カイロネイアの決戦①(開戦)

 紀元前三三八年八月一日の夜に、テアゲネスとアポロドロスに向かって神聖隊の指揮官アルキビアデスはこう言っていた。


『明日が決戦の日になるのかもしれないのだぞ』


 彼の言葉は現実のものとなった。


 翌八月二日の正午頃。アテネとテーバイ連合軍は街道を進んできたフィリッポス二世の軍勢を視認した両軍は陣営を出ると戦闘隊形をとり、マケドニア王の侵攻を食い止めるべく対陣したのである。


 カイロネイアの戦いが、テアゲネスとアポロドロスのカップルが戦場で愛の華を散らすこととなった初陣にして最後の戦いの火ぶたが切って落とされた。



 物語の冒頭では神聖隊の指揮官アルキビアデスが突撃命令を発していたが、ここは一旦その少し前から決戦の模様を見ていきたい。


 まず、戦端を開いたのはマケドニア王フィリッポス二世の方であった。


 王は自ら率いるマケドニア軍右翼を前進させ、正面で隊列を組んでいるアテネ軍左翼に攻撃をかける素振りを見せた。


 この動きにアテネ軍左翼も受けて立とうとばかりに前進し、両軍の密集陣形ファランクスはあと少しで衝突するところまで近づいていった。その時である。


「マケドニア軍が後退していくぞ! 追え! 逃がすな!」


 突如としてフィリッポス二世がラッパ手に後退信号を吹き鳴らさせ、それを合図に王の軍勢は敵との衝突直前に後退を開始する。それを見たアテネ軍の指揮官は好機到来とばかりに自軍に駆け足での突進を指示し、自身も眼前の敵に勝利すべく後ずさるマケドニア軍の戦列に猛攻をかけようとした。


 それがまさかアテネとテーバイの戦列を切り離すために仕組まれた、マケドニア王の罠だとも知らずに。


「ん? いけない! アテネ軍が突出し過ぎたせいで、我がテーバイ軍が正面のマケドニア左翼に側面を突かれかねないぞ。おい、進軍ラッパを鳴らせ!」


 テーバイ軍の総指揮官が、友軍であるアテネ軍の猛突進に気付いたのは、自軍の左側面ががら空きになり、隣接していたアテネ軍との間に隙間が生じてからのことであった。彼は慌ててラッパ手に進軍信号を吹かせ、アテネ軍と歩調を合わせて進軍しようとした。が、しかし……。


「父上の立てた作戦通りに敵が動いたぞ! お前たち、馬に拍車をかけろ! この俺に続け! 続けぇーーー!」


 テーバイ軍の正面で戦列を組んでいたマケドニア軍左翼が、その敵の隙を突かないはずがなかった。若き騎馬戦士の号令一下、マケドニア軍はテーバイ軍の左右に展開し、敵を徹底的に殲滅すべく攻め寄せたのであった。


 密集陣形ファランクスが機動力に欠け、また騎兵に側面を突かれると対処できないことは既に述べたが、この時のテーバイ軍はその密集陣形ファランクスの弱点を見事に突かれた格好となってしまった。


「おらおら、どうしたぁ! 俺と対等に渡り合える者はいないのか! 名将エパミノンスを生んだテーバイは強国だと父上から聞かされていたが、実際に戦ってみればなんと他愛のない! 雑魚どもの集まりではないか!」


 戦場でそう吠えた一人の若者は、金髪を風になびかせながら馬上で槍を振るい、迫り来るテーバイ歩兵を突き、突き、突きまくり、槍が折れれば腰から剣を抜いて斬り、斬り、斬り捨てていった。


「ふんっ。つまらない奴らだな。残りは部下に指揮を任せて、俺はひっこんでてもよさそうだな。雑魚狩りは俺の性に合わないぜ」


 瞬く間に、その若者の手で二〇人のテーバイ兵が倒されていた。左手に握られている丸い楯に大きく描かれた英雄ヘラクレスさながらに、彼は他を圧倒する強さを発揮し、そして今では余裕を見せて自分は戦線の後方で観戦を決め込もうとしている。とても常人には理解し難い男であった。


「ヘパイスティオン。俺たちの仕事は終わりだ。さっさと天幕に戻って……。おい、ヘパイスティオン! ちっ、アイツ。絶対に離れないと言っておきながら、いったいどこに行きやがった!」


 若者は苛立ちながらも馬上から戦場を見渡そうとするも、至る所で土埃が舞い上がっているせいで視界を確保できず、それが彼をさらに苛立たせる。


「殿下! こちらにいらしたのですね」


 だがそれも、土埃を突っ切って友軍の騎兵が現れたことで少しは腹立たしさも和らいだようで、若者はそちらに馬首を巡らせると尋ねた。


「俺の愛するヘパイスティオンが今どこにいるか、お前、知ってるか?」


「殿下。それをお伝えに参ったのでございます」


「そうか。それはちょうどよかった。で、アイツは今どこに?」


「神聖隊を相手に熾烈な戦闘を繰り広げていたのですが……」


「いたのですが? おい、それはどういう意味だ! 答えろ!」


 若者に胸ぐらを掴まれて強く揺さぶられること数秒。ようやく、その騎兵は答えた。


「申し訳ありません。殿下。ヘパイスティオン殿は敵の最右翼に配置されていた神聖隊の猛攻を受けて落馬し、我ら騎兵隊はどうにか敵の攻撃をさばきつつ、ヘパイスティオン殿を救い出そうとしたのですが……その」


「待て。ということは、ヘパイスティオンは今も神聖隊の攻撃に晒され続けていて、誰もアイツを助けてやれなかったと、そう言いたいのか?」


「お恥ずかしながら……。ヘパイスティオン殿と一緒に二〇騎ほどの騎兵が随伴し、彼らが敵からヘパイスティオン殿を守り続けているとは思うのですが、それもいつまで――」


「もういい! 俺が神聖隊をぶっ潰して、ヘパイスティオンを助けにいく!」


 若者は居ても立っても居られなくなって、騎兵の言葉を最後まで聞かずに馬に拍車をかけ、神聖隊の配置されていたテーバイ軍の右翼へと一直線に向かう。


 それは後にギリシア世界のみならず、遥か東のペルシア、そしてインド西部にまたがる大帝国を築き、「大王」と称されることとなるフィリッポス二世の息子アレクサンドロスが、テーバイ軍最強の神聖隊に標的を定めた瞬間であった。

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