて出る。不快な思いをさせてしまっただろうかと不安が心を覆う。

「えっと……触りたいなら一言言ってからにしてちょうだい……?びっくりしちゃうわ……」

「承知しました。申し訳ございません」

 そこまで不快に思われてはいないようで良かったが、許してもらえたのだろうか?不安が全て晴れたわけではないが一息ついたところで、お嬢様の言葉を反芻する。一言言ってからならいいのだろうか……?いや、きっと社会的や、倫理的には良くはないのだろうけれど。益体もないことを考えながらも髪を整える手は止まらない。三つ編みの束をピンで留めて、編み込みハーフアップを完成させる。

「できましたよ。お気に召しましたか?」

「阿笠がしてくれた髪型なら全部お気に入りよ!どう?かわいいかしら?」

「もちろんです。とてもお似合いですよ」

 この世で最も可愛いと思っているが、思いの丈を全てぶつけたらきっと引かれてしまうから、一言にまとめて簡単に伝える。

「えへへ……ありがと」

 照れ笑いを浮かべるお嬢様をもっと見ていたいと思うが、時間は無情にも過ぎ去っている。

「もう家を出る時間ですよ。忘れ物はございませんか?」

「昨日宿題を終わらせてすぐに入れたわ。バッチリよ」

 制定鞄を掲げて得意げな顔をしている。

「……入れたわよね?」

 鞄を覗いてホッとした顔を浮かべる。注意深いのもお嬢様の美徳だ。


 二人で玄関へ向かう。

「行ってきまーす!」

「行ってらっしゃいませ」

 ローファーを履いたお嬢様が扉を開けながら駆け出していく。いつも通りの朝だった。


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菖蒲と向日葵 @Barbatos666

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